artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

早川千絵『PLAN 75』

筆者は6月に『誰ための排除アート? 不寛容と自己責任論』(岩波ブックレット)を上梓したが、仕切りをつけた排除ベンチを検討するシーンが登場すると聞いて、早川千絵監督の映画『PLAN 75』を鑑賞した。相模原障害者施設殺傷事件を想起させる冒頭の場面を経て、75歳以上の高齢者に対し、お国のための死を志願することができる制度=「プラン75」を採用した日本という映画の世界観が説明される。特殊効果を用いたSFでもファンタジーでもない。そのまま現在と同じ風景が描かれる。それが、この映画の真に恐ろしい部分だろう。すなわち、生産性がない人間は排除しても構わないという日本を覆う空気と、『PLAN75』の映画が地続きであることが端的に示される。そして市役所では「プラン75」の申請窓口を担当する行政マンが、公園のベンチで寝られないよう、業者と仕切りを検討する短い場面も、効果的に挿入されていた。最初からプロダクトとしてつくられたものではなく、いわゆる後付けタイプの排除ベンチである。躊躇することなく、どの仕切りが良いですかねと会話するのだが、その無邪気さこそがリアルだった。

『PLAN 75』が秀逸なのは、複数の視点から、この制度をとりいれた日本を描いていることだ。限られた登場人物は、以下の通り。突如解雇され、住居も失いそうになり、「プラン75」という選択を考えるようになった一人暮らしの78歳のミチ、市役所につとめるが、やがて制度に疑問を抱くヒロム、死を選んだ年寄りをサポートするコールセンターのスタッフ瑶子、そして娘の手術費用を稼ぐため、介護職から「プラン75」関連施設における遺品整理の仕事に転職したフィリピン人のマリア。弱い人たちばかりである。逆に一体どんな政治が、少子高齢化による財政難の解決策として「プラン75」の制度を導入したのかは、まったく描かれない。権力者の不在を批判する向きもあるだろうが、日本国民の大勢がなんとなくそれで構わないと思うからこそ、こうなってしまうのではないか。本来、こんな社会をつくらないために、政治は重要なのだ。『PLAN75』における姥捨山的な設定は、社会に不要な人間の切り捨てを機械的にこなす現代の似姿にほかならない。

公式サイト:https://happinet-phantom.com/plan75/

関連レビュー

名古屋の排除アート|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年04月15日号)

2022/06/20(月)(五十嵐太郎)

康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009):MOTコレクション 光みつる庭/途切れないささやき

会期:2022/03/19~2022/06/19

東京都現代美術館[東京都]

映像のなかでひたすらに雪かきを続ける人物が、康夏奈(1975-2020)である。この作品は康がアーティストインレジデンスでフィンランドに滞在していたときに制作された。康は映像の冒頭ですでに凍った湖の上に立っていて、うすく積もった雪にはグリッド状の線が入っている。その線に沿って、康は除雪用のシャベルで雪を掻いては隣のマス目に雪を載せていく。全編、遠目に康の身振りが見えていて、表情は見て取れない。降り続ける雪に落胆しているのか、淡々とした様子なのかもわからないが、ズボンと靴が黒っぽいから、盛った雪のエッジはこわさないように、雪かきを済ませた箇所から次の作業箇所へと移動するときの慎重な様子はうかがい知ることができる。やっと白と黒のコントラストがはっきりしてきたかと思えば、雪の勢いは増し、掻いても盛っても降り続け、また全体的に白くなる。数分見ていると映像は早回しになり、康がより一層キビキビと氷上を動き回る。

SHAKKIというのはフィンランド語でチェスを意味する。康は何とやりあっていたのだろうか。白と黒、どちらが康かといえば、白い雪に触れないようにしていたからおそらく黒が康だろう。広大な領域に境界線とルールを定めることで、やっと康は白い陣営であろう雪と攻防を繰り広げることができる。でもこれは定められた負け試合。時間もスケールも動かせるエネルギーも枠外の世界。でもそれをもう一度枠内に引き入れることが康にはできた。映像での撮影だ。映像が黒と白の一進一退を、康が雪かきを続ける時間と空間だけに限定することで、無限に循環させる。映像の終盤には、キッチリと雪を掻き分けきった状態がよくわかる、寄り気味の写真が数枚挿入されているが、最後は白くフェードアウトする。少し時間が経つと映像はループされ、また康は戻ってきて、途切れなく白の陣営と格闘を始めることになる。けれども、映像を編集した康はこのチェスの行方に満足しているはずだ。


康夏奈(吉田夏奈)《SHAKKI - black and white on the lake》(2009)


康夏奈(吉田夏奈)《花寿波島の秘密》(2013)個人蔵
「瀬戸内国際芸術祭」(香川県小豆島、2013-19)展示風景[Photo: Yasushi Ichikawa]


公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-collection-220319/

2022/06/12(日)(きりとりめでる)

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河瀬直美『東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B』

河瀬直美監督による東京オリンピック2020の公式映画『東京2020オリンピック SIDE:A』と『SIDE:B』の両方を鑑賞した。その際、筆者にとっては初めての体験が2つあった。ひとつは、『SIDE:A』では仙台駅前のシネコンに出かけたが、134席のシアターを一人で独占したこと(過去にあるホラー映画で危うくそうなりかけたが、開演直前に一組のカップルが入り、回避した)。映画も「無観客」と揶揄されていたが、確かに噂通りに少ない。スポーツ好きの層とドキュメンタリー映画を見る層が重ならないことも一因だろう。また1936年のベルリンオリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタールの作品『オリンピア』と違い、一流のアストリートの躍動感やスペクタクル性はない。当初、国策映画になるのではと心配されていたが、河瀬の『SIDE:A』は、国威発揚や勝敗の結果を示す場面はスルーし、グローバル基準のジェンダー、難民、BLMなどを軸に、人間として各国の選手を描く。特に子育てをめぐって、海外と日本の女性選手が異なる状況だったことは印象深い。彼女の作家性が発揮されており、良い意味で予想を裏切った。もっとも、本来ならば、限られたミニシアターで公開する作品が、間違って全国で展開するシネコンのスクリーンに来ちゃったような居心地の悪さも感じた。

さて、『SIDE:B』の方は、正しくシネコンの55席のシアターで鑑賞し、約10名の客がいた。個人的に初めてだったのは、公開初日の午前というタイミングである。やはり、日本で夏のオリンピックが開催され、その公式映画を見られることは、もうしばらくはないことを考えると、チェックすべき作品だろう。実際、好き嫌いは別にして、批評をしたくなる映画であることは事実だ。もっとも、強い作家性ゆえに、思ったよりも良かった『SIDE:A』に対し、『SIDE:B』は逆に作用し、中途半端で未整理のドキュメントになってしまった。オリンピックを裏で支えた人たちに焦点をあてるという触れ込みだったが、内容はいわばドメスティック編で、日本で何が起きていたかを振り返るものである。ただし、あまりに高速で膨大な情報を流しているため、個別には深掘りされることはなく、一連の事件や問題はいくつか触れてはいるものの、密着ならではの新情報はあまりない。画面に映る時間の長さを考えると、主要な登場人物となった森喜朗元首相やIOCのバッハ会長、あるいは電通やCMディレクターの佐々木宏に対し、批判的に解釈できるシーンはあるが、社会派のドキュメンタリーのようなツッコミはない。なお、映画のパンフレットによれば、公式映画のチームであっても、開催期間中の選手、選手村、食堂などへの取材やインタビューに大きな制限がかけられていたことは意外だった。河瀬の興味は、100年後の観客だという。それゆえ、オリンピックにおける平和の理念を確認したり、未来の子どものほんわかな雰囲気のシーンを挿入していたが、結局、監督の個人的な感情によって、オリンピックが抱えていたさまざまな問題を覆い隠し、美化している。また自分の映画のなかで、あらかじめ未来の子どもがオリンピックを語る場面を入れてしまうのは、演出として稚拙ではないか。



公式サイト:https://tokyo2020-officialfilm.jp/

2022/06/06(月)、2022/06/24(金)(五十嵐太郎)

二人(宇田川直寛、横田大輔)「石が降る」

会期:2022/05/14~2022/06/12

TALION GALLERY[東京都]


本展は、ライトノベルやアニメに見られるフォーマットを踏まえて、「八王子隕石」「錬金術」「新東京ダイヤモンドボウル」という3章立ての物語に基づいて構成される。

(プレスリリースより抜粋)


え? そうだった?

2019年に結成された二人(宇田川直寛、横田大輔)による展覧会。多くの平面や立体作品は、バライタ印画紙で作成されていて、会場の隅には使い古された写真乳剤とシリコンオイルがガラス瓶に入って並ぶ。「フィルム写真の現像についての解釈のバリエーションの模索?」と思いながらも会場を見回す。窯で火にかけられたテラコッタの映像とその出来上がったもの。印画紙に焼き付けられた平面作品の名は「壺」「石」「人」。印画紙を折ってつくられた人形たち。人形は音に反応してカタカタ動く。「人」「不老長寿」を生成せんとする錬金術と、人の「似せ絵」を生成する写真術の目的と技術が重なる可能性が軽やかに示唆されている。動く人形たちは生きているか死んでいるか、魂があるかないか。蘇生や延命というより、新たなものの生成としての写真と錬金術★1


二人(宇田川直寛、横田大輔)《パーティータイム(石が降る)》(2022)テラコッタ、接着剤、石膏、映像
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


横田大輔《Untitled(写真)》(2022)ガラス瓶、写真乳剤、シリコンオイル
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


左から
二人(宇田川直寛、横田大輔)《壺(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《石(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
二人(宇田川直寛、横田大輔)《人(石が降る)》(2022)バライタ印画紙、木パネル 160×92cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



会場で入手できたテキスト「石が降る」を読んでみる。


我々は〔…〕物語が始まるのを辛抱強く待っていた。ラノベやアニメの世界では物語は向こうからやってきて主人公を巻き込みながら事件を繰り広げる〔…〕いい写真が撮れない〔…〕我々は主人公ではなく〔…〕中年男性〔…〕八王子市役所のホームページで200年前に落ちた隕石をまだ探している〔…〕「我々は隕石を探しているのです」と人に話しかけ始めた。


「いい写真が撮れない」という苦悩が、ロードムービーの導入のように書かれていた。いい写真。テキストでそれは「事件があるかないか」という暫定的な基準が仄めかされている。中年男性には事件がないという己の幸運さと、それを悲しむ後ろめたさが、突拍子もない問いで動き出す。「我々は隕石を探しているのです」。

立体や平面を一式見てからやっと注意が行ったのだが、会場には声が流れている。二人の写真についての語りが、違う人物によって棒読みされた声。隕石の行方から飛躍して、どこかで聞いたことのあるような怪奇現象について話す人の声。物語が動き出したかと思えば、収集した出来事は類型的なものだった。これも「事件」にはたどり着かない。

ライトノベルの筋書きだったら、ある日、主人公の住む場所に隕石が落ちて、自分だけ助かり、愛する人々を失い、錬金術に没頭して、すべてを元通りにしようとするが、それは叶わず。しかし、驚くべきことに隕石は天災ではなく、実は存在した黒幕を打倒して、新しい場所で喪失を回復する物語になるかもしれない。でも、二人は隕石が落ちてこなくても、写真術=錬金術に平素から取り組んできた。


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《ダイオウイカ》(2022)バライタ印画紙、箱(PET板、ボンド)12×34×77cm
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY



過剰な高温現象〔…〕毎日そんな作業を続けているとしまいに肌まで爛れてめくれてきた〔…〕まるでフィルムみたいで〔…〕逆に〔…〕フィルムは自分の身体なのだ〔…〕良い錬金術師は良い性格でなくてはならない。心的内容は物質に投影されるからだ。


爛れた自分の手にフィルムと連続する物質性を見出すと同時に、フィルム現像の環境負荷に思いを馳せた人物は、錬金術師であったら、手が石になるなんてことは「悪い」錬金術師の証明になってしまうと考える。でも、それはどうなのと写真家はつぶやく。「それはそれは失礼な話じゃないの」。こうして錬金術から写真家は袂を分かつ。写真を拡張するため過去に無理に遡及する必要なんかないと。二人が次に向かうのは、ラッセンのポスターが貼られた喫茶店のある、昔ながらのボーリング場、「新東京ダイヤモンドボウル」。


それで物語は始まる。という事で、ここがその場所に違いないと思ったのだ。


このようにして、何にも声をかけず、また二人は待つことにしたようだ。本展はかくして、写真になる瞬間を待つこと自体が造形された、主人公じゃない二人の何も起こらないロードムービーに終着した。

さて、ここで終わってもいいのだが、「声かけと写真」を考えるうえで、例えば、2016年の開催から批判を受けてきた「声かけ写真展」という公募グループ展がある。その応募規約には「こども (学齢期以下の人物) に声をかけて、承諾を得て撮影した、未発表の写真作品。被写体に声をかけ、本人の同意を得て撮影したものにかぎります。親権は同意を意味しません」と書かれ、子どもと撮影者の関係が友達のようにフラットであるなかでの許諾に重きを置くがゆえに、保護者への許諾を主催者は一蹴し続けている。

しかし、ウェブサイトや投稿写真(Twitterのハッシュタグで辿ることができる)の言葉や写真から、子どもというのが「少女」に限定され、撮影者は「おじさん」だと自己規定をし、「おじさん」が未就学者の無知に付け込むという状態自体への快楽、あるいは直接的な性的消費が目的なのではないかと強く批判されてきた。2022年も「声かけ写真展」は作品を募集しているが、①声かけ写真と②リミナルスペースの2部門になっている★2

「リミナルスペース」とは、英語圏中心の画像投稿サイト「4chan」を中心に起こった写真文化のひとつだ。普段は人で賑わうショッピングモールや駅や街といった場所に誰も人がいないことで引き起こされるサスペンス、異化効果が起きた風景への愛好、またはそれを撮影した写真のことであり、ひいてはゲームキャラクターのいないワールドのキャプチャーも包含する、風景写真のジャンルでもある。近年はCOVID-19で静まり返る都市が撮影された際、多くのものが「リミナルスペース」「#liminalspace」としてSNS上でタグ付けされた。

その一方、「声かけ展」で銘打たれた「リミナルスペース」は、より狭く再定義されている。「声かけ写真がしあわせに行なわれていた(はずと心象に刻まれる)空間」。その写真に人はいないが、幼い子どもの痕跡を辿ろうとするがゆえに、ハッシュタグで紐づけられた写真の多くは、広域な風景写真ではなく、身長が100cm程度の子どもの移動範囲をおさめる、カメラは地平に対して見下ろす角度のきつい、奥行きの浅い写真になっている。多くの「リミナルスペース」は風景の異化効果を増大させようと、より広い領域の人間の不在を求めるため、構図上の消失点はどこまでも深くとるのがセオリーであるから、「リミナルスペース」のSNSタグの海のなかで数点だけアップロードされている、「#声かけ写真展」の「#リミナルスペース」はそういう異質性がある。

本展の写真も人は不在である。だが、リミナルスペース写真と違って、いつも人が閑散としてそうな、うらびれた場所が被写体であったり、走る車の速度のままのブレた写真であるから、撮影されているのはむしろ「移動」で、それを行なっている「二人」の肖像であると言えるだろう。水が入ったグラスも二人のものだろうし、二人の痕跡しかない。地面に対して垂直に視線が向けられた写真も、ノーファインダーで撮影されたような二人の移動する足である。風景写真であるが、それよりも二人の存在へ折り返される写真。「声かけ展」の風景写真はもちろん、子どもの不在を通して子どもの姿を求めているのだが、ゆえに存在を求める撮影者だけが撮影の場に存在する。鑑賞者は痕跡に何も求めるものがないので、撮影者の存在をより強烈に感じる。二つのリミナルスペースも、二人の写真のいずれの風景写真も、そこにいるのは撮影者だけだ。

二人は事件が起きるのを待っている。しかし、二人は、事件は起きちゃいけないし、事件を撮っていいと言えるのかと思いつつ、待つことを考えるのだ。本展はそれを「待つふり」と言ったりはせず、事件を待ち続ける写真家の自写像の展覧会と言えるだろう。



横田大輔《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×25cm
宇田川直寛《Untitled (石が降る) 》(2022)ラムダプリント 17.4×26.1cm
左から1、3、7、9、10番目の写真が横田大輔作品、それ以外の5点が宇田川直寛作品
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY


二人 (宇田川直寛、横田大輔)《相模原、若葉 (二人のショー) 》(2020)映像 37分40秒(相模原)、37分58秒(若葉)
[撮影:木奥恵三]Courtesy of the artists and TALION GALLERY





★1──本展では錬金術師と写真家が対比的だと言えるが、例えば、打林俊は不老不死や物質の変化を求める錬金術師と写真を発明するに至る科学者ニエプスの違いを、硝酸銀と塩が日光で黒化する事象から、画像の定着に向かったか否かにひとつの分水嶺があるのではないかと提起している(打林俊「錬金術と空想科学からみる写真」/『写真の物語──イメージ・メイキングの400年史』森話社、2019、pp.201-206)。
★2──「声かけ写真展」のウェブサイトは以下の通り。https://www.koekakephoto.net/(2022.6.23閲覧)

2022/06/05(日)(きりとりめでる)

佐々木友輔『映画愛の現在』スクリーニング:第14回恵比寿映像祭「スペクタクル後」

会期:2022/02/12(上映日)

東京都写真美術館[東京都]

この作品は佐々木友輔が鳥取大学に着任することに端を発している。「日々、浴びるように映画を観なければ、優れた作品はつくれない。優れた文章を書くことはできない」と考えていたら、鳥取には映画館が3館しかなかった。

しかしながら、鳥取にもシネフィルがいた。佐々木はたくさんの映画を愛する人たちに車で会いに行く。何人もの言葉を聞いていくと、地域によって映画との向き合い方の傾向が見えてくる。東部は自主上映に注力していて、中部は制作者が多く、西部はコミュニティづくりといったように。上映のために動き回って映画が観れなくなって「映画を観るだけでいれたら」と愚痴をこぼしたり、「気付いたらこうなってた」と映画祭の運営の代表になった人、人の顔と言葉。映画愛は人をここまで奮い立たせる。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


第2部は、佐々木が映画とどのように向き合ってきたのかというモノローグが挟まる。自分がどのように映画を観ようとしてきたか。そして、本作の編集が誰によって行なわれているのかが言及されていく。本作の編集は、佐々木の鳥取大学のゼミ生だった井田遥だ。佐々木が自作の粋とも考えていた編集を、ソフトを覚えたての井田がめきめきと上達し、仕上げていく。佐々木はそれに衝撃と感慨を覚える。その感情は観客も同じだっただろう。映画を愛する人はいた。それを来鳥した佐々木がひとり奮闘して仕上げたのが《映画愛の現在》なのかというと、まったくそうではなかったのだ。ふいにバトンが渡された瞬間を目撃する。音楽が鳴る。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅱ部/旅の道づれ』(2020)103分


作中、シネフィルたちへのインタビューに必要な移動と比例するように、頻繁にドライブシーンが挿入されている。その風景の連続は、鳥取ではないどこかを思い起こさせるのに十分なほど、私が住んでいた土地に似ていた。でも、鳥取のように、こんな風に映画を愛する人が、あそこにもいたんだろうか。佐々木の『映画愛の現在』は作品であると同時に、任意の形式を考えるうえでの方法論の極みだ。観賞したら、鳥取とどこかを思い比べて、思考をドライブすることになるだろう。このとき、鳥取は世界の中心となるのだ。


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分


佐々木友輔『映画愛の現在 第Ⅲ部/星を蒐める』(2020)107分



第14回恵比寿映像祭 『映画愛の現在』上映詳細:https://www.yebizo.com/jp/program/57370

2022/06/01(水)(きりとりめでる)

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