artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

シアターコモンズ’21

[東京都]

昨年はシアターコモンズのプログラムに参加したのを最後に、コロナ禍によってかなりの期間、観劇する機会が失われた。そうすると、パフォーミング・アーツをめぐる状況が変わってから丸1年たったわけである(ちなみに、初めてマスクをつけて展覧会に行ったのは、昨年2月の「第12回恵比寿映像祭」だった)。前回もVRによる小泉明郎の『縛られたプロメテウス』や、壇上の二人が発話しないジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレの『快適な島』など、すでにポストコロナを予感させる作品はあったが、今回は社会の動向を見すえたうえで、VRやARを本格的に活用した作品を用意しながら、新しい可能性に挑戦していた。

以下、空間に着目して、体験した作品をまとめておく。ツァイ・ミンリャン『蘭若寺(らんにゃじ)の住人』は、六本木のビルで椅子に座って、HMDを装着し、VR映像の空間に没入する。病の男が佇む廃墟の美を彩るのは、水と光と緑だ。本作を演劇の延長と捉えるなら、壁はあっても、普通の舞台なら、見えない/つくらない天井の染みを自由に眺められるのが興味深い。

スザンネ・ケネディほか『I AM(VR)』も、完全なVRの映像だが、少しだけ体を動かすことができる。最初の閉鎖的な空間から、どんどん世界が広がり、かなり没入感の高い体験だった。あえてゲーム的な空間を創造したようだが、ここまでできるなら、建築、インテリア、ランドスケープのデザインをもっと洗練させる余地があるのではないか。

一方で、中村佑子『サスペンデッド』は、東京ドイツ文化センターに付設された家の中を歩き、病の親をもつ子供を主題とするAR映像を体験する。各部屋で実際に窓から光が差し込み、影が揺れるのだが、それと仮想の映像スクリーン(=もうひとつの窓)の共存が印象的だった。この効果は、晴れた日の昼頃がベストかもれない。

そしてもっともハイブリッドな作品だったのは、小泉明郎『解放されたプロメテウス』である。これはAR(横たわる仮想のベトナム人が5名出現)と、VR(それぞれが実際に見た夢の世界への没入)が切り替わるタイプの体験を味わう。一部の場面では、会場がSHIBAURA HOUSE 5階のガラス張り空間であることも効果的だった。さらに、帰りにもらうプリントのQRコードから、動画「もう一つの夢」にアクセスし、鑑賞するまでが小泉の作品と考えるべきだろう。別の視点から、自らの体験を振り返ることになるからだ。

ところで、新橋エリアで開催された高山明による「光のない。─エピローグ?」は、ラジオというアナログなメディアを使いながら、個別にセルフツアーによって、街に埋め込んだ福島と重なる場をたどるという意味で、実は三密を回避し、もともとポスト・コロナにもぴったりの上演の形式だったのは興味深い。むろん、これはコロナ以前から実践していたものだが、コロナ禍によって、ポスト・シアターの意味が鮮明になったと言えるかもしれない。なお、詩の朗読を聴くために耳は奪われるものの、視覚は解放されているので、せんだいスクール・オブ・デザインのスロー・ウォークのように、普段はじっくり見ないビルの細部も思わず観察することになった。改めて、電線と配線の多いことに気づかされるが、これらも本作がテーマとしていた東京電力が供給する電気が、こうした街の風景をもたらしている。

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/


2021/02/11(木)(五十嵐太郎)

燃ゆる女の肖像

18世紀のフランス革命前のフランスにおいて、女性の画家マリアンヌが、見合いに使うために、伯爵夫人の娘エロイーズの肖像画を描くことを依頼され、小舟に乗って、ブルータニュの島に渡るところから物語は始まる。言うまでもなく、リンダ・ノックリンが「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」(1971)で論じたように、あるいはゲリラ・ガールズが、女は裸にならないと美術館に入れないのか(すなわち、作品の題材としてのみ消費されている)と抗議したように、美術史は男性中心の世界観でつくられてきた。そうしたジェンダー論的な意味で、実在はしていたが、歴史に埋もれていた女性の画家(ただし、本作は架空の画家を設定している)を主人公とした映画という意味で画期的な作品である。また映画に登場する画家も、しばしば男性だろう。しかも本作では、マリアンヌとエロイーズの秘められた恋愛を通じ、クィアの切り口もあわせもつ。そもそも、この映画の島のシーンでは、ほとんど男性が登場しない。召使いのソフィ、そして島の女たち。しかし、冒頭と最後に描かれる都市は、男社会である。

とにかく、全編映像が美しい。それだけでも十分に見る価値のある傑作だ。さらに絵描きの映画というジャンルから考察しても、ここまで丁寧に見る/見られるの関係を主題化したのは稀かもしれない。エロイーズを見るマリアンヌの顔が、繰り返し登場する。最初は散歩をしながら観察し、後から記憶で描くのだが、途中からはモデルになった彼女を凝視するのだ。じっとしているマリアンヌもまた、エロイーズを同じように見ている。一方的なまなざしではない。交差する視線の映画である。そして冥界から妻をとりもどす詩人が「決して振り返ってはならない」と警告される、オルフェウスの伝説をめぐる会話が効果的に挿入されている。それは、二人が離れた席にいる劇場のラストシーンにおいて、いやおうなしに思い出されるだろう。ところで、映画がよかったので、パンフレットを購入したのだが、あらすじをなぞるような文章ばかりで、内容が薄いのが残念だった。せめて美術史やジェンダー論の専門家に寄稿を依頼すべきだろう。


公式サイト:https://gaga.ne.jp/portrait/

2021/01/04(月)(五十嵐太郎)

罪の声

会期:2020/10/30~未定

TOHOシネマズ、EJアニメシアター新宿ほか[全国]

本作のモチーフとなった「昭和の未解決事件」を私はよく覚えている。当時、小学生であったが、身近な製菓会社がターゲットにされたことや、ふざけた名前の犯人グループ、新聞社に何回か送り付けられたおちょくった文面の脅迫状などが、子ども心にも印象深かったからだ。当時、近所の駄菓子屋やスーパーマーケットの店頭から、保安上、菓子が一斉に消えたときは、この事件の深刻さを肌身に感じた。「遠足のお菓子が買えない!」という小学生ならではの悩みもあいまって。だから本作の原作が発売された途端、私は夢中になって読んだ。多くの読者が感じただろうが、原作はフィクションであるにもかかわらず、本当にそうだったのではないかと思わせるほどの迫力があり、心が震えた。想像上とはいえ、つまり誰もが「昭和の未解決事件」の真相を知りたがっていたのである。そして私は小学生ゆえに知り得なかったが、当時から推測されていた犯人グループの真の狙い、株価操作で大金を得るという手法に舌を巻くと同時に、それに関わる社会の闇をも知ることになった。

さて、本作も原作にほぼ忠実に見事に描かれていたのだが、演出のせいか、映像ゆえの特性なのか、感情により訴える作品となっていた。タイトルが「罪の声」であるとおり、キーとなるのは犯人グループが犯行に使った「子どもの声」である。何も知らずに犯行に加担させられた3人の子どもたちの“その後”が描かれるのだが、特に本作では不幸な道を辿らざるを得なかったある姉弟の人生に胸を締め付けられた。実際に「昭和の未解決事件」でも、同じような運命を辿った子どもたちがいるのかもしれないと想像を巡らせると、また切なくなるのである。

なぜ、製菓会社や食品会社が事件のターゲットとなったのか。それは株価操作をしやすかったからと原作では描かれる。また昭和時代は菓子の包装の仕方が緩かったことも事実で、店頭で比較的簡単に「毒物」を混入することができた。実際に「昭和の未解決事件」を機に、ターゲット外の製菓会社でも商品の包装を厳重に行なうようになったと聞く。そうしたデザインやマーケット面を見てみても、「昭和の未解決事件」は社会を大きく揺るがした事件であり、それを真っ向から題材にしエンターテインメントにした本作は賞賛に値する。

©2020 映画「罪の声」製作委員会


公式サイト:https://tsuminokoe.jp/

2020/12/23(水)(杉江あこ)

トヨダヒトシ映像日記/スライドショー

会期:2020/12/19、25、26

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

トヨダヒトシはニューヨークに在住していた1993年から、駐車場や公園、教会、劇場などのパブリック・スペースで、スライドショーの形で自作の写真を上映し始めた。もはや旧式になってしまったスライド・プロジェクターを使って、一枚ずつポジフィルムを手動で送りながら上映していく。途中に言葉(字幕)が映し出されることはあるが、基本的には写真が淡々と壁に映写されるだけだ。音楽等の音響も一切使わないので、観客は沈黙のまま画像を見続けるしかない。

トヨダはそのやり方を続けて、1990年代後半からは日本の美術館やギャラリーでもスライドショーを開催するようになった。時には廃校になった小学校の校庭などで、野外上映を行なうこともある。今回のふげん社のイベントで上映されるのは、1999年に初公開されたスライドショーの第一作の「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」(12月19日)、2004年の「NAZUNA」(12月25日)、2007年の「spoonfulriver」(12月26日)の3作品である。そのうち、19日の「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」の回を見ることができた。

実は3作品とも前に見たことがある。とはいえ、かなり前のことなので、その細部はほとんど覚えていない。そこにスライドショーという表現の面白さもあって、見るたびに新たな発見があるし、上映環境の違いによってかなり異なった印象を受けることにもなる。今回もそのことを強く感じた。 トヨダのスライドショーは自分自身の体験を綴った「映像日記」であり、「An Elephant’s Tail─ゾウノシッポ」では、1992-97年ごろの彼の身の回りの出来事が3部構成(約35分)で映し出される。窓からの眺め、迷い込んで来た猫、一緒に暮らしていた女性、エンパイア・ステイト・ビルの最上階での記念写真撮影のアルバイト──その合間に植物は育ち、花が開いては枯れ、狩人蜂は互いに殺し合い、夏から冬へ、また夏へと季節は巡る。その、見方によっては退屈極まりない日常の眺めが、瞬いては消えていくスライドの映像として再現されると、切々とした、不思議な輝きを帯びて見えてくる。トヨダのスライドショーの視覚体験には、魔法のような力が備わっていることを、あらためて確認することができた。

2020/12/19(土)(飯沢耕太郎)

眠り展:アートと生きること ゴヤ、ルーベンスから塩田千春まで

会期:2020/11/25~2021/02/23

東京国立近代美術館[東京都]

写真は現実世界を描写するメディアだから、眠りや夢とはあまりかかわりのないように思える。だが、東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催された「眠り展」には、かなり多くの写真作品が出品されていた。第一章「夢かうつつか」のパートに、マン・レイ「醒めて見る夢の会」(1924)、瑛九「眠りの理由」(1936)、楢橋朝子「half awake and half asleep in the water」(2004)が、第4章「目覚めを待つ」のパートにダヤニータ・シン「ファイル・ルーム」(2011−13)、大辻清司のオブジェをテーマにした連作(「ここにこんなモノがあったのかと、いろいろ発見した写真」ほか、1975)が並ぶ。それ以外にも、塩田千春、森村泰昌の映像作品も出品されていた。

眠りや夢は日常や現実の対立概念ではないことが、写真や映像の展示作品を見ているとよくわかる。むしろどこからどこまでが幻影なのか、現実なのかという境界は曖昧なものであり、写真はその両者を結びつけ、リアリティを与えるのに大きな役目を果たしているということではないだろうか。シュルレアリスムの作り手や批評家たちは、写真が現実を克明に描写すればするほど、神秘性、非現実性が増すことを指摘した。そのことが、本展ではくっきりと浮かび上がってきていた。逆に写真作品に絞り込んだ「眠り展」の企画も充分に考えられるのではないだろうか。

なお、本展は独立行政法人国立美術館に属する東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、国立新美術館、国立映画アーカイブの6館の共同企画「国立美術館による合同展」の枠で開催された。これまで「陰翳礼讃」展(国立新美術館、2010)、「No Museum, No Life?−これからの美術館事典」展(東京国立近代美術館、2015)が開催され、今回の「眠り展」が3回目になる。国立美術館の収蔵作品の総数は4万4千点に及ぶという。それらを活用した、より大胆かつ新鮮な企画を期待したい。

2020/12/05(土)(飯沢耕太郎)

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