artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island ─あなたの眼はわたしの島─

会期:2021/04/06~2021/06/20(会期延長)

京都国立近代美術館[京都府]

夏に水戸芸術館にも巡回するが、京都市美の「平成美術」のついでに見た。インスタレーションだから会場によって作品の見せ方が異なるはずだし、なにより美術館が向い側だし。これは好都合。

ふつう国際展では何百点もの作品を一気に見るので、数年も経てば大半を忘れてしまうものだが、いい悪い、好き嫌いに関係なく、妙に記憶に残る作品というのがある。経験的にいうと、そのアーティストはその後たいてい世界的に活躍するようになる。1997年のヴェネツィア・ビエンナーレで見たピピロッティ・リストがそうだった。若い女性が楽しそうに、路上に止めてある自動車の窓を叩き割っていくというマルチスクリーンの映像作品で、衝撃的な内容とは裏腹の軽快な音楽、鮮やかな色彩、スローモーションの上映に、どう反応していいのかわからない不思議な感覚に襲われ、「ピピロッティ」という軽やかな名前とともに深く記憶に刻まれたのだ。ちなみに、彼女の本名はシャルロッテ(ロッティ)だそうで、『長くつ下のピッピ』から拝借した「ピピロッティ」という愛称を、そのままアーティスト名にしたという。

展示会場へは靴を脱いで上がる。他人の家にお邪魔するみたいな親密感とワクワク感がある。口の字型の暗い会場をぐるりと回りながら(前半は迷宮巡りのよう)、映像インスタレーションを見ていく、いや体験していく仕組み。ソファやベッドが置かれているところもあり、みんなくつろいで鑑賞している。彼女の作品は、華やかな色彩や軽快なサウンドもさることながら(内容はジェンダーや身体、自然など必ずしも軽いものではない)、映像が垂直の壁面だけでなく、天井や床、家具や食卓、衣類や陶器などあらゆる場所に投影されるため、見る側の視点が固定されず、観客に気ままにくつろいで見ることを要求するのだ。昔「ヴィデオ・アート」と呼ばれていたころから映像作品の鑑賞には窮屈さが伴うものだったが、ピピロッティがその可能性を大きく広げ、楽しめるエンタテインメントに仕立て上げたひとりであることは確かだろう。

2021/04/09(金)(村田真)

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「約束の凝集」 vol. 3 黑田菜月|写真が始まる

会期:2021/03/16~2021/06/05

gallery αM[東京都]

インディペンデントキュレーターの長谷川新の企画による連続展「約束の凝集」の第3弾として、黑田菜月の「写真が始まる」展が開催された。黑田は2013年の第8回写真「1_WALL」展でグランプリを受賞するなど、写真家として着実にいい作品を発表してきた作家だが、今回は30分近い映像作品を2本出品している。両方とも「写真を見る」ことをテーマにしており、これまでの仕事との継続性も感じられた。横浜市金沢動物園で、小学生たちが「問題チーム」と「推理チーム」に分かれ、写真に写っている動物についてやりとりする「友だちの写真」も面白かったが、もう1作の「部屋の写真」の方がテーマとその描き方に切実性があり、見応えのある作品に仕上がっていた。

画面にはまず、どこかの部屋で撮影された写真のプリントが映し出される。見ているうちに、それが介護の現場で撮影されたもので、それについて語っているのが部屋の住人に長く関わってきた介護者であることがわかってくる。彼らは、写真に写っているモノについて、こもごもその記憶を辿り、かつての住人たちの姿を描写していく。ここで見えてくるのは、1枚の写真が、それを見る者の記憶や経験や被写体との関係性によって、薄くも、厚くも、表層的にも、深みをもつようにも、いかようにも語られうるということである。「写真を見る」という行為そのものの多義性と可能性を、思いがけない角度から照らし出すいい仕事だった。それとともに、これは自戒を込めていうのだが、われわれが普段、1枚の写真をほんの短い時間しか見ていないことがよくわかった。画面に固定画像で写真が映し出される時間が、とても長く感じるのだが、測ってみるとほんの2分余りなのだ。「写真を見る」ことを、ただの一瞥で終わらせてしまうことが、あまりにも多いのではないかとも思った。

2021/03/24(水)(飯沢耕太郎)

シン・エヴァンゲリオン劇場版

[東京都]

24年も前に筆者が「artscpae」に寄稿したテキストのリンクがまだ残っていた。「いかにエヴァンゲリオン・スタイルは生成したか―『新世紀エヴァンゲリオン劇場版/シト新生』」である。TVシリーズでは結局、物語が終わらず、一般社会でもブームが盛り上がっていたタイミングで公開され、期待を集めていた旧劇『シト新生』は、呆気にとられる内容だった。もっとも、映像のセンス、スピード感、圧縮された情報、メタ的な表現などは嫌いではなかった。なにより、大エヴァ本のひとつだが、謎本になることを避けて批評のアンソロジーとした『エヴァンゲリオン快楽原則』(第三書館、1997)は、筆者の名前が背表紙にのった最初の本だったから、特別な作品である。ともあれ、21世紀に入り、庵野秀明によってリメイクされることで、シリーズが再起動し、今回、本当にようやく物語が終わった。いや、成仏させたというべきか。TV版第26話に出てくる言葉「おめでとう」や「ありがとう」を最初に見たときは、よくわからなかったが、改めて心からそう思えるラストだろう。

最後に展開される父と息子の対決は必然だが、これまでになく人間のドラマや生活感が強い作品になっている。そして庵野秀明という作家性も刷り込まれた、大衆的なカルト映画として見事に完結した。本来、強烈な個性をもつカルト映画は、一部のファンにしか受け入れられないが、エヴァは社会現象まで起こしたという意味で、ありえない作品だろう。

さて、『スターウォーズ』のシリーズも、筆者が小学生のときに『エピソード4/新たなる希望』(1977)を鑑賞してから、40年かけて完結したが、エヴァンゲリオンも、四半世紀の歴史を刻んでいることから、筆者の世代だと、そうした時間の経過を無視して語ることができない。すなわち、シリーズが歩んだ長い時間と作品内の時間経過(『Q』になると、14年後の世界)と観客の過ごした日々(出会ったときに子供でも、大人になっている)が重ね合わせられる。もちろん、30代だった庵野自身も、60歳になり、人生経験を積んだことが反映されたように思う。また阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、神戸連続児童殺傷事件などが発生した1995年から97年にかけて、TVシリーズと旧劇場版が発表された。一方、『シン・エヴァンゲリオン』は、ただ廃墟が広がるだけではなく、仮設住宅など、厄災から復興中の第三村が描かれたり、津波を想起させるシーンが登場し、あきらかに東日本大震災以降の作品である。2、3年でちゃんと完結しなかったからこそ、続編というかたちではなく、作品そのものが変容しながら、たどりついた境地を祝福したい。


シン・エヴァンゲリオン劇場版─東宝オフィシャルサイト: https://www.toho.co.jp/movie/lineup/shin-evangelion.html

2021/03/09(火)(五十嵐太郎)

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』上映会

会期:2021/03/05~2021/03/06

ロームシアター京都[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの公式プログラム。コロナ禍を受けて映像上映会となったが、作品の熱量をあますところなく見せつけた。

釘や刃物を身体に突き刺す、剣を飲み込むなどの芸を見せるサイドショー(見世物)×バレエ×マシン・トレーニング×ボディビル×ロデオ・マシンにまたがるエロティックなパフォーマンス×スプラッター×緊縛・SMプレイ×自傷行為×スカトロの融合。タトゥーやピアッシングなど身体改造、肉体を鍛え上げることと破壊すること、痛みと渾然一体の快感とそれを眺める消費の快楽のありとあらゆる実例が、全裸の女性パフォーマー6人によって次々と展開されていく。悪趣味なエログロの極みのような作品だが、その根底には、(女性の)身体が「規範的な美」「エロスの対象」として消費されることへの抵抗という強靭な知性が支えている。

自身も出演するフロレンティナ・ホルツィンガーは、ウィーン出身の気鋭の振付家。サドやバタイユといった「タブーの侵犯と快楽」をめぐる思想的系譜と同時に、「裸体の饗宴による血と痛みとエロティシズムの祭儀」という性質は、ウィーン・アクショニズムの系譜上にあると言える。そこに、『スター・ウォーズ』の引用などポップカルチャーやサイドショーの要素を総動員しつつ、ウィーン・アクショニズムの男性作家たちにおいて看過されてきたジェンダーの問題を問い直す点に、ホルツィンガーの企図と意義がある。


冒頭、タトゥーの入った全裸の肉体を晒した女性パフォーマーが登場し、長い釘を舌で舐め、ハンマーで叩いて鼻の穴の奥へと貫通させていく。その後ろでは、同様に全裸の女性2人が、ウォーキング・マシンの上で淡々と歩行に従事している。鼻、すなわち「穴」の中へ侵入する「釘」は疑似的なペニスであり、薄ピンク色の細長いバルーンを指でしごきながら喉の奥へ押し込んで飲み込む、尖った剣を飲むといった芸が、疑似的なセックスとして幾度も反復される(飲み込んだバルーンがしぼんだ塊となって肛門から引っ張り出される芸は、後半の排泄芸とスカトロを予告する)。舞台中央には、雄牛をかたどったロデオ・マシンが鎮座し、全裸でまたがった女性たちがエロティックに腰をくねらせている。別の女性パフォーマー2名が相対し、バーベルを持ち上げ、ボディビルダーよろしくポーズを決め、アクロバティックな組体操を見せる。中盤では、首にロープをかけて宙吊りになる危険な曲芸の練習が繰り返され、その両脇では、トウシューズを履いてポワント(爪先立ち)で長時間足踏みをし続ける女性たちが、苦痛の表情は一切見せず、なまめかしくも力強いポーズを彫像のように取り続ける。スポーツやバレエというスペクタクルがはらむ、「視線に供せられる」身体とその消費。その「高尚さ」が、サーカスの曲芸やフリークショーと同質であることを、本作は淡々と暴き出す。



[Photo by Radovan Dranga]


皮下注射針を腕に貫通させ、先端に挿したロウソクに火をつけた「人間バースデーケーキ」が歌い踊る、緊縛プレイ、血しぶき舞う自傷とスプラッター、ガラス瓶への排泄、その黒い固形物を皆で食べるスカトロプレイを経て、終盤では、裸身に降りかかる火花をものともせず、雄牛をかたどったロデオ・マシンをチェーンソーで斬り、解体する。剥き出しになった機械の上にまたがり、なおも腰を振るパフォーマー。女王のように君臨する彼女の周りに、互いの肛門に指を突っ込んで列をなしたほかのパフォーマーが集まり、勝利と栄光のポーズを決め、幕となる。



[Photo by Radovan Dranga]




[Photo by Radovan Dranga]


上演中、舞台中央で玉座のように鎮座し続ける「角の生えた雄牛」は、ゼウスの化身であり、女性をまたがらせて快楽を与え続けるロデオ・マシンは男根の謂いである。舞台上では不在であるからこそ、支配力を及ぼし続ける男性性の象徴。それは、本作中の台詞でも「バランシンをともに倒すのだ」と言われるように、『アポロ』(1928)を振付け、バレエ界に父として君臨するジョージ・バランシンも示唆する。その雄牛=神=男性性の象徴=「父」としてのバランシンを文字通り解体し、「ハリボテ」であることを暴くために、ありとあらゆる「逸脱的」な快楽のプレイが延々と召喚され続けていたのだ。冒頭の前口上で「紳士淑女、そしてその中間にいるすべての皆さん」と呼びかけていたように、本作はまた、規範的なジェンダーの境界にも攪乱を仕掛ける。ピンマイクに仕掛けた変声機で「低い男声」に変換してしゃべり、口ひげを付けたパフォーマーたちは、ドラァグクイーンやクィアなパフォーマンスを想起させる。「男性の性の対象」および「生殖に結びついた正常な性愛」に対する反旗が、最終的に「性別のない機械」とのセックスを称揚するという提示自体は(見かけのショッキングさに反して)じつは妥当だとも言えるが、女性の肉体の強靭さと「舞台上のパフォーマー自身が主体的に楽しむんだ」という強い意志が、爽快さと圧倒的な熱量をたたえていた。



[Photo by Radovan Dranga]


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING:https://kyoto-ex.jp

2021/03/06(土)(高嶋慈)

中村佑子『サスペンデッド』

会期:2021/02/11~2021/02/28

ゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センター[東京都]

『サスペンデッド』はシアターコモンズ'21の一環として発表された中村佑子によるAR映画。中村のシアターコモンズへの参加は2019年のリーディング・パフォーマンス『アリス・イン・ベッド』(作:スーザン・ソンタグ)の演出を担当して以来二度目となる。

会場はゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターにある、おそらくはゲストの滞在用に設えられたものだと思われる一画。ひとつながりになったリビングダイニングキッチンに洋室が二間、和室が一間あり、中に入ってしまえばそこはほとんど一般的な住宅と変わらない。『サスペンデッド』の鑑賞者は、10分ごとにひとりずつその「居住空間」へと導かれ、ヘッドマウントディスプレイを装着した状態で各部屋を順に巡っていく。ヘッドマウントディスプレイを介してモノクロームになった室内で鑑賞者が対峙するのは宙に現われる鮮やかな映画のスクリーン。そこに映し出されるのは精神的な病を抱える母を持つ子の視点から振り返られる物語であり、その大部分は鑑賞者が立つ「居住空間」で撮影されたものだ。

[撮影:佐藤駿]

かつてあったものを映し出す映画というメディアが、それが撮影された当の空間で体験されるとき、それがかつてそこにあったのだという感覚はより一層の強いものとなる。「そこ」はまさにその場所として目の前にあり、しかしそこにいたはずの人物もそこで起きたはずの出来事も目の前にはない。鑑賞者のいる室内には食器の置かれたダイニングテーブルやソファ、勉強机といくつかのぬいぐるみ、ベッドなど、「彼女たち」が過ごす空間と同じものも置かれているが、現実の室内に置かれているのは映画のなかで映し出されるもののごく一部でしかなく、ガランとして生活感のないそこはすでに抜け殻のようだ。置かれているというよりはかろうじて残された痕跡。ヘッドマウントディスプレイ越しの視界はモノクロームに色を失い、そこにあるはずの現実が遠い。宙に浮くスクリーンだけが、「彼女」の記憶だけが鮮やかだ。

[撮影:佐藤駿]

ところで、「彼女」とは誰か。鑑賞者が最初に導かれた部屋でまず目にするのは、この映画が作者自身を含めた3人の女性の幼少期の体験をもとにしたものであり「いまも世界のどこかで病の親と暮らしている子供たちの家庭のなかで体験する宙吊りの感覚を映像化したもの」だという言葉だ。母が起きるのを待ち、友達と遊ぶことなく家に帰り、母の「目の前の霧」が晴れるのを待ち、あるいは入院した母の帰りを待つ。「宙吊りの感覚」というのはこのようなすべてが待機状態に置かれた時間を指す言葉だろう。しかしそれでも時間は流れ、いつか状況は変わっていく。秒針の音が耳を打つ。

「あなたの痛みがどんなものか、私は想像することしかできない」と「彼女」の声は語る。「あなた」と呼ばれているのはもちろん「彼女」の母親なのだが、それは映画の鑑賞者への呼びかけのようにも響く。ヘッドマウントディスプレイ越しのモノクロームの視界、世界の遠さは鬱の症状のそれに通じているようにも感じられる。「目の前の霧」。映画は子である「彼女」の視点で語られる記憶だ。ではこのモノクロームの視界は誰のものか。室内を歩くほかの鑑賞者たちが私に注意を向けることはなく、同じ部屋にいながら自らの世界に入り込んでいるように見える。

鑑賞者たる私は室内を漂う光の粒子に導かれて部屋から部屋へと移動していく。窓際の椅子、ソファ、ダイニングテーブル、子供部屋にベッドの置かれた和室。記憶の場所を巡るように漂う光の粒子は「彼女」の記憶の残滓か、それとも母親のそれか。「ひとつの心が壊れるのを止められるなら」「ひとつの命の痛みを軽くできるなら、ひとつの苦しみを鎮められるなら、1羽の弱っているコマドリを、もう一度巣に戻せるなら、私が生きることは無駄ではない」。「ただいま」と告げる母から切り返して子の顔のアップ。「おかえり」の声が画面に重なる。子でありながら母のような立場に置かれた「彼女」。かつて子であり、現在は母となった中村がこの映画を撮ることは、二重化された「彼女」に現在から手を差し伸べることだ。それは祈りにも似ている。

エンドロールのあと、映画の最後に示されるのは、日本国内では精神疾患を患う親と子供はその人数すら把握されておらず、「支援の穴」と言われているという現実だ。ヘッドマウントディスプレイを外し、色彩を取り戻した私の現実に「彼女」の姿は見えていない。

[撮影:佐藤駿]

[撮影:佐藤駿]


シアターコモンズ作品ページ:https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/
中村佑子Twitter:https://twitter.com/yukonakamura108


関連レビュー

中村佑子/スーザン・ソンタグ『アリス・イン・ベッド』|山﨑健太:artscapeレビュー(2019年05月15日号)

2021/02/17(水)(山﨑健太)