artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

ミッドサマー

5月末の段階では、東京の映画館が再開しておらず、やはりTOHOシネマズ仙台で『ミッドサマー』と『ブレードランナー』を鑑賞した。いずれも数名の入りしかなく、まだ映画館に人は戻っていない。後者はファイナル・カット版をスクリーンで初鑑賞したが、CGが当たり前になった現代から見ても、なんの遜色もないノワールなSFである。架空と実物の建築・都市を巧みに組み合わせた実在感が強烈だ。またリドリー・スコットらしい煙や霧、照明も美しい。人間よりも人間らしいレプリカントの設定が、作品を普遍的にしている。

さて、ようやく観ることになった話題の『ミッドサマー』は、様々な象徴を散りばめた美術、独特の建築デザイン(三角形のファサードをもつ黄色い神殿、変わった屋根形状の棟など)、音楽、衣装などを通じて、小さな共同体の世界観が綿密に構築されていた。ネットでも解説や謎解きを試みる多くのサイトが登場しているように、本作はすでにカルト的な人気を獲得している。

以前、新宗教の建築を研究した筆者にとって興味深いと思われたのは、サブカルチャーにおけるカルトの描き方である。通常、映画や漫画などでカルトが登場する場合、「実は教祖がひどい奴で、偽物の宗教が暴かれる」というのが、お決まりのパターンだ。しかし、本作はこの飽きるほど繰り返された物語とは違う。正確に言えば、教祖がいるわけではなく、昔から続く村の風習にもとづく夏至の祝祭なのだが、それがインチキだという構えはとらない。むしろ、あくまでも心を病む主人公の大学生ダニーの、心中で失った家族や、不安定な恋人との関係性を軸に、特殊な共同体を描いている。大きな家族に受け入れられ、傷心のダニーが再生する儀式というべきか。

そして客観的にはおぞましい出来事が起きているにも関わらず、笑顔の村人は明るく、花が咲き乱れる風景なのだ。また白夜のために、太陽が沈んでも完全な闇は訪れない。徹底して明るいのだ。だからこそ、ダニーが見せる最後のあの表情が、いつまでも余韻をもって記憶に残る。


公式サイト:https://www.phantom-film.com/midsommar/

2020/05/29(金)(五十嵐太郎)

エイチエムピー・シアターカンパニー『ブカブカジョーシブカジョーシ』

会期:2020/05/22~2020/05/25

大阪を拠点とする劇団、エイチエムピー・シアターカンパニーが、市内の小劇場ウイングフィールドで上演予定だった本作。コロナ禍による劇場休館、公演中止を受け、実験的なオンライン配信の試みに切り替えられた。既発表作を「Zoom を用いた設定」で上演し直したり、初めから「Zoomを前提とした作品」として上演する試みは、すでにさまざまなカンパニーが取り組んでいる。本作の特徴は、「演劇とは、(仮想空間であっても)俳優が同じ空間に集い、リアルタイムで演技すること」を至上命題として愚直に遂行した点にある。5名の俳優がそれぞれ自宅で演技する映像を、劇場の舞台の映像を背景に、リアルタイムでひとつの画面内に合成し、当初の上演日程でライブ配信した。

1973年に起きた「上司バット撲殺事件」に着想を得た『ブカブカジョーシブカジョーシ』(大竹野正典作、1999)は、管理組織の中で、上層部の理不尽な抑圧と部下からの反発の板挟みになる中間管理職のサラリーマンを不条理に描く。生真面目で融通の利かない仕事人間の部下アメミヤは、「収支が23円合わない」ために、退社時刻のタイムカードを自ら押して帳簿を洗い直す作業を続ける。「残業ではなく自由時間」と主張する彼に押し切られた課長のモモチは、「部下の管理ができていない」と上層部に叱責される。部下をかばってフォローしようとすればするほど部下との心理的な溝は開き、上司たちの理不尽な仕打ちはエスカレートしていく。

「部下/上司、課長、部長、専務、社長」という(全て男性を想定した)会社組織とその抑圧性、企業戦士たちを家庭で迎える役目を負う「妻」「母」という戯曲に内包された固定的なジェンダー観は、「すべて女優が演じる」仕掛けによって相対化させる企図があったと思われる。だが、「リモート演技のリアルタイム合成」と加工操作によって、むしろ演劇/映像の境界が奇妙に溶け合った領域が前景化する結果になった。俳優の映像はモノクロ加工され、画質は粗くざらつき、顔の表情がほぼ白く飛んでしまう(カメラの性能やライティングといった技術的要件も影響しているが)。あたかもモノクロの実験的アニメーションか初期映画を見ているようであり、「合成」された俳優の身体は、重なり合う部分が透け、位置がずれ、互いの身体を掴めない。固有の顔貌と肉体的重みを失った影絵のような亡霊たちが画面を浮遊する―「演劇であること」の墨守が「映像」の亡霊性に接近してしまうという逆説になったことは否めない。



だがそこには、「演劇であること」の奇妙な残滓も残っている。舞台向けの「演技」「発声」だけではない。「電車に乗るシーン」などは全て効果音で演出され、建物や風景の実景は映らない。「場面転換」にあたる時間には、俳優の声をノイズと加工した音響が挿入され、白黒反転した画面は「暗転」を示唆する。この「場面転換」は、観客の意識の切り替えを促す意味以上に、複数を演じ分ける俳優が衣装やカツラを装着し、下手と上手を(カメラに映らないように)移動し、机や食卓の舞台装置を物理的に動かすために必要な時間でもある。それは、「俳優の生身の物理的身体がそこにあること」が、画面越しにわずかだが感じられた時間だった。「演劇」にも「映像」にもなり切れない浮遊感に覆われたなか、この「場面転換」の空白の時間にこそ、「これが演劇である」ことが最も充満していた。



最後に、この二重の逆説に加え、本作と戯曲世界の符合/乖離という両義性についても述べておく必要がある。モノクロの粗い画質で切り取られ、固有の顔貌を失い、人形のようなペラペラ感の漂う人物たちは、無味乾燥な数字と記号から成る商品番号と同様、人間もまた管理される匿名的存在であることと不気味に通底する。また、上司のモモチをバットで撲殺するラストシーンで、部下のアメミヤが言う「最近、人の顔が同じに見える」「人の顔が区別できなくても問題ない。でも、あなたの顔だけ生々しくて気持ち悪い」という台詞への伏線でもある。では、これは「アメミヤの見ている世界」の疑似体験なのか。彼を撲殺へと駆り立てたのは、「魚の水槽のような会社という密室で、管理する/される人間関係」によって醸成された鬱屈感だった。だがむしろ(コロナ禍の状況下でより肥大化したのは)、SNSのネット空間で憎悪が増幅する回路である。「リモート演技」という創作手法と、(コロナ禍以前の「日常」である)「組織内の人間関係の閉塞感」というテーマは、最終的に齟齬をきたしてしまったのではないだろうか。


公式サイト: https://www.hmp-theater.com/info.html

2020/05/24(日)(高嶋慈)

Q/市原佐都子 オンライン版『妖精の問題』

会期:2020/05/16~2020/05/17

『妖精の問題』は、2017年の初演以降、国内外で再演されているQ/市原佐都子の代表作。一部「ブス」が落語、二部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、三部「マングルト」が健康法の啓発セミナーという三部構成で、三つの物語がそれぞれ異なる形式により、俳優の一人芝居で演じられる。通底する主題は「妖精=見えない(ことにされる)もの」、つまりルッキズム、優生思想、社会的有用性、「清潔」信仰、(女性の)性への抑圧などにより、社会的に「異物」として排除や差別、嫌悪の対象とされるものだが、最終的には価値基準が相対化され、生(性)の強い肯定へと転じていく。


「オンライン版」として出演者や内容を再構成し、リアルタイムで配信した本公演は、Zoomのチャットやアンケート回答の送受信機能といった双方向性を効果的に取り込んだ点が秀逸。また、「菌(異物)との共生」「殺菌思想や優生思想の強化がもたらす、差別と排除、不可視化」という根底を貫くテーマが、コロナ禍の状況下で改めて、そしてより強く浮上した。劇場での過去の上演内容についてはすでにレビューを執筆しているので、本評では、(1)コロナ禍の状況に対する批評的応答、(2)Zoom機能の効果的使用による「コミュニケーション」の焦点化、の2点について述べる。



Q オンライン版『妖精の問題』より 一部「ブス」


まず、(1)について。「なぜ今、その作品を上演するのか」という同時代的アクチュアリティへの切実な応答が最も浮かび上がったのが、三部「マングルト」である。「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開されるのだが、創始者の「淑子先生」が「マングルト」開発に至るまでの自伝的語りが改めて訴えかける。多感な思春期に「性は汚いもの」という価値観を植え付けられ、極端な潔癖症になったこと。喫煙者、病人、障害者などを「不潔な存在」として嫌い、同じ空気を吸わないように息を止め、マスクを三重にし、手洗いするため席を離れたこと。「自分は清潔だ」と思い込むことで自分自身を守ろうとし、「清潔」の強迫観念と「殺菌」思想に憑りつかれた彼女の姿が、「他者」「異物」への排除と表裏一体であることは、まさに今の社会の鏡像だ(そのあと彼女は、抗生物質で善玉菌を殺したことで膣内バランスを崩し、女性器の感染症を発症した経験を経て、「菌との共生」に思考を転換する)。

一方、(2)オンライン版におけるZoom機能の使用は、これまでの劇場上演との比較によって、三部それぞれにおける「コミュニケーション」の異なる位相を浮上させる。まず、女子中学生2人の掛け合いを落語形式で語る一部「ブス」は、「自宅でのZoomによる会話」に置き換えられる。二部「ゴキブリ」では、豚骨ラーメン屋の近くに住む主婦が、ゴキブリ駆除に悩まされる日々、ゴキブリの異常な繁殖力、夫とセックスの意思疎通がうまくいかないこと、夫が勝手に焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまい、「異常」な子どもができたことを、ジャズ調の曲で歌い上げる。俳優は自宅で演技するが、「主婦・妻」の「舞台」はキッチンがあてがわれる。これまでの劇場上演では、「妻」と「夫」のモノローグのパートを一人の俳優が歌い分けていたが、オンライン版では、それぞれ女優と男優が担当。Zoom画面を切り替えて登場するが、「Zoomを使っているにもかかわらず、一切『会話』しない」という齟齬は、「(バルサンを焚くのを相手に伝えなかったように)家事でもセックスでも意志疎通のうまくいかない夫婦」がより鮮明になり、「コミュニケーションの断絶」を逆説的に際立たせる。


Q オンライン版『妖精の問題』より 二部「ゴキブリ」


さらに、三部「マングルト」は、「Zoomセミナー」の形式への変更に加え、チャットやアンケートの送受信といったリアルタイムでの「参加」を、フィクションの仕掛けとしても実際の観客参加としてもうまく取り込んで成立させた。「セミナー参加者からのメッセージの表示」「参加者からの質問に答える」というフィクショナルな仕掛けが、「講師と参加者の(疑似的な)交流」を演出し、臨場感を高める。また、観客は、要所要所で、「発酵食品とそうではない食品のどちらを選ぶか?」「除菌グッズを使用したことがあるか?」「マングルトを汚いと思うか?」といった「質問」に答えるよう促され、「送信結果の集計」がグラフで視覚化され、講師役がコメントする。ポイントの顕在化とともに、観客に主体的に考えさせるこの仕掛けは、(劇場での上演とはまた別の)臨場感をもたらした。



Q オンライン版『妖精の問題』より 三部「マングルト」


『妖精の問題』の戯曲の特徴は、「落語」「歌謡ショー」「セミナー」という形式を借りることで、「モノローグ」の虚構性や不自然さをクリアさせた点にあるが、今回のZoomを用いたオンライン版では、コミュニケーションの素朴な肯定、失敗や断絶を経て、観客=視聴者参加型の双方向性へと拡張されていく段階性に特徴があり、「Zoom演劇」の開拓としても意義がある。だがより本質的な意義は、看過されるべきではない。コロナ禍による劇場閉鎖、上演中止・延期の状況下では、「なぜ舞台芸術が必要か?」という問いとともに、「なぜ今、その作品を上演するのか?」という自己反省的な問いに対する根拠が、より強く問われる。もちろん、オンラインを使った新たな表現手法の試みという面も重要だが、単なる代替案でも一過性の消費でもなく、この自己反省的な問いに本公演は真摯に答えていた。

公式サイト: http://qqq-qqq-qqq.com/?page_id=1451

関連レビュー

Q オンライン版 『妖精の問題』|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年06月01日号)

市原佐都子/Q『妖精の問題』|高嶋慈:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2020/05/16(土)(高嶋慈)

『AKIRA』IMAX版

1カ月半ぶりの映画鑑賞は、いち早く緊急事態宣言が解除された宮城県におけるTOHOシネマズ仙台となった。新作はわずかで、代わりに『ベン・ハー』、『オズの魔法使』、『タワーリング・インフェルノ』、『ブレードランナー』、『シン・ゴジラ』、『君の名は。』などの古典的な名作をずらりと揃えた最強のラインナップで興味深い。館の再開初日の朝だったので、待ちきれなかった多くの映画ファンが詰めかけているかと思いきや、実際には閑散としていた。ソーシャル・ディスタンスをとるため、半分の座席は使用不可とし、市松模様の配置パターンでチケットを販売していたが、最大のキャパのスクリーン6は364席に対し、わずか約10名の入りという超低密度である。





再開初日の朝なのに券売機前も閑散とした映画館


さて、筆者が鑑賞したのは、漫画中心で読んでおり、映画版はヴィデオで観ていた『AKIRA』だ。そしてIMAX版の『AKIRA』の凄さに驚愕することになった。もちろん、大スクリーンの上映に耐える圧倒的な細部の描写ゆえである。テレビの画面では確認できない、様々な情報がぎっしりと詰め込まれていた。

1988年に公開された『AKIRA』は、それまでの映画史の記憶を踏まえた作品であると同時に(『マッドマックス』、『スキャナーズ』、『トロン』、『ブレードランナー』など)、32年後だからこそわかる、これに続く後発の映画への影響力の大きさ(『新世紀エヴァンゲリオン』や、アニメにおける幻想的なシーンなど)を確認できるものだった。

まだ生々しかった学生運動の記憶、2.26事件へのオマージュを感じる一方で、鉄雄が戦車と対峙する終盤のシーンは、1989年の天安門事件を予見したかのようだ。そして現実になった東京オリンピック2020とその延期も、コロナ禍の今だからこそ、重く受けとめたい設定である。音楽は芸能山城組が印象的だが、途中の未来都市のシーンにおいて、暁テル子の楽曲「東京シューシャインボーイ」(1951)が挿入歌として使われていることも発見した。渋い選曲である。ともあれ、最初の公開から長い時間を経ても、未来の鑑賞者に多くの気づきを繰り返しもたらす『AKIRA』は、やはり古典的な名作と呼ぶにふさわしい。


左上:「AKIRA 4Kリマスター」IMAX上映ポスター
[© 1988マッシュルーム/アキラ製作委員会]

2020/05/15(金) (五十嵐太郎)

くものうえ⇅せかい演劇祭2020 キリル・セレブレンニコフ『The Student』

会期:2020/05/05~2020/05/06

「ふじのくに⇄せかい演劇祭」の中止を受け、開催予定だった4月25日~5月6日の期間、映像やトーク企画などの配信を行なう「くものうえ⇅せかい演劇祭」が開催された。『OUTSIDE-レン・ハンの詩に基づく』を上演予定だった、ロシア出身の演出家・映画監督のキリル・セレブレンニコフは、カンヌを始め世界各地の国際映画祭で評価を得た長編映画『The Student』(2016)を映像配信した。セレブレンニコフの映画作品は、日本初公開となる。

原作は、ドイツの劇作家マリウス・フォン・マイエンブルクの戯曲『Märtyrer(殉教者)』。主人公の男子高校生ヴェーニャは、水泳の授業をさぼったことが原因で母親と口論になる。問い詰める母親に対し、ヴェーニャは母が思ってもみなかった理由を口に出す──「水泳の授業は、自分の信仰と反する」。彼の「宗教的理由」は認められ、ヴェーニャはプールサイドでひとり、聖書を読みふける。だが、社会の縮図である学校は多様性の容認や異なる価値観の共存へと進む代わりに、「聖書の正しい言葉」を後ろ盾にヴェーニャが唱える原理主義に次第に染まり、さまざまなマイノリティ差別の構造を露わにしていく。

本作で描かれるのは、狂信的な原理主義とリベラルの対立の構図である。日和っているうちに感化され、「正しい」と思い込んで扇動されていく周囲の教師たち。ヴェーニャは、堕落と不貞を戒める聖書の語句を引用し、「ビキニは水泳の授業に相応しくない」と主張。女子生徒たちはカラフルなビキニの代わりに、黒いスクール水着と水泳帽を着用させられる。その光景を聖書を手に二階席から見下ろして微かにほくそ笑むヴェーニャは、大人や教師に従うべき「生徒」が、「大人たち」を支配しているという逆転構造を優越感とともに露わにする。「聖書=正義」の言葉が自分に権力を与えているという実感は、彼が「生徒」だからこそ、その歪さがより際立つ。


一方、ヴェーニャと徹底的に対立するのが、リベラルな生物学教師のエレナである。進化論の授業、セクシュアリティの多様性やセーフ・セックスについて講義するエレナに対し、ヴェーニャは畳みかけるような聖書の引用によって論戦を仕掛ける。「神はすべての造物主」、「同性愛は死に値する」、「婦人は男に教えたり、男の上に立つな」、「アダムはエヴァより先に生まれた」「女は、子を産むことによってエヴァの犯した罪から救われる」……。「聖書は2000年も前に書かれたもので、現代の価値観や科学とは相いれない」と反論するエレナに対し、ヴェーニャは彼女の名前がユダヤ系だからキリスト教を嫌悪するのだと言い返す。また、ヴェーニャを秘かに慕う同級生は、「足の障害を治す」奇跡を起こそうと、自分の足に触れて祈りを唱えるヴェーニャに欲情を覚えるが、「あらゆる病は懲罰」「女と寝るように男と寝るな」といった聖書の引用を投げつけられる。このように、聖書に依拠した彼の「正義」は、同性愛差別、女性差別、女性の「性の自己決定権」の否定、「進歩的」な性教育へのバックラッシュ、民族・人種差別、障害者差別といった「マイノリティ」を攻撃・排除する論理として作用し、社会の不寛容や根強い排他意識の病巣をあぶり出す。「大人・教師が生徒を管理する」閉じたコミュニティ、すなわち社会の比喩である「学校」を舞台に描く本作は、その意味できわめてリアリズムと言える。

ここで、ヴェーニャの台詞が「聖書の引用」で構成される点も重要だ。引用すなわち「自分自身の言葉ではない」ものを、自分の主張に合わせて都合よく切り貼りし、利用すること。また、ヴェーニャに「反論」を試みるエレナが、聖書を読み込んで「彼の主張」を切り崩す論拠に使おうとするくだりは、自説の論拠が反撃相手にも使用されるという両義性や脆弱性を示す。「相手の用いた言葉自体のなかに、反論や矛盾の根拠を見出そうとする」態度はまた、例えば歴史修正主義者の常套手段をも想起させる。

終盤、ヴェーニャは「殺人」と「虚偽の告発」という二重の罪を犯すが、最終的に「裁き」は下されない(前者は「事故」と片付けられ、「女性教師のエレナに身体を触られた」という後者は、校長はじめほかの教師たちが信じてしまう)。クビを言い渡されたエレナは、自分の足を靴ごと釘で貫いて床に打ち付け、「それでも私は出ていかない、ここは私の居るべき場所だから」と叫ぶ。この壮絶なラストは、原作戯曲のタイトル「殉教者」の方がわかりやすいだろう。それは、エレナはリベラルで進歩的な思想の持主だが、彼女自身もまた、自らの信念に狂信的な「殉教者」であるという両義性をつきつける。




「聖書の語句を引用しまくる緊迫した論争シーン」は長回しで撮影され、激しい長台詞の応酬は演劇的であると同時に、「台詞それ自体が『引用』である」という自己言及性は、一種の演劇批判でもある。一方で映像は、表向きは禁欲主義的なヴェーニャの態度とは裏腹に、カラフルなビキニで泳ぐ少女たちの伸びやかな肢体を、揺らぐ水中で下から捉えるカメラの躍動的な浮遊感や、「足を治すために触って祈ってほしい」とズボンを脱ぐ(脱いで誘惑する)同級生の太腿の窃視的なカットなど、エロティックな映像美が目をひく。「姦通するな」と聖書の言葉で「防御」しつつ、性に揺れ動く思春期のヴェーニャの内面的な危うさを、映像によってすくい上げていた。

公式サイト: https://spac.or.jp/festival_on_the_cloud2020

2020/05/05(火)(高嶋慈)