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Disclosure トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして
「映画やテレビドラマなど映像メディアの1世紀にわたる歴史において、トランスジェンダーがいかに表象されてきたか」を批判的に検証するドキュメンタリー映画。2020年1月にサンダンス映画祭でのプレミア上映で高く評価され、6月19日よりNetflixでグローバル配信されている。ハリウッド映画を中心に、初期のモノクロサイレントフィルムから2010年代まで、膨大な映画やテレビ番組が引用され、トランスジェンダーの俳優、ライター、歴史家、プロデューサー、映画監督らが問題点を指摘し、出演作や個人的な経験について語る。本作を貫くのは、「なぜ、トランスジェンダーの役を非トランスの俳優が演じることが問題なのか?」という問いに対する多面的な回答の提示であり、横軸として人種差別問題も根深く絡んでいることが提起される(なお、歴史的背景として、アメリカでは異性装や同性愛が長く違法とされ、トランスジェンダーという言葉の普及は1990年代である)。
特に本作で中心的位置を占めるのが、黒人トランス女性の表象だ。「女装の黒人コメディアン」が繰り返しスクリーンに登場し、笑いのネタになり続けてきたのはなぜか。あるいは、性転換が起きる『フロリダ・エンチャントメント』(1914)で、「白人」女性は模範的な「紳士」になるのに対し、「黒人」男性は「粗暴なメイド」に変貌してしまうのはなぜか。そこには、「黒人男性=白人女性を脅かす危険な存在」というステレオタイプの前提があり、「女装=去勢」によって脅威を笑いの対象に転化しようとする構造があることが指摘される。また、「戯画化された女装者」は、女性蔑視のメッセージも暗に含む。
一方、「嘲笑」による無害化とは真逆のベクトルとして、「恐怖の対象」としての描写の系譜がある。例えば、『サイコ』(1960)などヒッチコックのサスペンスに登場する、「異性装の変質的な殺人者」や、『羊たちの沈黙』(1991)で殺害した女性の皮を剥いで身につけ、女性になろうとするシリアルキラー。また、「嘲笑」「恐怖」に加えて頻出するのが、「嫌悪すべき対象」として描かれる偏向である。「魅惑的な女性」の身体にペニスがあることを知って驚愕する男たちの、嘔吐シーンの数々。「暴露」は「裏切られた」と怒る男性の暴力を正当化し、スクリーン上でトランス女性たちは繰り返し殺害される。「生き延びるために性別移行したのに、『死』ばかり描かれる」とトランス女優が語る声は切実だ。
また、描写の職業的偏向も指摘される。黒人トランス女性の職業で最も多く描かれるのは、セックスワーカーだ。ただその根底にある、雇用差別と人種差別について説明されないことが真の問題なのである。
こうしたトランスジェンダーの偏った描写がステレオタイプと差別を再生産してきたこと、特に人種差別と結びついたときにより強力に作用してきた一方、史実や実話の映画化において、有色人種の「排除」「消去」「不可視化」が同時に行なわれてきたことが指摘される。例えば、1969年にニューヨークのゲイバーで起こり、セクシュアル・マイノリティの権利獲得運動の大きな契機となった「ストーンウォールの反乱」を描いた『ストーンウォール』(2015)では、有色人種のトランスジェンダーやドラァグクイーンが白人男性俳優によって演じられ、白人の歴史化(ホワイトウォッシング)であると批判される。また、主人公のトランス男性が殺害される『ボーイズ・ドント・クライ』(1999)では、彼の友人で一緒に殺された黒人男性が登場せず、「消去」されている。トランスフォビアと人種差別の強固な結びつきを「隠蔽」しようとする作用の暗示的な例として解釈可能だ。
こうした他者による一方的な表象と記号化は、非トランスのシスジェンダーとトランスジェンダーの双方に対して弊害しかもたらさない。前者に対しては、メディアが歪曲されたステレオタイプを再生産し、嘲笑、恐怖、嫌悪の対象として偏見や暴力を正当化する。一方、当事者にとっては、共感・尊敬すべき人物として肯定的に描かれないことで、深く傷つき、「私の物語」として受容できず、攻撃される恐怖と自己嫌悪に苦しむことになる。
ここで傾聴すべきは、「過去から学び、もっとトランスジェンダーについて描き、情報源を増やすことが重要」「個人として尊重して描くことで、人間性を理解し支えてくれる人が増える」という意見である。本作の後半では、2010年代以降、トランスジェンダーであることを公表した俳優たちが、トランス役として出演した作品が紹介される(黒人トランス女優ラヴァーン・コックスが美容師役を演じたドラマ『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』[2013]、80年代のアフリカ系・ラテン系のLGBTQコミュニティのカルチャーを描く『POSE』[2018]など)。
従って、原題の「Disclosure」に込められた複数の意味に留意すべきだろう。それは、トランスジェンダーがスクリーン上で繰り返し「本当は男/女だ」と「暴露」される痛み、映画がその暴力の再生産に加担してきた歴史の「暴露」、そしてトランスジェンダー俳優たちのメディアへの「公表」「自己開示」によるエンパワメントでもある。他者による一方的で偏向した表象を自らの手に取り戻し、自分たち自身の生と性の肯定を通して、「いない」ことにされてきたスクリーンの向こうの当事者たちにエンパワメントを与えること。
ただ、課題も残されている。一部のセレブリティが「代表」と見なされることや、同じトランスジェンダーというカテゴリーであっても、トランス女性とトランス男性における可視化の偏向だ。トランス女性(とりわけ華やかなスター)は可視化されやすいが、ゲイと思われることを恐れる男性からの暴力や、(トランスを含む)女性の身体の商品化につながる可能性が指摘される(日本での顕著な例は、「女性専用空間」からのトランス女性の排斥がある)。一方、「より目立たない」トランス男性のメディアへの登場は少なく、「いない」ことにされてしまう。また、性自認を男女のどちらにも規定しない「ノンバイナリー」は、「登場」し始めたばかりだ。
最後に、本作を見ることで、「逆に、トランスジェンダーの俳優は、トランスジェンダーの役しかできないことになるのでは」という疑問に対しては、原理主義的主張ではなく、これまで奪われてきた機会の回復がまずなされるべきだと答えることができる。「居場所がないと、存在できない」からだ。その上で本作は最後に、「表現自体が目標ではなく、社会全体を変革する手段にすぎない」と締めくくる。
本作の問題提起の射程は、エスニックマイノリティや障害者など、さまざまなマイノリティの表象の問題とも通底する。そこで重要なのは、本作が示すように、単一の側面だけを見ていては、差別構造の本質を見逃すということだ。人種差別、性差別、ホモフォビアなど、問題の根は複雑に絡まり合っているのであり、「繰り返し語られる物語表象」において何が歪曲され、その背後で何が排除・隠蔽されているのかを問い続けること。同時に、本作で語られるように、「自分の特権を認識する」態度である。
2020/07/11(土)(高嶋慈)
カセットテープ・ダイアリーズ
主人公の幼少時代を振り返る冒頭のシーンで、いきなりルービックキューブとメン・アット・ワークの固有名詞が語られるように、1980年代のカルチャーにあふれた映画である。もっとも、カセットテープやウォークマンなど、懐かしいアイテムを振り返るだけの作品ではなく、社会と文化の関係にも切り込み、想像以上に素晴らしかった。
イギリスに急増するパキスタン移民の長男ジャベドは、強権的な父や差別の圧迫を受けていたが、ブルース・スプリングスティーンの音楽と出会うことで覚醒し、文章の表現にめざめるという物語だ(これは実話をもとにしており、のちに彼はジャーナリストになる)。嵐の夜、絶望の淵で彼が、初めて「ダンシング・イン・ザ・ダーク」を聴いて、その歌詞に衝撃を受けるシーンは印象的である。クィーンのフレディ・マーキュリーも、「パキ」と罵られたらしいが(実際の彼はパキスタン系ではないが)、主人公の境遇は、アメリカの労働者の状況を題材とするブルースの歌詞とシンクロしたからである。それは本来の状況と違う文脈に置かれても、強い意味や新しい解釈を獲得する言葉の普遍性ゆえだろう。
個人的に映画を観ながら思ったのは、ジャベドの姿は昔の僕であるということだった。もちろん筆者はほぼ同年齢で、1980年代を過ごしたことで親近性も感じたが、決して彼のような厳しい環境ではなかった。だから、歌詞への共感という意味ではない。では、なぜそう思ったのか。音楽との出会いから、文章で表現することに向かった経緯が、彼と同じだったからである。筆者の場合は、もっとハード・ロック寄りだったが、アルバムのライナーノーツや音楽雑誌を読み漁り、そこからバンドの系統図や影響関係などに興味をもち、建築を学ぶ前に、作品を言語化したり、歴史的に位置づけることをおのずと学んでいった。現在は、建築やアートに関する文章を執筆することがメインだが(『200CDロック人名事典』、『200CDザ・ロック・ギタリスト』、『文藝別冊 ピンク・フロイド』、『文藝別冊 アイアン・メイデン』など、音楽について書く仕事も稀にあるのだが)、間違いなく、自分の原点にロックがあったことを思い出させる映画だった。
公式サイト:http://cassette-diary.jp/
2020/07/10(金)(五十嵐太郎)
ある画家の数奇な運命
あらかじめ言ってしまうと、これは3時間を超す大作であるにもかかわらず、初っぱなから物語に引きずり込まれて時間を忘れ、終わってみればまだまだ先を見てみたいと思わせるような映画だった。これはタイトルにもあるように、脚色しているとはいえ、実在する有名画家の半生を描いた作品。いったいどんだけ凄まじい時代を生きてきたことか。しかもまだ前半生の、画家としてデビューするまでしか描かれていないのだ。もっとも続きをつくるとなると、画家として成功した後半生は芸術と経済の話になるから(それに離婚問題も)、別の映画になっちゃうけどね。その画家とは、ドイツのゲルハルト・リヒター。
リヒター(映画ではクルト・バーナート)は1932年ドレスデン生まれ。この時代と場所だけで、もう波乱に富んだ物語が予想される。最初は、ドレスデンに巡回してきた「退廃芸術展」を、クルトが若い叔母に連れられて見に行く場面から始まる。オットー・ディクスの失われた作品《傷痍軍人》も映されるが、精巧に描き直した模写だそうだ。「退廃芸術展」は見せしめとして開かれたものの、その思惑とは裏腹に前衛芸術を見る最後の機会として訪れる人も多く、叔母もその1人だった。クルトはこの感性豊かな叔母に感化されるが、次第に叔母の「自由」がエスカレートして奇矯な行動をとり始め、強制的に入院。精神病と判断された彼女は、ナチスの政策によってガス室に送られてしまう。
戦後、ドレスデンは東ドイツ領となり、クルトは美術学校に入学。そこでエリーと出会い、恋に落ちる。彼女の父ゼーバントは、叔母を死に追いやったナチス親衛隊の医師だったが、誰も知るよしもない。ゼーバントは2人の交際を認めず、妊娠した娘の子を堕してしまう。リヒターの義父がナチス親衛隊だったことは本当かもしれないが、あとはつくり話だろう。クルトはプロパガンダ用の看板描きや壁画制作に才能を発揮するものの、社会主義リアリズムに疑問を持ち、自由な表現を求めて妻とともに西側へ亡命。ベルリンの壁が築かれる直前だった。
クルトはデュッセルドルフの美術学校に再入学し、自由な表現に触れる。キャンバスに切れ目を入れたり、ひたすら釘を打ち付けたりする前衛作品は、かなり戯画的に描かれていて笑える。とりわけフェルト帽にフィッシングベストを着けた議論好きの教授には吹き出してしまった。この教授から「君の作品が見たい」と言われ、前衛表現を試みたものの「これは君じゃない。君は誰だ?」と問われ、悩み抜いた末、新聞に出ていた逮捕されたナチス残党の男の写真を模写。同じく西側に逃れていたゼーバントがたずねてきて、この絵を見て取り乱してしまう。男はナチス時代の元上司だったのだ。クルトは初個展を成功させ、かつて叔母がやっていたように、何台ものバスのクラクションを一身に浴びるシーンで終わる。
映画は以上のように、戦前のナチス時代、戦後の東ドイツ時代、亡命後の西ドイツ時代の3部に分かれるが、すべてに登場するのはクルトとゼーバントだけ。しかもクルトは少年時代とそのあとで役者が変わるが、ゼーバントのみ冷徹な表情のセバスチャン・コッホが通しで演じている。クルトの背後に黒い影のようにつきまとって離れないこの男こそ、リヒターの前半生を翻弄した時代そのものを象徴しているのだろう。影の主役と言うべきか。その影を祓ったのが、デビュー作のフォト・ペインティングだったというわけだ。というと重苦しそうな映画に思われるかもしれないが、退廃芸術や社会主義リアリズムや前衛芸術など、いまでは新鮮に感じられる美術ネタも多く、意外なことに濡れ場も随所に差し挟まれているので、いろんな意味で楽しめる映画になっている。
公式サイト:https://www.neverlookaway-movie.jp/
2020/06/30(火)(村田真)
天覧美術/ART with Emperor
会期:2020/06/02~2020/06/27
eitoeiko[東京都]
先週「桜を見る会」で再開したeitoeiko、今回は「天覧美術」だ。もうコワイものなしだな。天覧試合は天皇がご覧になる試合のことだが、「天覧美術」とは天皇を見る美術のことらしい。企画したのは「桜を見る会」にも出品したアーティストの岡本光博で、彼の運営する京都の画廊KUNST ARZTからの巡回。出品は木村了子、小泉明郎、鴫剛、藤井健仁、それに岡本の5人。ここで「おや?」っと思うのは、80年代に活躍したスーパーリアリズムの画家、鴫剛の名前が入っていること。どうやら岡本の大学時代の師匠らしい。作品も「桜を見る会」に出してもおかしくない《ピンクの国会議事堂》など、リアリズムそのままに風刺をきかせている。鴫が岡本に影響を与えたのか、岡本が鴫に刺激を与えたのか。
彫刻家の藤井健仁は、昭和天皇と麻原彰晃の顔面彫刻を鉄でつくっている。どちらも「鉄面皮」ということだろうか。実物より黒くて大きく、デスマスクのように不気味だ。それにしても「天覧」というとアキヒトでもナルヒトでもなく、ヒロヒトを思い浮かべるのはぼくらの世代だけだろうか。天覧試合といえばやっぱり長嶋だもんね。新日本画の木村了子は、アイドルとしての平成天皇の肖像を御真影のごとく壁の高い位置に掲げたほか、菊花と肛門様をダブらせたヤバい作品も出品。これは案内状にもなっている。
首謀者の岡本は何点も出品。アングルの《泉》の女性の胸に2枚の金杯を当てた《キンぱい》、信楽焼のタヌキのキンタマのかけらを集めてサッカーボール状に金継した《キンつぎ》は、天皇を象徴する金に下ネタを掛けた「不敬美術」。また、鳥かごの中に小鳥の彫刻を置いた「表現の自由の机」シリーズも2点あるが(1点は金色)、これは慰安婦問題を象徴する例の少女像の肩に止まった小鳥を3Dスキャンで型取りしたものだという。その型取りしている岡本の姿を捉えた写真も鳥かごの中に収められている。ここには天皇の戦争責任や「表現の不自由」など重い問題が見え隠れするが、なにより深刻ぶらずに笑えるのがステキだ。
関連レビュー
天覧美術/ART with Emperor|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年06月15日号)
2020/06/05(金)(村田真)
『囚われた国家』『ライト・オブ・マイ・ライフ』『CURED/キュアード』
営業を再開したばかりのキノシネマ横浜(みなとみらい)にて、立て続けに3本の映画を鑑賞した。いずれもコロナ禍の現状を連想させるもので、偶然ではなく、三部作とでもいうべき見事な上映セレクションのように思えた。
ルパート・ワイアット監督の『囚われた国家』は、地球外生命体に統治されるシカゴを舞台としている。これはSFの外形を借りているが、いわゆる「人vsエイリアン」が戦う典型的な構図ではなく、エイリアンに隷従する人間が営むハイテク超監視社会に抵抗するレジスタンスの物語だった。あまり派手なシーンはなく、ハイライトはスタジアムでのテロ計画だろう。しかし、そこで終わらない、どんでん返しも用意されている。コロナ禍において明るい管理社会が要望される今にふさわしい作品だ。
1000円という特別料金が設定された映画『ライト・オブ・マイ・ライフ』は、もっとストレートに疫病が設定に使われていた。これは女性のみがほとんど死んでいくパンデミックの後、女性狩りから逃れるため、娘を息子と偽りながら、人が多い都市を避けて、親子がサバイバルを続けるという作品である。人類は絶滅こそしないが、倫理観を失い、荒廃した世界が描かれる。もっとも、疫病そのものがテーマではなく、特殊状況における父と娘の成長物語だった。ゆっくりとしたテンポの映画だが、最大の危機を迎えた後の二人の表情が印象深かった。
3本目の映画『CURED/キュアード』は特に傑作だった。凶暴化するウイルスへの特効薬が完成し、75%の感染者を治癒するものの、人を襲っていた記憶は残り(それゆえに、主人公は兄を殺したという罪の意識から悩み、苦しむ)、25%は回復しないままとなるポスト・パンデミックの世界である。出尽くしたようなゾンビ映画のジャンルにおいて、こういう鮮やかな切口があるのかと感心させられた。興味深いのは、非感染者と社会復帰する治癒者のあいだに、残酷な差別が生じること。さらに非治癒者に関しては、人間として扱うべきか、殺すべきか、という議論が巻き起こる。新型コロナウイルスも、医療従事者、治癒者、感染が多い地域の人間に対する差別や偏見をもたらした。すなわち、『CURED』の形式はゾンビものだが、今に通じる人間性を問うている。
『囚われた国家』公式サイト:https://www.captive-state.jp/
『ライト・オブ・マイ・ライフ』公式サイト:https://kinocinema.jp/minatomirai/movie/movie-detail/140
『CURED/キュアード』公式サイト:http://cured-movie.jp/
2020/06/04(木)(五十嵐太郎)