artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
岡山芸術交流2016
会期:2016/10/09~2016/11/27
岡山市内各所[岡山県]
岡山城、岡山県庁、林原美術館など、岡山市内中心部の8会場ほかで行なわれている大型国際展覧会「岡山芸術交流2016」。去る9月15日に珍しく大阪でも記者発表が行なわれたが、その席で強調されたのは、いま日本国内で流行っている地域アートとは一線を画したハイエンドな芸術祭を目指すことと、今回のための委嘱作品が多数あるということだった。実際に現場に出向いてみると、委嘱か否かは別にして、見応えのある作品がいくつもあった。筆者が特に気に入ったのは、岡山県天神山文化プラザで展示されているサイモン・フジワラのインスタレーションと、林原美術館で複数の作品が見られるピエール・ユイグだ。また、旧後楽館天神校舎跡地で地元の中学生や新聞社と協同した新作を発表した下道基行も印象に残った。その一方で難解な作品もいくつかあったが、主催者の心意気を評価する筆者としては、これで良いと思う。参加作家は31組。少なく見えるが、大規模なインスタレーションが多数を占めるので、むしろ適正と言える。また、会場間の距離がさほど離れていないため移動が楽で、頑張れば1日でコンプリートできるのも良いと思った。最後に、今回のアーティスティック・ディレクターを務めたのは、美術家のリアム・ギリック。彼が掲げたテーマは「開発」だが、その意図を展示品から読み取るのは、筆者の知識では難しかった。
2016/10/09(日)(小吹隆文)
岡山芸術交流2016
会期:2016/10/09~2016/11/27
旧後楽館天神校舎跡地+岡山県天神山文化プラザ+岡山市立オリエント美術館ほか[岡山県]
各地で国際展や芸術祭が激増している。増えるのは悪いことではないが、問題は優れたアーティストやキュレーターは限られているので、被ってしまうこと。結果どこも同じような顔ぶれ、似たような作品が並ぶことになる。そもそも国際展や芸術祭はほかとの差異化を図り、独自性を打ち出さなければ意味ないのに、横並び体質の行政が主導するとどうしても均質化してしまうのだ。これでは見に行く気がしない。そんななか、ぜひ見に行きたいと思ったのが「岡山芸術交流」だ。なぜ見に行きたいかというと、まず第一に行政主導ではなく、岡山の実業家でコレクターの石川康晴氏が主導していること。第二に、そのためキュレーターもアーティストもほかとあまり被っておらず、独自性を発揮できていること。第三に、作品の多くはわかりやすい絵画や彫刻ではなく、見る者に「芸術とはなにか」を考えさせる広義のコンセプチュアルアートであることだ。だからとっつきにくいかもしれないが、近ごろの住人や観客にこびたようないわゆる「地域アート」よりずっといい。
参加作家は31組で、日本人は4人だけ。多少とも名を知られているアーティストはフィッシュリ&ヴァイス、ピエール・ユイグ、ジョーン・ジョナス、リクリット・ティラヴァーニャ、ローレンス・ウェイナー、眞島竜男、島袋道浩くらい。アーティスティックディレクターを務めるリアム・ギリックともども、大半が無名のアーティストなのだ。その姿勢は潔い。ただし出展作品は、アーティストが来日してつくった新作ばかりというわけにはいかず、3分の1は石川氏のコレクションから出ているという。じつは個人的に一番おもしろかったのは、これら旧作を使ったオリエント美術館での展示。モザイク画の隣に赤いミニマル絵画を展示したり(ロバート・バリー)、古代遺物の上方にパンダとネズミのぬいぐるみを吊るしたり(フィッシュリ&ヴァイス)、美術館側もよくやらせたもんだと感心する。ほかにも、銀色に輝く彫刻が駐車場跡地に軟着陸したようなライアン・ガンダーの《編集は高くつくので》や、武器としての弓が弦楽器の弓に変化していく過程を映像化した島袋の《弓から弓へ》が強い印象を残した。どちらもとぼけた外観の内に強いメッセージ性が読み取れる作品だ。やっぱり国際展=芸術祭はこうでなくっちゃ。
2016/10/08(土)(村田真)
アウラの行方
会期:2016/09/17~2016/10/08
CAS[大阪府]
藤井匡がキュレーションを行ない、國府理、冨井大裕、末永史尚の作品で構成された本展。テーマは美術の制度と場を再考することだが、筆者にとってそれは二の次だった。では何が一番なのか。國府理の映像作品《Natural Powered Vehicle》が見られたことだ。この作品には、古い国産軽自動車に帆を張った國府の作品が登場し、彼が自らハンドルを握って田舎道や海岸の砂浜を疾走する。その開放感、ロマンチシズムにグッときたのだ。また、筆者が初めて國府理と彼の作品に出会ったときの記憶もフラッシュバックした。企画の本筋とは無関係に感動しているのだから、キュレーターには申し訳ない限り。でも、たまにはこんな展覧会の見方があっても良いだろう。
2016/10/07(金)(小吹隆文)
『スネーク・ダンス』上映×菅野潤ピアノ・リサイタル
会期:2016/10/03
京都コンサートホール[京都府]
ベルギー人監督マニュ・リッシュのドキュメンタリー映画『スネーク・ダンス』の上映と、同映画で音楽を担当した日本人ピアニスト菅野潤のリサイタルで構成される公演。映画『スネーク・ダンス』は、原子爆弾の起源から3.11後の日本へと至る、アフリカ、北米、アジアの3つの大陸をつなぐドキュメンタリーである。原子爆弾は、当時ベルギーの植民地だったコンゴで採掘されたウランを原料とし、ニューメキシコ州ロス・アラモスで科学者たちによって開発され、日本の2都市で試された。映画では、菅野が演奏するベートーヴェンとショパンのピアノ曲が流れるが、これらの曲は、広島に原子爆弾が投下される少し前、プロジェクトに携わった物理学者のオットー・フリッシュがロス・アラモスで弾いた曲でもある。また、タイトルの「スネーク・ダンス(蛇踊の儀式)」とは、アメリカ西部に居住するネイティブ・アメリカンの儀式のこと。炎と雨を呼ぶ稲妻の力を得るために、その波形が稲妻を思わせる「蛇」とともに、恐怖を克服した踊り手が激しく踊る。この儀式や「蛇」の持つ象徴作用について語るドイツの美術史家・思想家のアビ・ヴァールブルクの言葉と半生が、映画を貫くもうひとつの軸となる(彼は1895~96年のアメリカ旅行中に、ニューメキシコ州やアリゾナ州のネイティブ・アメリカンの居住地を訪問した。そして、第一次世界大戦後の1918~24年に精神病に罹患し、病からの「理性の回復」を証明するために行なった講演のテーマが、「スネーク・ダンス」の儀礼であった。従ってこの講演は、彼自身の「恐怖と狂気の迷宮」からの脱出でもあるという二重性を帯びていた)。
ただし映画には、「スネーク・ダンス」の踊り手の記録映像や写真は登場しないし、大地を這う蛇の姿も映らない。ヴァールブルクやフリッシュの写真、核兵器開発実験や広島・長崎への原爆投下の記録映像といった「過去」の記録イメージはいっさいが不在である。その代わりに映画は、過去について語りながら、「現在の風景」を淡々と映していく。音声とイメージは、重なり合いによって過去を想起させ、あるいは過去との隔たりやズレを強調する(わかりやすい例が、長崎の爆心地近くで多くの児童、教員が死亡した城山小学校について語りながら、「現在の」長崎市内で登下校中の児童や学生を映し出すシークエンスである)。
これは、「風景」についての映画なのだ。打ち捨てられて廃墟と化した鉱山。大企業の独占によって土地や職を失った「不法鉱山労働者」たちが掘り返した、ボタ山の跡が一面に広がる荒廃した大地。うねる大河とジャングルの湿気。青天の下にどこまでも広がる、ロス・アラモスの茶褐色に乾いた荒野。歳月が浸食した奇岩。聖なる地にして汚染された地。更地の中に崩壊した家屋の痕跡が残る、津波の被災地。原爆投下直後の広島と3.11を両方目撃した医師が語る、「言葉を失う光景でした」という言葉。原発事故で汚染された土地。核を産み出した風景と、核によって産み出された風景。それらが美しいピアノ曲にのせて綴られていく。映画上映後のリサイタルは、この映画で「音楽」は単なる背景ではなく、「風景」の無慈悲な荒涼さと拮抗するものであることを示していた。それは、深い悲哀、駆り立てる衝動、包容する赦しを含み、この上なく美しいものでありながら、一方で原爆開発中に科学者が演奏して同僚を楽しませていたという両義性をはらんでおり、安易な共感や感傷を許さない。世界はそのように矛盾してありえる。
では、なぜこの映画『スネーク・ダンス』では、「蛇」もしくは「スネーク・ダンス」の踊り手の姿は映らないのか。「スネーク・ダンス」とは、蛇が象徴する自然界の脅威や絶大な力を、恐怖心に打ち克つことで手中に入れてコントロールする方法だった。その意味では、核以降の世界はまさに、「スネーク・ダンス」を踊ろうともがいている。核という人工的で超巨大なエネルギーの力と恐怖を何とか制御するために。そして核兵器の製造が新たな恐怖を生み出し、世界は帝国主義と資本主義という近代が罹患した病から回復できず、土地を転位しながら負の連鎖を繰り返している。だが、挿入されたヴァールブルクの言葉は告げる。「迷信とは失われた知恵であり、人類と世界を結びつける『神話と象徴』が失われると、原初の恐怖が訪れ、世界はカオスに陥る」。従って、核を産み出した/核が産み出した風景を描く『スネーク・ダンス』には、「蛇」は映らないし、映すことはできない。ヴァールブルクの言葉を借りれば、「神話と象徴」として自然界の脅威的な力との仲立ちを取り持つ存在である「蛇」は、核以降のこの世界にはもはや存在せず、姿を消してしまったからだ。私たちは、「蛇」のいない世界で、独り相撲のような孤独なダンスを踊り続けているのである。
2016/10/03(高嶋慈)
黄金町バザール2016 アジア的生活
会期:2016/10/01~2016/11/06
黄金町+日の出町など[神奈川県]
韓国、中国、タイなどからのアーティストも交えて40作家以上が参加。2つだけ書いておきたい。ひとつは、渡辺篤の《あなたの傷を教えて下さい。》。インターネットを通じて心の傷を募り、円形のコンクリート板にその傷についてのコメントを書いて割り、金継ぎで修復する(傷を癒す)。例えば「女の子に生まれてしまった」「評論家にレイプされた。君がTwitterで暴露しても無駄だよと言われた」「私は愛していない人と結婚した。お互いに愛し合っていないから、罪の意識もない」とか。これらの作品もいいけど、会場となった「チョンの間」の壁を斜めに横切る線や、床にまき散らしたコンクリート片といったインスタレーションがすばらしい。もうひとつは、岡田裕子の《Right to Dry》。黄金スタジオの通路に数百枚の洗濯物を干している。ただそれだけ。「幸福の黄色いハンカチ」ならぬ「幸福の洗濯物」。こういうの好きだ。
2016/10/02(日)(村田真)