artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」企画発表会
会期:2016/06/28
上野精養軒[東京都]
この秋、茨城県北部で開催される芸術祭「KENPOKU ART 2016」の記者発表。これだけ国際展や芸術祭が増えてくると、よっぽど大金かけて海外の大物アーティストを呼ぶとか、ケガ人続出みたいな気の狂った企画を立てないと注目を集めないが、「KENPOKU ART」はどちらでもない。裏返せばとても真っ当な、もっといえば優等生的な芸術祭になりそうだ。まずテーマだが、「海か、山か、芸術か?」。テーマになってないが、田舎でやるんだという意気込みというか開き直りは伝わってくる。場所は日立市や高萩市など5市1町、のべ1,652平方キロ(越後妻有の2倍強)におよぶ広大な地域だが、そこにまんべんなく作品を点在させるのではなく、見に行きやすいように「日立駅周辺」「五浦・高萩海浜」「常陸太田鯨ヶ丘」「奥久慈清流」の4つのエリアに分け、作品を集中させるという。よくも悪くも越後妻有ほど非常識ではないのだ。総合ディレクターは森美術館館長の南條史生、キュレーターには札幌国際芸術祭にも関わった四方幸子の名前も。出品作家はミヒャエル・ボイトラー、藤浩志、日比野克彦、石田尚志、イリヤ&エミリア・カバコフ、妹島和世、須田悦弘、チームラボなど約20カ国から100組近く。地域の人たちとの対話を通して作品プランを組み立てるアートハッカソンを実施して選出したり、県南部のアーティスト・イン・レジデンス「アーカス」の経験者や、伊藤公象、國安孝昌、田中信太郎といった地元作家も入れ込んでバランスをとっている。海あり山あり芸術もあり、ちゃっかり各地の芸術祭の「いいとこどり」をしているような印象もある。後出しだからなあ。でもひとつ感心したのは、県知事で実行委員会会長の橋本昌がとても熱心なこと。会場からの質問も人任せにせず、みずから積極的に答えていた。トップが引っぱっている。出しゃばりすぎなければ最強だ。
2016/06/28(火)(村田真)
イラストレーター 安西水丸展
会期:2016/06/17~2016/07/10
美術館「えき」KYOTO[京都府]
イラスト、漫画、絵本、小説などの執筆、そしてテレビタレントとしても活躍した安西水丸。筆者が大学生だった1980年代はまさに絶頂期で、多くの紙媒体で彼の作品を目にした。なかでも小説家、村上春樹との一連の仕事はいまも印象深い。当時はイラストや漫画で「ヘタウマ」が流行っていたので、彼の絵もその系統だと思っていた。しかし今回、1970年代から2010年代までの作品を通観して、その印象が一変した。作品を子細に観察すると、クライアントや仕事の内容により、じつに細かく絵柄を使い分けているではないか。簡潔な線の美しさも相まって、「これぞプロのイラストレーターの仕事だ」と、大いに感心したのである。その意味で本展は、筆者と同年代の者だけでなく、プロのイラストレーターを志す若者にとっても見ておくべき展覧会と言えるだろう。
2016/06/16(木)(小吹隆文)
シリーズ・映像のクリエイティビティ ナム・ジュン・パイクとシゲコ・クボタ ─折元立身が70年代ニューヨークで出会ったアーティストたち
会期:2016/04/09~2016/07/24
川崎市市民ミュージアム・アートギャラリー1[神奈川県]
折元がニューヨーク滞在中の70年代にアシスタントを務めていたナム・ジュン・パイクと、妻の久保田成子のビデオアートを紹介。歴史的には価値ある作品だろうけど、時代的に先端であればあるほど色あせるのは早い。なにより折元展の感動覚めやらぬいま見せられてもね。
2016/06/12(日)(村田真)
生きるアート 折元立身
会期:2016/04/29~2016/07/03
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
アーティストはだれしも自分の「生」とアートの一体化を夢見るが、「生」のほうは本人もコントロールできない偶然性に支配されるため、いつ、どこで、どんなふうにアートと合体するかわからない。折元の場合1990年代なかばに父が亡くなり、アルツ気味の母の世話をしなければならなくなったことから、なかば強引に生活とアートが合体した。せざるをえなくなった。それが「アート・ママ」シリーズだ。母の幼少期の苦い思い出を元に、巨大なハリボテの靴をはかせて写真に収めた《スモール・ママ+ビッグシューズ》、ベートーヴェンの「運命」に合わせて母の髪の毛を逆立てたりする映像《ベートーベン・ママ 川崎》など、母をモチーフにした連作を発表。いけない言い方だが、母がアルツを背負ってアートに闖入してきた感じ。折元にとっては新たなモチーフの発見であると同時に、母の再発見でもあったのではないか。さらに、介護の合間に抜け出して飲み屋で息抜きする1時間に、メモ用紙の裏に描いた500点ものドローイング《ガイコツ》や、海外で500人もの老婆を集めて食事をふるまうパフォーマンス《500人のおばあさんの昼食》など、「アート・ママ」から派生した作品もある。特にガイコツのシリーズは圧巻、ドローイングに感動するのは久しぶりだ。第2会場では、フランスパンを顔につけて街を練り歩く「パン人間」シリーズをはじめ、70-90年代の作品を中心に紹介しているが、どこか浮いているというか、「アート・ママ」ほどの説得力が感じられないのは、生とアートが一致していないからだろうか。逆にだから尾を引くような重苦しさがなく、安心して笑って見てられる面もある。いやあ見てよかった。
2016/06/12(日)(村田真)
記述の技術 Art of Description
会期:2016/05/21~2016/06/12
ARTZONE[京都府]
ドキュメンタリーは、「記録すること」の使命と、カメラの客観性・透明性への疑義のはざまで揺れながら、自らのアイデンティティの問い直しに直面している。リサーチ、アーカイブの援用、オーラル・ヒストリーといった手法を織り交ぜながら、ドキュメンタリーの可能性を批評的に探究する態度は、いま、ひとつの潮流をなしている。本展は、そうした態度を共有する作家3名(組)(小森はるか+瀬尾夏美、佐々木友輔、髙橋耕平)を紹介する企画。彼らは、ドローイングや楽譜、文学作品などさまざまな記録媒体を映像と組み合わせ、時にフィクションを混在させる手法によって、「ドキュメンタリー」の揺らぐ界面を出現させるとともに、それ自体揺らぎの中にある記憶のありようへと接近を試みている。それは、生きた記録媒体としての身体が持つ「声と語り」の力によって、土地の記憶を再び召喚し、忘却に抗う抵抗となるとともに、非当事者性をどう引き受けるかという問いを考えることであり、被写体への窃視的な視線、支配や搾取の構造、単一のメッセージへの奉仕、フレーミングや編集の虚構性に対する批判でもある。
そのような「記述の技術」の新たな開発へ向けての道筋を、ここでは、「語る身体・声」からの乖離のグラデーションとしてたどってみたい。髙橋耕平の《となえたてまつる》(2015)は、三重県伊賀市島ヶ原にある観菩提寺に伝わる御詠歌「松風」を継承する村人たちを取材した映像作品。御詠歌は、本尊の秘仏が33年に一度、御開帳される際に唄われるもので、映像の前にはその譜面が並べられている。映像は、御詠歌について語る高齢の女性3名へのインタビューという体裁を、とりあえずは保持している。過疎の村では、御詠歌を唄える村人が減っていること、自分たちも先代の住職の妻に教わったこと。彼女たちはやがて、前回(33年前)と前々回(66年前)の御開帳時の思い出話に花を咲かせていく……。
だが彼女たちの語りは、無音の別カットの挿入によって、繰り返し中断させられる。33年前に撮られた集合写真が静止画として挿入され、今回の御開帳に向けての歌の継承稽古の様子が(ただし「無音」で)何度も挿入される。過去と現在の時空の往還。しかし、映像に対峙する私たちは、まだ「御詠歌」を音声的には体験していない。それは、老婦人たちがとりとめなく語る思い出話に耳を傾けながら、かつての継承時に起きた出来事の記憶を共有する時間を過ごしたのちに、初めて「音声」として姿を現わすのだ。映像の最後でやっと、稽古場面は有声になり、ぎこちなくも真剣な声の唱和に混じって、清澄な鈴の音が響いていく。髙橋の映像作品は、「編集」の作為性を顕在化させることによって、反復構造と分断・空白という、33年ごとに繰り返される御詠歌の継承を構造的に身に帯びている。それはまた、記憶の反芻と忘却のプロセスそれ自体の謂いであるとともに、口承によって世代から世代へと記憶が受け渡される、共同体の存続のありようを追体験させるものでもある。
一方、映像作家と画家・作家のユニットである小森はるか+瀬尾夏美がとる手法は、「当事者が語った記憶を文字に書き起こし、本人の声で語り直す(小森+瀬尾)/ドローイングとともに詩的なテクストとして再構成する(瀬尾)」という間接的なものである。とりわけ、2人の共同制作と言える映像作品においては、瀬尾が聞き役となって聞き取りを行ない、その様子を小森が撮影し、語られた内容を瀬尾が書き起こして再構成し、被写体となった人物自身に語り直してもらい、その声を映像に重ねるという手法が採られている。それは、被写体との共同作業であるとともに、「声を一方的に簒奪しない」という態度表明でもある。
小森と瀬尾は、東日本大震災以後、陸前高田に移住し、被災地に住む人々から聞き取った「声」を、映像やドローイング・文章というかたちで記録/記述してきた。本展では、沿岸部と山あいの村、それぞれの場所で終戦を迎えた高齢者たちの記憶を聞き取って再構成した《遠い火|山の終戦》(2016)を出品している。軍国少女だった自分と母親との確執。掘り出した石灰をトロッコで運ぶ、勤労奉仕。山奥の村から兵士を送り出す線路は、はるか遠くの海まで続いている。遠い南洋の海から帰還した兄が持ち帰った、お土産のバナナ。空想の中で海に浸かったそれは、塩辛い味がした。色鮮やかで詩的なドローイングと並置された瀬尾のテクストは、固有名詞を取り去って抽象化され、創作も交えた一人称の寓話的な物語として語られることで、想像力が入り込む間口を広げる「余白」を生み出している。一方、小森のカメラが捉えるのは、語られた場所の「現在の姿」である。その中に立つ、語り手たちと聞き手役の瀬尾の姿。両者が見ているのは、同じだが異なる風景だ。小森と瀬尾の作品は、内にいくつもの記憶の視差を抱え込んでいる。彼女たちの試みは、そうした困難を引き受けながら、自らが体験していない他者の記憶をどう内在化させ、身体化された記述として語り直せるかという問いへ向けられている。
また、佐々木友輔の作品《土瀝青asphalt / infinite loop 2》(2013/2016)では、手持ちカメラで撮られた揺れ動く映像の中で、語る声と映像は分離し、両者の接着面は揺れ動き続けている。約2時間にわたり、歩行の揺れを刻みながらカメラが捉えるのは、匿名的な郊外の風景であり、1910年に長塚節が執筆したリアリズム小説『土』を女性が朗読する声が、淡々とかぶさっていく。長塚の『土』は、茨城県の寒村に住む貧農一家の生活を克明に描いたもので、佐々木はその舞台となった土地を、徒歩や自転車で移動しながら手持ちカメラで捉えていく。映像(現在)と音声(過去)の遊離と多重化。ここで前景化するのは、語り手の身体ではなく、むしろあてどなく歩行する撮影者の身体である。酔いを覚えさせるその振動は、「カメラという装置と撮影者の身体」という物理的存在を絶えず顕在化させるとともに、しばしば映し出される「足元のショット」が、農民の耕す「土」(過去)/アスファルトで均質に舗装された道路(現在)という対比へと導く。
ただし、映像と音声がふと共振を見せる瞬間もある。危うげに揺れるカメラが映し出す、郊外の大型ショッピングモール。朗読する声は、「小作農」が商品経済の構造の中で常に搾取される立場にあることを告げる。同時に映し出されるスマホの画面上では、ツイッターのタイムラインに表示された「長塚節bot」の呟きが流れていく。断片化された小説の一文は、「呟き」という一時的な存在にすぎず、生産されると同時にたちまち情報の海の中で消費されていくのだ。本作は、「郊外」という周縁化された土地をめぐって、映像/音声、土/アスファルト、過去/現在の乖離の中に、「消費と搾取の構造」という近代の根深い問題を照らし出していた。
2016/06/11(土)(高嶋慈)