artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

ズートピア

PC(ポリティカル・コレクトネス)を踏まえて、種の多様性と共存を謳う理想都市の現実と希望を描いた映画だ。物語は、ウサギとキツネのバディによる連続失踪事件と陰謀の捜査を通じて、最後までぐいぐい引っ張っていく。いまだからこそ世界に問うべき、ヘイトと差別が扇動される人間社会の明らかな寓話だが、それを省いたとしても、アニメでしか表現できない動物世界の実在感が魅力的である。

2016/06/01(水)(五十嵐太郎)

ライゾマティクス グラフィックデザインの死角

会期:2016/05/26~2016/07/09

京都dddギャラリー[京都府]

最新のデジタル技術を駆使してさまざまなクリエーションを手掛けるプロダクション、ライゾマティクスが、グラフィックデザインをテーマにした展覧会を開催。田中一光、福田繁雄、永井一正、横尾忠則のポスター約3000点を解析し、「配色」「構成」「感性」の3項目でそれぞれの特徴を数値化。そして、これまでのグラフィックデザインが見逃してきた領域(=死角)を見つけ出し、新たな創造の可能性を提案した。解析結果を見ると、例えば「配色」では、田中一光は白に顕著な特徴が見られるのに対し、福田と永井は黒がキーカラーだが、ほかの色との関係が対照的だ。そして横尾はほかの3人とはまったく異なる特性を持つ。こうした知見は過去にも批評家の言葉で主観的に示されていたかもしれないが、客観的な数値をもとに3Dヴィジュアルイメージ等で示されると、やはり新鮮な驚きを禁じ得ない。その一方、発見した「死角」を基に制作した4点のポスターは、いまいち魅力に欠けていた。少なくとも現時点では、人間の創造力がコンピューターを上回っているようだ。

2016/05/31(火)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00035428.json s 10124681

プレビュー:KAC Performing Arts Program / LOVERS

会期:2016/07/09~2016/07/24

京都芸術センター[京都府]

1984 年に京都で結成されたアーティスト集団・ダムタイプ(Dumb Type)の中心メンバーであった故・古橋悌二のソロワーク《LOVERS─永遠の恋人たち》(1994)は、コンピューター・プログラム制御による映像の投影に加えて、観客の動きを感知するセンサーによるインタラクティヴィティを組み込むことで、歩み、駆け抜け、背後の闇へ倒れていくパフォーマーたちの裸の身体と、生で対峙しているかのような静かな緊張感に包まれる映像インスタレーションである。映像、音声、テクストの投影といったメディア・アート的側面とパフォーミングアーツの融合に、エイズ、セクシュアリティ、情報化と身体といった政治性が込められている。本作には国内外に複数のバージョンが存在するが、2001年のせんだいメディアテークの開館記念展に際して再制作されたバージョンは、機材の劣化により、展示不可能な状態にあった。
これを受けて、古橋の卒業校でもある京都市立芸術大学の芸術資源研究センターでは、2015年より、高谷史郎を中心とするダムタイプのメンバーの協力のもと、《LOVERS》の修復を進めてきた。修復の完成を機に、京都では約10年ぶりとなる展示が実現するほか、修復の関連資料も合わせて展示される。また、関連イベントとして、ダムタイプの過去作品の上映会、トークイベント、ゆかりのアーティスト等によるナイトパーティーが企画されている。メディア・アートのマスターピースの修復・保存という意義に加えて、パフォーミングアーツとデジタル技術の共存、分野横断的なアーティストによる共同制作、ダムタイプと古橋の回顧など、多角的なトピックを含む本展は、幅広い関心を持つ層にとって、過去の作品と将来の展望をつなぐ画期的な機会になるのではと期待される。


古橋悌二《LOVERS─永遠の恋人たち》
© Canon ARTLAB

2016/05/30(月)(高嶋慈)

Screening 'Melting Point' + TEGAMI Project from Hamburg

会期:2016/05/24~2016/05/28

The Third Gallery Aya[大阪府]

映像インスタレーション作家、稲垣智子の企画による、5名の映像作家の上映会。経緯はやや複雑だが、2011年の東日本大震災を受けて、ドイツのハンブルク在住のアーティスト、綿引展子が発案した「TEGAMI」展(日本のアーティストが何を考え、どう行動しているのかをハガキに託してドイツに送り、現地で展示する企画)に稲垣は参加しており、本年度の「TEGAMI」展では「TEGAMI 日本人アーティストの視点 稲垣智子」を個展として開催した。合わせて、会期中のイベントとして上映会「Melting Point」を企画し、稲垣が選出した他5名の作家(伊東宣明、大崎のぶゆき、小泉明郎、松井智惠、山城知佳子)の映像作品が上映された。帰国後、大阪で開催された上映会が本展である(山城作品が上映されない代わりに、稲垣の作品が加えられたラインナップとなった)。いずれも、震災を直接反映したものではないが、2011年以降に制作された作品の中から選出されている。
伊東宣明、大崎のぶゆき、小泉明郎、松井智惠、稲垣智子という顔ぶれは、もしこれが美術館の学芸員やキュレーターなど、第三者の視点からであれば成立しなかったのではないかという印象を受ける。実際、個々の上映作品を通覧しても、全体を一言でまとめるのは難しい。逆に言えば、稲垣の作品をハブにすることで、全体の均質なまとまりではなく、「稲垣と伊東作品」「稲垣と小泉作品」「稲垣と松井作品」という個々の作品同士の関係性から、稲垣智子という作家の視点が浮かび上がってくるように感じた。
稲垣の出品作《間─あいだ》は、ある女性のモノローグに見えた語りが、カメラアングルの仕掛けによって、よく似た二人の女性が向き合う対話と分かり、分岐した会話は次第に齟齬をきたして口論へと発展していく。ビンタの応酬を境に会話は再び1本の線に収束するかに見えるものの、カメラが映し出すのは「二人」に分裂したままであり、自他や真偽の区別が曖昧に融解した、歪んだ鏡像世界をつくり出す。ここに見られる、同一人物(?)の語りが、向き合った二人の(擬似的な)対話へと分裂し、自己/他者、真/偽が曖昧に重なり合った多重世界の出現は、小泉明郎の《ダブル・プロジェクション #1 ─沈黙では語れぬこと》においても顕著である。小泉の作品では、かつて特攻隊に志願するも飛行機事故の不時着のために生き残った老人が登場し、1)特攻隊の記憶を語る、2)戦死した友人に思いを語りかける、3)それに応える「友人」の架空の会話を本人に演じさせ、2)と3)の映像が対面して重なり合う、という構造である。だがそこに、指示を出したり、演出をつける小泉の声がフレーム外から聞こえてくることで、「戦死した友人」の語る内容(「お前が生きていてくれて嬉しいよ」と肯定する言葉)は、この男性が本心から望んでいることなのか、小泉による脚本なのか、そもそもこの男性は本物の元特攻隊員なのか俳優なのかが曖昧になり、感動的なドラマはメタレベルで解体していく。
また、《間─あいだ》に限らず、稲垣作品にしばしば見られる「反復と差異」の構造は、自身の心臓の鼓動を聴診器で聞きながら生肉の塊を叩き続け、生のリズムを死肉に移植して蘇らせようとするかのような、伊東宣明の《生きている/生きていない》における執拗な反復とも共通する。そこで得られる、境界の溶け合いや崩壊の感覚は、風景やポートレイトの鮮やかな描画が水に溶け出し、おぞましいものへと変質していく大崎のぶゆきの映像作品と通底する。さらに、身体的なパフォーマンスの強度によって、周囲の風景やオブジェと身体的な交感を交わす中から、詩的な磁場を立ち上げる力は、稲垣と松井智惠、両者の作品に見てとることができるだろう。
これは本展のひとつの見方に過ぎないが、一人の作家の作品をハブに介することで、ミクロな場所から立ち上がる思考や感性のつながりが見えてくる。作家がキュレーターを兼ねるということについて、実験的であれ、ひとつの可能性を示しているのではないだろうか。

2016/05/28(土)(高嶋慈)

試写『幸福は日々の中に。』

[東京都]

鹿児島市内にある知的障がい者施設、しょうぶ学園の日常を描いたドキュメンタリー映画。ここの入所者は基本的になにをしてもいい。好きな絵を描いたり、手仕事をしたり、歌ったり踊ったり。ときおり登場するたけしくんは、いつも中庭にしゃがみ込んでなにかを見ているだけ。カメラを向けても気にしないし、ごはんは? と聞かれても「いらない」。ある意味で外界から遮断された楽園ともいえるのだが、ここが楽園であるのはもうひとつ、彼らがネットにつながってないからでもあるだろう。かつて施設は物理的に外界から遮断されていただけなのに、いまでは情報的にも外界と隔てられている。そしてもし彼らが外に出ても、ネットにつながる可能性は少ない。もちろんネットにつながらないから楽園の住人でいられるのだ。そう考えるとネットというのは人間を容赦なく分断し、楽園から追放し、ダメにするものだと思う。それはともかく、彼らが外界とつながるひとつの機会が、障がい者と従業員のパーカッショングループ「otto & orabu」の公演。名称どおり「音」と「おらぶ(叫ぶ)」のコーラスで即興音楽を楽しむバンドだが、これがすばらしい。

2016/05/27(金)(村田真)