artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

太陽

入江悠監督の映画『太陽』を見る。イキウメによる同名の演劇とおおむね同じプロットだが、入江版の方がオラアこんな村イヤだ! 感が強い。すなわち、旧人類であるキュリオ側の少年が中心になっている。なお、地方の問題は、入江がこれまでの作品でも描いたモチーフであり、それが今回はSF仕立てに変換されている。またイキウメ版の方が、新人類ノクス側も昼の旧人類の行動や考えに触れて、合理的な夜の世界に疑問を抱く。そしてラストは入江版の方が救いというか、共生への希望を感じさせる。

2016/07/12(火)(五十嵐太郎)

FAKE

森達也のドキュメンタリー映画『FAKE』を見る。悪者にされた佐村河内の側から社会の反応を見ることは、オウム真理教を題材にした『A』と同様だが、この作品は夫婦の関係に焦点をあてつつ、かといって彼らが正しいと主張するわけでもなく、最後まで何が真実で、何を信じてよいかを宙吊りにして問いかける。そして音楽が本当に好きなの? という森の言葉に応じて、佐村河内が見せる衝撃の終盤のシーンをどう解釈すべきかが突きつけられる。単純に白黒つけて、面白おかしくすることだけを優先する日本メディアのまずさを改めて認識する。

2016/07/10(日)(五十嵐太郎)

KAC Performing Arts Program / LOVERS

会期:2016/07/09~2016/07/24

京都芸術センター[京都府]

裸体の男女のパフォーマーたちが、白く広がる床のエッジの上を歩み、駆け抜け、抱きしめる仕草をし、すれ違いと抱擁を繰り返しながら、背後の闇へ消えていく。電子的だがリリカルな音響と、ささやき声。故・古橋悌二のソロ・ワーク《LOVERS─永遠の恋人たち》(1994)は、極めて美しく静謐な映像インスタレーション作品である。本作には国内外に複数のヴァージョンが存在するが、2001年のせんだいメディアテーク開館記念展の際に再制作されたヴァージョンは、機材の劣化により、展示不可能な状態にあった。
これを受けて、古橋の卒業校である京都市立芸術大学の芸術資源研究センターでは、2015年度に、高谷史郎を中心とするダムタイプのメンバーの協力のもと、《LOVERS》の修復を行なった。今回の展示では、修復された《LOVERS》とともに、修復の関連資料も合わせて展示。筆者はこの修復関連資料の展示に関わっているが、その過程で見えてきた2つの点から本展を記述したい。
1点めは、映像、音声、コンピューターなどを用いて時間的な鑑賞経験をもたらすタイムベースト・メディア作品の修復における「オリジナリティ」の問題である。複数のヴァージョンが(再)制作され、過去の展示歴において、展示空間のサイズの揺れ(理想的には10m四方/実際には8m~14m四方が許容範囲)や天井から投影されるテクストの有無が見られたように、《LOVERS》という作品の物理的現われは常に揺らぎの中にあった。また、機器の技術的進歩が作品の美的質に関わってくる場合もある。制作当時は技術的限界だったプロジェクターの解像度や輝度の低さは、現在、技術的には改善可能だが、当時の「不鮮明な暗さ」「映像身体の亡霊的な質」を作品の美的質としてどこまで保持すべきかという問題がある。
さらに、今回の修復作業では、故障した機器の交換やアナログ映像のデジタル化に加え、本作をコンピューター上の仮想空間で再現する「シミュレーター」が制作された。《LOVERS》における各パフォーマーの映像の動きはコンピューターで制御されているため、映像を解析・数値化した情報を確認し、作品を動かしているプログラムを検証する作業が必要だからだ。このシミュレーターには、「Actual」と「Ideal」の2種類が存在する。「Actual」は、現行の《LOVERS》におけるパフォーマーの実際の動きを再現するもの。 一方、「Ideal」は、古橋が編集したヴィデオに基づき、彼が制作時に思い描いていたであろう理想的な動作をシミュレートするもの。それぞれの動きをグラフ化したタイムラインでは、「Actual」と「Ideal」の2本の線はわずかなズレを見せているが、その意味するところは大きい。「実現されなかった理想状態」を仮想空間で再現可能にし、視覚化して記録できることで、将来的な修復や再制作において、どちらに参照・準拠すべきか? という「オリジナル」概念の所在や有効性についての問いを提起するからである。


古橋悌二《LOVERS―永遠の恋人たち》展示風景
撮影:表恒匡

2点めは、「生身の身体による一回性の出来事としてのパフォーマンスをどう記録/再現するか」という問題である。今回の企画では、ダムタイプの過去作品の上映会(とりわけ《LOVERS》とほぼ同時期に制作されたパフォーマンス公演『S/N』(1994年初演))、《LOVERS》の展示、「シミュレーター」の展示、という3つが平行的に存在したことが大きい。それは、身体性が縮減されていく過程として記述できる。
『S/N』と《LOVERS》は、古橋のHIV+感染を基軸に、エイズ、セクシュアリティ、情報化と身体といった政治性に加えて、パフォーマーたちの身体がボーダー=境界線上を行き交い、背後の闇へと身を投じる構造においても共通点を持っている。「私は夢みる 私の性別/国籍/血/権威/恐怖が消えることを」というテクストが流れ、「外国人」と表示されたパスポートコントロールのモニターに映された女性が、「友達をつくるため、愛し合うためにはこんなものは要らない」とパスポートを破り捨てる『S/N』においては、終盤、壁の上で服を脱ぎ捨てたパフォーマーたちが壁の向こうへ身を投じる行為は、強制的な排除の執行であり、あるいはあらゆるボーダー=境界の向こう側への、身を賭した命懸けの跳躍である。弾丸のように高速で投影されるテクスト、つんざく爆音、歓喜と悲鳴の祝祭の中で進行する『S/N』に対して、《LOVERS》は極めて静謐で親密に、観客の身体と思考に対峙する。それは、パフォーマンス作品の時間的・空間的有限性や祝祭性を、記録映像とは別のかたちで抽出・変換して「再生」させているとも言える。
ほぼ等身大でプロジェクションされる身体、空間全体を包む全方位へのプロジェクション、背景のブラックアウトによる展示室の物理的な壁の消滅、そしてセンサーの作動により、古橋の映像が観客の動きに反応して振り向くインタラクティブ性。 これらの特質によって、《LOVERS》は身体的に経験されるのであり、単に映像インスタレーションというより、舞台上のパフォーマンスの「再現」に近づく。私たちは、振り向いた古橋と視線を交わし、彼が目の前で自分自身/他のパフォーマー/空虚を抱きかかえながら、背後の闇に倒れていく様を目撃するかのように感じる。しかしその感覚が幻影にすぎないことは、展示室中央のタワーに搭載された剥き出しのプロジェクターが視界に入る度に、その眩しい光に目を射抜かれる度に、そして機器の作動音が聴こえる度に、露呈される。人工的な装置によって、観客と映像身体は擬似的な交感を親密に交わし合うと同時に、絶対的に隔てられてもいる(そして「シミュレーター」の仮想空間においては、観客の身体はもはや存在せず、ただ神の視点があるのみである)。
ここで、シミュレーターとの比較によって逆照射されるのは、《LOVERS》における観客自身の身体性である。すべてを俯瞰する神の全能の視点とは異なり、現実の物理的空間で展開する《LOVERS》では、観客は四面で同時に生起する出来事すべてを一望できない。白い正方形の床のエッジを歩き、駆け抜け、逆走し、交差し合うパフォーマーの動き、その360度で展開されるさまざまな運動の交錯に誘導されるように、私たちの眼だけでなく身体が動き出し、空間内を歩き回るようになる。そのとき、四角い正方形の床は「舞台」に変容し、そのアクティングエリアの上を歩くのは、身体的存在として覚醒された私たち観客なのだ。スクリーンやモニターを見つめて没入する受動的な鑑賞者から、身体的に覚醒された体験者へ。同時にここでは、「見ること」をめぐる反転が起こっている。観客は、「舞台」を取り囲むエッジを歩くパフォーマーから(擬似的に)見つめ返され、その眼差しを全身で受け止めるのだ。
しかし、能動的な身体として要請された観客は、天井に設置されたセンサーの感知域内にいることで、監視され、動きを「制限」されることになる。センシングの範囲に抵触すると、「DO NOT CROSS THE LINE OR JUMP OVER」の円形を描くテクストに足元を包囲されるのだ。パフォーマーたちの身体をスキャンするように追いかける、「fear」と「limit」の2本の線。「censor/sensor(検閲/センサー)」のズレと重なり合い。《LOVERS》の構造は、四方の壁に映像を投射する中央のプロジェクター・タワーがパノプティコンの監視装置を想起させるように、監視の権力を濃厚に匂わせながら、その反転の企てへと向けられている。私たちに要請されているのは、受動的な傍観者ではなく、また神の全能的な視点に身を置くのでもなく、この隔たりを跳び越え(JUMP OVER)、来るべき誰かを待ちながら両手を広げる他者たちと抱擁し合う想像力の強度である。それはまた、物理的な/想像的な差異の境界線によって分割され、ますます細分化されていく社会に対する批評となる。

2016/07/09(土)(高嶋慈)

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林勇気 個展「Image data」

会期:2016/06/25~2016/07/30

ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]

ここ半年間、個展・グループ展への参加が相次ぎ、精力的に新作を発表している林勇気。最新作《image data》が展示された個展は、デジタルデータとしての映像の成立条件や非物質性、受容や消費のあり方に対する意識をより先鋭化させたものとなった。
冒頭、壁面いっぱいに投影された映像には、海辺、花畑、バーベキュー、ドッグフードのパッケージ、パスタ、飲食店、公園、ビルや雑踏など、ごく平凡で、アマチュアが撮影したと思しき写真が、脈絡は不明なまま、一枚ずつ映される。すると画像は無数の小さな四辺形に切り取られ、回転ドアのようにクルクルと回転し始める。x軸(横軸)とy軸(縦軸)の平面上にのみ存在するデジタル画像に、架空の奥行(z軸)を与えて、それぞれ異なる回転速度を与えて回転させると、どんなアニメーションが生成するだろうか。目をチカチカさせるような黒い穴の点滅によって、デジタル画像は物質的な厚みも奥行きも一切持たないことが露呈する。やがて、それぞれの画像は切り抜かれた無数の断片に分解し、混ざり合い、見えない中心軸の周りを高速で旋回し始める。ブラックホールを連想させる宇宙的な光景とその終焉は、匿名的な画像が日々膨大に生み出され、ネットを介して共有され、消費されていく巨大な墓場を思わせる。
このように、デジカメや携帯電話で手軽に撮影されたデジタル画像の受容や消費のあり方についての意識は、作中で使用された画像の選択方法にも明らかだ。ここでは、インターネットの画像検索において、「イメージの誤訳」として表示された「エラー」画像を順番に拾い上げていくという「エラーしりとり」の手法が採られている(例えば、検索ワードに「犬」と打ち込んで、機械的な誤訳で表示された「ドッグフード」の画像を見つけると、次は「ドッグフード」と打ち込み、紛れ込んだ「パスタ」の画像を拾うといった具合である)。見たい画像を効率よく探すための画像検索システムにおいて、通常は価値のない「エラー」と見なされ、無視される画像たち。それらを拾い上げ、映像作品の中で「再生」させて束の間の命を与えつつ、切り刻んで闇の中に葬り去る林の手つきには、デジタルデータとしての映像の軽さや儚さに対する両義的な眼差しが感じられる。
その姿勢は、「待機画面」のままのブルーのモニター画面が対置されることによって、即物的なレベルで補強されている。それは、「接触不良」のアクシデントといった現在時における潜在性かもしれず、「データの破損・劣化」「データの保存形式の旧式化」といった未来の展示における可能性かもしれないのだ。


《image data》展示風景
撮影:田中健作

2016/07/02(土)(高嶋慈)

ダリ展

会期:2016/07/01~2016/09/04

京都市美術館[京都府]

20世紀のシュルレアリスムを代表する芸術家サルバドール・ダリ。本展は、日本では2006年以来の大規模展であり、ガラ=サルバドール・ダリ財団(フィゲラス)、ダリ美術館(フロリダ)、国立ソフィア王妃芸術センター(マドリッド)の全面協力を得て、初期から晩年に至る約200点が集結している。いわば決定版というべき機会だ。なのに、展覧会を心から楽しめない自分がいる。どうしてだろう。ダリがいつの時代も器用に話題作をつくり続けてきたからか、タレントばりのセルフ・プロモーションが気に食わないのか、すでに何度も作品を見てきたので既視感があるのか。いずれにせよ、問題の本質はダリではなく、自分の思い込みにある。ピカソや岡本太郎などもそうだけど、メディアの露出が多い芸術家を、その影響抜きに評価するのは難しい。そんな筆者が本展で気に入ったのは、初期作品が並んだ第1章。そこには印象派や未来派の影響を受けた作品が並んでおり、若きダリが時代の流行を一生懸命学んだ形跡がうかがえる。「この人、本当はとても生真面目な人なのかな」。そんな気がしてダリを身近に感じたのだ。

2016/06/30(木)(小吹隆文)

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