artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
アピチャッポン・ウィーラセタクン『真昼の不思議な物体』
会期:2016/05/08~2016/05/13
シネ・ヌーヴォ[大阪府]
『真昼の不思議な物体』(2000)は、タイの映画監督・映像作家、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編初監督作品。年齢、境遇、場所もさまざまなタイの人々が、ある物語をバトンのように受け渡しながら口述で語り継いでいくプロセスと、その「再現」映像が、モノクロの映像で綴られる。次の語り手に受け渡される度に、思わぬ方向へ展開・分岐していく物語。整合性という点では破綻しているが、本作を見て感じるのは、サーフィンのような心地よい浮遊感だ。冒頭、車窓の風景を捉えるカメラは、都市の高速道路から下町の市場を抜け、住宅地を行商する女性が即興的に語り出す物語からスタートする。足の悪い車椅子の少年と若い女性の家庭教師。白昼、突然倒れた家庭教師のスカートから転がり落ちた「不思議な物体」。その正体や変容は次の語り手の想像に自由に委ねられ、象使いの少年、村の老婆、中年女性のグループ、にぎやかな小学生たち、手話で会話する女子学生たち……と語り手が交替するごとに、宇宙人の登場するSF、村人による鬼退治、メロドラマ、子どもを誘拐して都会へ逃げる逃避行などとさまざまに変容していく。
口承による物語伝達を記録したモノクロフィルムという性格は、文化人類学におけるフィールドワークの記録としての民族誌映像のパロディを思わせる。さらに、語られた内容を演劇仕立てで「再現」する場面が挿入されたり、「カメラのフレーム外部」から聞こえる音声が侵入することで、カメラの客観性への疑義やフレームの虚構性が示される。だが、ウィーラセタクンの狙いは、ドキュメンタリーの真正性や民族誌映像の客観性への批評にとどまるものではないだろう。テープレコーダーから流れる声に耳を傾け、語り手や演じ手を見守る「観客役」がいることは、演出や虚構性の露呈という側面とともに、口承伝達における「声を媒介とした時空間の共有」という側面を示している。物語の始まりさえも他者に明け渡し、首尾一貫した整合性を手放す代わりに、生き生きとした有機的な語りの力を映画に取り戻し、活性化させることが賭けられているのではないか。ウィーラセタクンの他作品においても、歌や語りの声が宿す魔術的な力は、しばしば象徴的・効果的に取り入れられている。吟遊詩人や口承伝達においては、「聞き手」の存在や願望が強く作用し、時に物語の流れや登場人物の性格・動機付けを変えてしまうほどの力を持つ。そうした即興性と双方向性に開かれた語りの持つ有機的な力を、映画に取り込んで活性化させること。そこでは、語り手の物語と聞き手の願望、映画と演劇、ドキュメンタリーとフィクション、フレームの内と外の境界線は、流動的に揺らぎ溶解している。エンドクレジットで朗々と流れる男性の詠唱は、本作が希求する魔術的な声と即興的な生成の力を象徴的に示していた。
2016/05/13(金)(高嶋慈)
クリーピー 偽りの隣人
黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』は、当たり前の日常がずれて、いつの間にかそうでなくなる怖い映画である。主人公の職場として山本理顕が設計した埼玉県立大学が登場するが、部屋の向こうも見えるその透明な空間とは対照的に、プライベートな家屋の密室性が際立つ。親密な場所の奥底が反転していく感覚は、フロイトの提唱した「不気味なもの」と通底するものだろう。
2016/05/12(木)(五十嵐太郎)
ホース・マネー
ペドロ・コスタ監督の映画『ホース・マネー』は、死の直前の混濁した記憶の迷宮めぐりのような展開である。そして闇を裂く光の効果が強烈だった。病める男のほとんど意味不明な語りから始まるが、物語が進むにつれて、その謎めいた言葉の意味は少しずつ解きほぐされる。が、その記憶は個人の体験で閉じず、ポルトガルの社会的な事件や移民共同体の集合的記憶とも接続していた。ドキュメンタリーとフィクションの境界線が揺らぐような作品である。
2016/05/10(火)(五十嵐太郎)
村上華子「ANTICAMERA(OF THE EYE)」
会期:2016/04/09~2016/05/07
タカ・イシイギャラリー東京[東京都]
およそ1世紀前の最初期のカラー写真「オートクローム」の未使用の乾板を現像して引き延ばした作品が並ぶ。全体に濃い青紫色で、周囲は褐色に縁どられ、ところどころ内側に滲み出すように触手が伸び、その先に小さな円形の島ができている。枠を意識したマーク・ロスコの絵画を思い出す。目を近づけると赤、青、緑の微粒子が見え、そのまま離れていくと今度は点や円が星や星雲のように感じられ、まるで電子望遠鏡で捉えた天体写真を見ているよう。ここで過去が現在に接合され、ミクロコスモスとマクロコスモスがワープしてつながるのだ。もうひとつ《APPRITION(OF THE SUN)》という作品は、ネットから拾った太陽の画像をダゲレオタイプで焼きつけたもの。ダゲレオタイプが流通していた19世紀には知り得なかった黒点やフレアまで写り込んでいて、これも過去と現在の出会いと言っていい。
2016/05/07(土)(村田真)
アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓』
会期:2016/04/30~2016/05/20
シネマジャック&ベティ[神奈川県]
固定カメラでの引きのショットで長回しが多用されているから商業映画のような物語手法ではない。あえて言えばアート的な映画だ。いや、より積極的に「アート系」と称したくなるところがあり、それは引きショットが物語を進める部分とは直接には関係のないものを映すことで、独特の体験が可能になっているところだ。舞台は病院。入院患者はみな兵士で眠り込んでいる。ある兵士の面倒を見る足の不自由な老女。それと眠る兵士とコンタクトが取れるという若い女性が物語の軸となる。病院の隣ではシャベルカーが土を掘り返している。その脇には藪があり、少し行くと湖がある。湖では、市民が体操をしている。カメラは、こうした景色を映す。物語と関係ないかにも見える。が、兵士はこの地にかつていた王が戦をするのに魂を貸しており、そのために眠っているのだという話になり、それらの景色には現在は見えない別の層とのつながりのあることがわかってくる。さて、この表層の物語からしたら余計な景色に目が向かうこの感じには、どこか馴染みがある。これは、越後妻有や瀬戸内での、日常に置かれた美術作品とその周囲の景色との関係に似ている。『光の墓』は「地域アート」的だ。その連想を促進させたのは、クライマックスで女二人が藪の中を歩くシーンだ。若い女は眠る男に憑依していて男として老女とともに歩く。歩きながら、若い女=眠る男は王の世を思い起こし進み、老女は過去を思い返し歩く。歩みの先には、戦時を回想するためのものなのだろう防空壕のオブジェがあったり、若いカップルとそれが骸骨になった二組の彫像があったりする。二人はそうした作品を眺め、批評しつつ、全身でその空間全体を体験する。このさまが「地域アート」体験に近似しているように思えたのだ。体験ということで言えば、虫の音やエンジン音など、本作では音が丁寧に扱われている。音が喚起するのは、単に意味情報である以上に、その場を感じ味わう姿勢だ。あえて言えば、本作は観客に意味理解ではなく、体験を求める。眠る男の夢に入ろうとすることは、夢を知ることより、夢の中でともに生きることを意味するだろうし、そうした体験の次元こそ、アートが開く次元であると言えるのではないだろうか。
2016/05/07(土)(木村覚)