artscapeレビュー

『スネーク・ダンス』上映×菅野潤ピアノ・リサイタル

2016年11月15日号

会期:2016/10/03

京都コンサートホール[京都府]

ベルギー人監督マニュ・リッシュのドキュメンタリー映画『スネーク・ダンス』の上映と、同映画で音楽を担当した日本人ピアニスト菅野潤のリサイタルで構成される公演。映画『スネーク・ダンス』は、原子爆弾の起源から3.11後の日本へと至る、アフリカ、北米、アジアの3つの大陸をつなぐドキュメンタリーである。原子爆弾は、当時ベルギーの植民地だったコンゴで採掘されたウランを原料とし、ニューメキシコ州ロス・アラモスで科学者たちによって開発され、日本の2都市で試された。映画では、菅野が演奏するベートーヴェンとショパンのピアノ曲が流れるが、これらの曲は、広島に原子爆弾が投下される少し前、プロジェクトに携わった物理学者のオットー・フリッシュがロス・アラモスで弾いた曲でもある。また、タイトルの「スネーク・ダンス(蛇踊の儀式)」とは、アメリカ西部に居住するネイティブ・アメリカンの儀式のこと。炎と雨を呼ぶ稲妻の力を得るために、その波形が稲妻を思わせる「蛇」とともに、恐怖を克服した踊り手が激しく踊る。この儀式や「蛇」の持つ象徴作用について語るドイツの美術史家・思想家のアビ・ヴァールブルクの言葉と半生が、映画を貫くもうひとつの軸となる(彼は1895~96年のアメリカ旅行中に、ニューメキシコ州やアリゾナ州のネイティブ・アメリカンの居住地を訪問した。そして、第一次世界大戦後の1918~24年に精神病に罹患し、病からの「理性の回復」を証明するために行なった講演のテーマが、「スネーク・ダンス」の儀礼であった。従ってこの講演は、彼自身の「恐怖と狂気の迷宮」からの脱出でもあるという二重性を帯びていた)。
ただし映画には、「スネーク・ダンス」の踊り手の記録映像や写真は登場しないし、大地を這う蛇の姿も映らない。ヴァールブルクやフリッシュの写真、核兵器開発実験や広島・長崎への原爆投下の記録映像といった「過去」の記録イメージはいっさいが不在である。その代わりに映画は、過去について語りながら、「現在の風景」を淡々と映していく。音声とイメージは、重なり合いによって過去を想起させ、あるいは過去との隔たりやズレを強調する(わかりやすい例が、長崎の爆心地近くで多くの児童、教員が死亡した城山小学校について語りながら、「現在の」長崎市内で登下校中の児童や学生を映し出すシークエンスである)。
これは、「風景」についての映画なのだ。打ち捨てられて廃墟と化した鉱山。大企業の独占によって土地や職を失った「不法鉱山労働者」たちが掘り返した、ボタ山の跡が一面に広がる荒廃した大地。うねる大河とジャングルの湿気。青天の下にどこまでも広がる、ロス・アラモスの茶褐色に乾いた荒野。歳月が浸食した奇岩。聖なる地にして汚染された地。更地の中に崩壊した家屋の痕跡が残る、津波の被災地。原爆投下直後の広島と3.11を両方目撃した医師が語る、「言葉を失う光景でした」という言葉。原発事故で汚染された土地。核を産み出した風景と、核によって産み出された風景。それらが美しいピアノ曲にのせて綴られていく。映画上映後のリサイタルは、この映画で「音楽」は単なる背景ではなく、「風景」の無慈悲な荒涼さと拮抗するものであることを示していた。それは、深い悲哀、駆り立てる衝動、包容する赦しを含み、この上なく美しいものでありながら、一方で原爆開発中に科学者が演奏して同僚を楽しませていたという両義性をはらんでおり、安易な共感や感傷を許さない。世界はそのように矛盾してありえる。
では、なぜこの映画『スネーク・ダンス』では、「蛇」もしくは「スネーク・ダンス」の踊り手の姿は映らないのか。「スネーク・ダンス」とは、蛇が象徴する自然界の脅威や絶大な力を、恐怖心に打ち克つことで手中に入れてコントロールする方法だった。その意味では、核以降の世界はまさに、「スネーク・ダンス」を踊ろうともがいている。核という人工的で超巨大なエネルギーの力と恐怖を何とか制御するために。そして核兵器の製造が新たな恐怖を生み出し、世界は帝国主義と資本主義という近代が罹患した病から回復できず、土地を転位しながら負の連鎖を繰り返している。だが、挿入されたヴァールブルクの言葉は告げる。「迷信とは失われた知恵であり、人類と世界を結びつける『神話と象徴』が失われると、原初の恐怖が訪れ、世界はカオスに陥る」。従って、核を産み出した/核が産み出した風景を描く『スネーク・ダンス』には、「蛇」は映らないし、映すことはできない。ヴァールブルクの言葉を借りれば、「神話と象徴」として自然界の脅威的な力との仲立ちを取り持つ存在である「蛇」は、核以降のこの世界にはもはや存在せず、姿を消してしまったからだ。私たちは、「蛇」のいない世界で、独り相撲のような孤独なダンスを踊り続けているのである。

2016/10/03(高嶋慈)

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