artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

SLOW MOVEMENT『Next Stage Showcase & Forum』

会期:2017/02/12

スパイラルホール[東京都]

スロー・レーベル(ディレクター:栗栖良依)のプロジェクトにSLOW MOVEMENTがある。2020年の東京オリンピック、パラリンピックや文化プログラムで活躍する障害あるパフォーマーを発掘・育成するためのプラットフォームで、サーカスアーティストの金井ケイスケを中心に組織された。本公演はこのプラットフォームによるもの。障害者と健常者がともに舞台を構成する二本の演目が上演された。障害のあるダンサーとしては、大前光一、かんばらけんた、森田かずよが出演した。筆者は普段、舞台芸術としてのダンス公演を中心に批評している者であるが、サーカス的な設えの舞台がもつ包摂力についてずっと考えながら見ていた。管楽器やベース、ドラムなどのミュージシャンとともに、ダンサーたちは客席から舞台に上がってくる。全員が白い衣装を身にまとい、目には隈取をしているなど、最初から「サーカス」的な陽気さが場内を包む。アビリティでダンサーたちは観客を驚かす。片方の足が義足の大前はバレエダンサーらしい高い跳躍と安定した着地が見事だし、かんばらも得意の逆立ち姿で観客を圧倒する。「スーパー障害者」というイメージで、本当に彼らは格好いい。興味深いと思うのは、ノリの良いサーカス的な設えは、いろいろなダンサーの個性を包摂する力があるだけではなく、観客の心を陽気にさせ、芸術と思うと難しく考えてしまうところを、柔らかく巻き込んでゆくのだった。そこには「できる」だけでなく「できない」までも包摂してしまうところがあって、公演直前にエントランスで大道芸のような場が設けられた時、ジャグリングにミスがあった。それでも、この場ではミスは厳しいジャッジの対象ではなく、「それもまたよし」といったような寛容さで迎えられていた。だからといって「なんでもあり」ではないのだろうが、それでも、こうした寛容さが生まれることは、舞台芸術を更新する結構重要な要素のように思えてくる。

2017/02/12(日)(木村覚)

Noism1「マッチ売りの話」+「passacaglia」

会期:2017/02/09~2017/02/12

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]

第1部は童話と別役実の不条理劇を組み合わせたもので、仮面のダンサーが美しくも恐ろしいイメージを出現させる。そして第2部は、17世紀の楽曲とその現代的変換音が切り替わりながら、男女が踊る。決して明快ではない、両者の錯綜した響き合いが印象に残った。

2017/02/10(金)(五十嵐太郎)

乳歯(神村恵、津田道子)『知らせ♯2』

会期:2017/02/10~2017/02/13

STスポット[神奈川県]

昨年3月に神村恵、津田道子の2人で行われた『知らせ』の第二弾(今作からユニット名が「乳歯」とついた)。今回は山形育弘をまじえて3人での上演となった。7つのインストラクションから構成される。最初のインストラクション「言霊」は、まだ山形が登場していない時点で「一人目の山形さんが来る」と100回くらいか、2人で声を合わせ唱え続ける。これが典型的なように、今作のテーマは「見えないもの」との関わりである。山形が現われると、今度は神村が隠れる。山形が床上にあるプロップ(小道具)を即興で取り扱う(筆者が見た回では、山形は新聞紙をゆらゆらとなびかせた)。その後、神村が出てくると、床を這うような姿勢で、どうも床のあたりの空気を感じているようだ。津田がすかさず「何をしているんですか」と聞く。神村は「空気の揺れを確認しています」と答える。つまり、これは神村の不在中に山形がしていたことを当てるゲーム。新聞紙に手をやると、神村は新聞紙の隙間にテニスボールを差し込んだ。なるほど、神村の答えは正解にかなり近かったわけだが、狙いはもろちん、単にゲームに勝つことではない。舞台上で「見えないもの」にパフォーマーが関わること、それ自体を見せることが目論まれている。彼らはこの舞台を「修行」と呼んだが、ゴールのない場の形容としてとても興味深い。床を這う姿勢に「ダンスに見えますね」と、津田はコメントをマイク越しに挟む。津田だけではなく、神村も山形もインストラクションの合間にあるいは最中に対話をし続けている。この言葉たちは、舞台にメタ次元を与える。パフォーマーの行為に単に陶酔することを許さない仕掛けだ。言葉の介入やそうした読み替えは、その場の「関節」を外す。観客は、「見えないもの」をめぐるやりとりを目撃しながら、見えているもののなかに起こる間隙へ想いを馳せた。

2017/02/10(金)(木村覚)

クレア・カニンガム「Give Me a Reason to Live」

会期:2017/02/04~2017/02/05

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

障害者のダンサーである。が、彼女が使う松葉杖は、健常者と同等になるための道具ではない。彼女の身体機能を飛躍的に拡張する人工補綴であり、通常の健常者には不可能な新しい別の動きを創造するものだ。むしろ苦しそうに見えたのは、後半の杖なしにしばし立ち尽くす場面だった。そして最後に歌い出す彼女の力強い声に驚かされた。

2017/02/05(日)(五十嵐太郎)

クレア・カニンガム『Give Me a Reason to Live』

会期:2017/02/04~2017/02/05

KAAT[神奈川県]

2012年のロンドン・オリンピックの関連イベント、「アンリミテッド」で注目を集めたクレア・カニンガムの日本初公演。「松葉杖のダンサー」というだけで、私たちは舞台芸術の本流とは「別枠」とみなしがちだが、カニンガムの舞台はアイディアに富んでいて、こうした「障害者のダンス公演」というものを考えるうえで示唆的な作品だった。本作のベースになっているのは、ヒエロニムス・ボッスの絵画に描かれた障害者の図であるという。音楽にはバッハが用いられるなど、キリスト教的な色彩の濃い作品であることは間違いない。フライヤーに用いられたのも杖を持つ腕が横に伸びて「十字」に見える舞台写真だった。とはいえ、こうしたテーマに基づいて解釈しなくても、惹きつけられるダンス的要素が本作にはあった。それはひとつにカニンガムと松葉杖との「デュオ」の魅力としてあらわれていた。例えば冒頭、舞台の隅に身を傾けると器用に杖を両壁に突き立てて、バランスをとる。松葉杖と身体とのジョイントが緊張を引き出す。他にも、立てた二本の杖に身体を任せて、首を床に近づけたりする。そんなとき、カニンガムの身体の各部の間で微妙な拮抗のせめぎ合いが起きている。ゆっくりとした動作で、派手な見所があるというのではないのだが、そこには見過ごせない微弱な運動が確かに発生している。松葉杖+ダンスという試みと言えば、マリー・シュイナールの作品(『bODY_rEMIX/gOLDBERG_vARIATIONS』)を連想するのだけれど、シュイナールの場合、バリバリに踊れるダンサーが枷を与えられて、しかしそれゆえにさらに一層アクロバティックな運動を見せるのに対して、カニンガムの運動はそんなスペクタクルとは無縁だ。その代わり、松葉杖というパートナーとの長い付き合いを感じさせる道理のある動きがそうである分、未知のダンスに見えてくる。このダンスに近いのは、あえて言えば、舞踏だろう。あるシークェンスでは、衣装の一部を脱ぎ、松葉杖を置いたカニンガムは、下着一枚の状態ですっと立ち、じっと前を向く。ほとんど何もしていないかのような直立はしかし、微妙な動きを含んでいて、緊張を帯びている。ゆっくりとだが彼女は眼差しを右から左へまた左から右へ移動させていた。その間、弱いがはっきりとした呼吸音が舞台を包む。この音にぼくは室伏鴻を想起した。もちろん、カニンガムに室伏のような強烈さはない。とはいえ、室伏のそれに似て、吐く音、吸う音が観客の身体を揺さぶっている。暗黒舞踏の祖・土方巽はエッセイ「犬の静脈に嫉妬することから」(『美術手帖』1969年5月号)で「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生まれついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。」と発言している。ただし、「不具者」はいまや、単なる踊りの霊感源ではなく、現実の肉体を自ら示す舞台上のパフォーマーとなっている。その転換こそ、新しいダンスの兆しになるのかもしれない。もちろん、このことはカニンガムの身体が動けばおのずと舞踏が生成されるなどといった単純な話ではない。カニンガムはしっかりとした方法論でダンスに挑んでいる。ぼくが記述したいくつかの例は、まさに彼女の技法といえるものだろう。それは舞踏とは異なり、イメージへのリアクションというより、アクションの微細な確認作業といったものだ。その真価はまだ筆者には未知数だ。と、筆者はあくまでもカニンガムを振付家として見た。もちろん、2020年を見据えた動きのひとつと捉える向きもあるだろう。しかし、そのような「政局」的な解釈から距離を置くことなしに、2020年以降に続く建設的なかたちは見えてこないだろう。

2017/02/04(土)(木村覚)