artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
ザ・フィルハーモニクス
東北大学百周年記念会館 川内萩ホール[宮城県]
卒計イベントで何度も壇上側にいたが、音楽ホールとして観客側から見たのは初めての体験だった。演奏者が7名のみだと、ステージが広く感じられる。器楽のアンサンブルゆえに、冒頭の曲からメンバーが歌い出して驚く。かなり娯楽よりの内容だが、クラシックのコンサートが形式化される以前の、大昔の演奏はむしろそうだったと『コンサートという文化装置』に書かれていたことを思い出す。
2016/12/08(木)(五十嵐太郎)
前橋の二人:村田峰紀・八木隆行

会期:2016/12/03~2016/12/24
CAS[大阪府]
群馬県・前橋を拠点に活動する1970年代生まれの二人のアーティスト、村田峰紀と八木隆行を紹介する企画。両者の共通項はパフォーマンス性の強い表現にあるが、そのベクトルは対照的だ。村田峰紀は、まるでロックミュージシャンがギターを激しくかき鳴らすように、支持体の表面にボールペンを突き立てて暴力的に線を描き殴り、破壊的な力が加えられた表面の痕跡を提示している。その行為は「ドローイング」というよりは「表面を削り取る」と言った方が近い。ベニヤ板はボロボロに風化した樹肌を思わせ、金属板は熱で溶解したかのような無残な姿をさらしている。唸り声を発しながら全身の力を込めて描き殴る姿は怒りや狂気すら感じさせ、「表現行為」に潜在する暴力的な力を増幅し、見る者にあらためて突きつける。
このように破壊的で内向的な村田に対して、八木隆行は、自作の「浴槽(兼ボート)」をバックパックのように背負って山野や清流などを歩き、湯を沸かして入浴するというパフォーマンスを行なっている。山歩きを楽しんだ後、豊かな緑に囲まれて汗を流す。雪景色の中で湯につかりながらビールを飲む。あるいは、無人の屋上空間を独り占めして入浴する。まるで野点のように、狭く閉じた個室空間を飛び出して屋外の広い空間へ赴き、景色を楽しみながら入浴する姿は、開放的でおおらかさを感じさせる。大阪で開催された本展では、道頓堀からギャラリーまでの道のりを「浴槽」を背負って歩き、ギャラリーの入居する雑居ビルの屋上で入浴パフォーマンスが行なわれた。
ここで八木のパフォーマンスが興味深いのは、一見するとユルく脱力的で無為にすら思える見かけのなかに、密かに政治性を内包している点だ。自然の山野やビルの屋上など屋外の公共的な空間を一時的に占拠し、プライベートな空間へと変容させること。さらに、入浴=「裸になること」を、単に衛生上の日課を超えた、「日本人が大好きな娯楽的習俗」という私的で非政治的な理由に回収させてぬけぬけと成立させ、しかも悠々自適に楽しみながらやってのけるところに、「自主規制・検閲」が跋扈する現在、パフォーマンス・アートとしての八木の優れた政治性がある。
前橋と言えば、2013年に開館したアーツ前橋が記憶に新しいが、「群馬」という地方に拠点を置くことに対して意識的に活動してきた作家に、白川昌生がいる。70~80年代に渡欧し、帰国後の1993年、地域とアートをつなぐ美術活動団体「場所・群馬」を創設した白川の活動は、2014年にアーツ前橋で開催された個展「ダダ、ダダ、ダ 地域に生きる想像☆の力」でも総括的に紹介されていた。そうした前橋(群馬)という地方都市がもつ土壌の豊かさや場所のポテンシャルについても考えさせる展覧会だった。
2016/12/07(水)(高嶋慈)
フェスティバル/トーキョー16 チェルフィッチュ「あなたが彼女にしてあげられることは何もない」
会期:2016/12/02~2016/12/05
南池袋公園内 Racines FARM to PARK[東京都]
ある意味では通常の観客と俳優の位置が逆転していた。すなわち、屋外サイドから、カフェの店内に座る女優をガラス越しに見る演劇である(声や音はヘッドホンを通じて聴く)。何気ない都市の日常風景のなか、卓上のコップやコーヒーを使いながら(ゆえに、前上から撮影した映像も屋外のモニターに流す)、独特の天地/世界創造を突然語り出すSF(?)のような、もしくは独り言の妄想のような、怒涛の30分! だった。それにしても、派手なことをせずとも、普通のモノを手にしながら、わずかな語りで、あっという間に引き込んでしまう岡田利規の演出はさすがである。
2016/12/04(日)(五十嵐太郎)
三代目、りちゃあど
会期:2016/11/26~2016/12/04
東京芸術劇場 シアターウエスト[東京都]
野田秀樹作、オン・ケンセン演出「三代目、りちゃあど」@芸術劇場。出演者や関係者の国籍、手法、題材としては、ガムランと影絵、歌舞伎、狂言、宝塚の要素、英語、日本語、インドネシア語、ジェンダーが混淆し、まさにポストモダンの多様性を具現化する。またシェイクスピアの原作を家元争いになぞらえ、メタフィクション的に書き換えながら、スパークさせた。あまりの情報量の多さゆえに、頭をフル回転してみるべき作品である。
2016/12/04(日)(五十嵐太郎)
踊りの火シリーズ第2弾 目黑大路振付作品「かけら」

会期:2016/12/03~2016/12/04
ArtTheater dB Kobe[兵庫県]
「戦後71年の日本の変遷と推移を、政治・経済・歴史的に検証するのではなく、戦後生まれの女性たちの人生・思想・身体を通じて映し出す」(チラシ掲載のステートメントより)という、ドキュメンタリー性の強いダンス公演。出演者は、70代・50代・30代・10代の世代の異なる4名の女性である。彼女たちはプロのダンサーではないが、アマチュア劇団の経験者や目黑のワークショップの参加者、学校のダンス部の経験者など、それぞれのかたちで身体表現に関わりを持つ。
冒頭、一番若い10代の女性が、他の3人に腕の動きやステップの踏み方を教える和やかなシーンから始まる。アジアの伝統的な舞踊のようだが、音楽はかからず、説明もないため、どこの国・地域のどんなダンスなのか詳しいことはわからない。その後は基本的に、それぞれがソロでダンス、語り、歌などの身体表現を行なうシーンが点描的に連なっていく。
本作で際立つのは、70代・10代の2人に比べ、中間の世代である50代・30代の2人から感じられる苦痛や抑圧の表現だ。30代の女性は、激しいドラムの響きの中、片腕を暴力的に振り回し、虚空に何かを投げつけるような/何かを必死で振りほどこうとしているような動作を息が切れるまで執拗に反復する。50代の女性は、自身の長い髪で目隠しをし、手探りで歩きながら切れ切れのアリアを歌い、観客に向けて手を差し伸べた極点で、サイレンのような高音の叫びを発する。
一方、70代の女性は、カセットデッキにテープを入れ替えながら、その時々に聴きなじんだ音楽とともに自身の半生について語りかける。圧巻なのが、80年代に参加した反原発運動で逮捕され、全裸で取り調べを受けた屈辱的な経験を語った後、「足腰や目は弱ったが、ここ(お腹)だけは私の人生が溜まっていく」と言って、たるんだお腹を見せ、観客と対峙するシーンの緊張感だ。お腹のたるみとは裏腹に、むしろその姿は誇りと不屈の精神に満ちている。また、10代の女子高生は、終盤で再び、冒頭の踊りを繰り返すのだが、今度はチマチョゴリ姿に着替えており、国籍や民族的出自という別の困難を指し示す。だが踊る彼女から感じられるのは、そうした重荷やしがらみを感じさせない、飄々とした軽やかさだ。
こうした対照性が、個人の性質なのか、世代に由来するものなのか、断定することは難しい。しかし、コンテンポラリー・ダンスの成果のひとつが、偽のニュートラルさに漂白された身体の称揚ではなく、多様な差異の肯定にあるならば、本作は、「個」を「世代」「集団」「共同体」へと均していこうとする力や欲望に抗いつつ、「個」を起点として戦後史や社会状況を(断片的にではあれ)浮かび上がらせようとする試みとして評価できるだろう。
2016/12/04(日)(高嶋慈)


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