artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

山崎阿弥「声の徴候|声を 声へ 声の 声と」

会期:2016/12/17~2017/01/22

京都芸術センター[京都府]

山崎阿弥は、自身の「声」を自在に用いて表現するアーティストであり、映像・造形作家でもある。これまで、灰野敬二、坂田明、外山明、鈴木昭男、飴屋法水らとの共演を行ない、2017年1月からNHKで放送される『大河ファンタジー「精霊の守り人」』シーズン2では、ナレーションと「精霊」などのさまざまな声で出演している。本企画「声の徴候|声を 声へ 声の 声と」では、録音された声を多重的に空間配置してつくり上げるインスタレーションの【re:verb】と、生声によるライブの【re:cite】という異なる2つの発表形態が展開された。
ライブの【re:cite】では、石川高(笙)と森重靖宗(チェロ)と共演。暗闇と静寂が支配するなか、登場した山崎の喉から漏れるのは、小鳥の囁くようなさえずりだ。一瞬にして、清澄な空気に満ちた森の中へと、空間が変貌する。威嚇するような獣の鋭い声、深い森の奥で鳥たちが囁き交わすざわめき、風の吹きすさぶ草原、ゴボゴボと音を立てて速い水が流れる渓流、そして切れ切れに歌われる子守歌のような微かな旋律。口笛、囁き声、喉を鳴らす音、息の漏れる音、舌打ち、など多様な技法を駆使して発される「声」に、チェロと笙の神秘的な音が寄り添い、さまざまな「風景」が音響的に立ち現われては消えていく。山崎の姿は、モンゴルのホーミーやイヌイットのスロート・シンガーを思わせ、自身の声を媒介に自然と交信しているかのようだ。
一方、サウンド・インスタレーションとして展示された【re:verb】では、会場となった元小学校の1階から3階までのスロープや廊下に、10~20個ほどのスピーカーを点在させ、各スピーカーからそれぞれ異なる「声」が再生され、多重的に重なり合う音の磁場をつくり上げた。1階では動物や鳥の鳴き声が響き合い、生命に満ちた森の喧騒を思わせるが、スロープを上がるにつれて、口笛混じりの歌が聞こえ、「人間」の気配を感じさせる音響が入り混じり、3階の上方からは天上的なハミングの調べが恩寵のように降り注いでくる。あるいは、風に混じってしわがれ声の呪詛のような音響が耳の周りをすばやく通過する。空間の上昇とともにサウンドスケープが変化し、微かな物語性が発生する。録音の複製性を、声の「複数性」へと読み替えて展開させたこの【re:verb】では、ライブ公演における単線的な時間的展開に対して、鑑賞者の歩行やその速度、身体の向きの変化によって、音響が空間的な遠近感を伴って展開・聴取される。音の回廊の中を歩き周り、音の磁場の中で佇み、突然あらぬ方向から聞こえてきた音の方へ耳を澄ます。それぞれの観客ごとに、同じ聴取経験は二度となく、表現手段として複製技術を使っているものの、体験自体は複製できない。水や風がしゃべっているのか? 人の声が自然の音を模倣しているのか? 聞いているうちに両者が曖昧になり、境界が溶け合うような感覚に包まれる。真冬の夜の暗闇の中、ひとりで音の磁場の中に身を置いていると、肉体が消滅した後はこの響きの中に加わって一緒になるのだ、そんな思いに襲われた。

2017/01/20(金)(高嶋慈)

江戸糸あやつり人形 結城座『ドールズタウン』

会期:2017/01/15~2017/01/22

ザ・スズナリ[東京都]

鄭義信/結城座『ドールズタウン』@ザ・スズナリ。見事な人形劇だが、いわゆる黒子タイプではなく、人形つかいが俳優としても振る舞い(というか見えており)、メタ的な展開もなされる。戦時下の街を舞台とし、主人公がつい口から出してしまったブリキのドールズタウンへの呪詛の言葉が、空襲によって現実化し、焦土と化す悲しい物語である。

2017/01/19(木)(五十嵐太郎)

ミュージカル「わたしは真悟」

会期:2017/01/08~2017/01/26

新国立劇場[東京都]

楳図かずおの原作だが、なんでも舞台化できるものだなと感心する。効果的な音と人形つかいによって、意識をもった産業用ロボットのマシン的な動きも違和感なく、人工生命が注入された。なんで、ミュージカル? とも思ったが、「333から~」の歌のフレーズは印象に残った。また、ダンスの振り付けにも、枠組みが与えられた。

2017/01/18(水)(五十嵐太郎)

村松卓矢『バカ』

会期:2016/12/15~2016/12/23

大駱駝艦・壺中天[東京都]

まさかのトランプ大統領選勝利はいうまでもなく、世の中「バカ」がまかり通っている。そんな中での村松の新作タイトルが『バカ』。舞踏はあえて「バカ」になることで舞踏家が世界の暗部を照らし出してきた。だから村松のタイトルは舞踏の正統的な自己表現とも言えるのだが、なにぶん、愚かしさが世界のあちこちで幅を利かせている状況で舞踏の「バカ」はどう機能しうるのかが気になる。最初は魚、次に動物と人間と、ダンサーたちは顔にマスクをつけて踊る。村松演じる老人は次に現れる金属の爪をつけた人間(→ロボット)に座を奪われる。なるほど「生命の神話」とでも言えそうな物語が、本作の流れを作ってゆく。ロボットの次は、鬼の形相の白髪の女が座を奪い、その女によって老人に似た赤子(村松)が出産される。村松は寝そべって、「バカ」「アホ」などと罵る声を浴び続ける。最後は、体をあげ満面の笑顔でその声を受け止める。「笑顔」と言ってみたが、なんとも言えない「全肯定」の表情なのだ。その表情は、単に「バカ」を批判することも、事も、単に「バカ」を利用して生きることも超えて、あるいはそれらを包摂して、人類のバカさ加減とともに生きることを表明しているかのようだった。こういう表現が舞踏ならばできる。舞踏は強いと思わずにはおれなかった。日本のダンスを牽引してきた室伏鴻も黒沢美香もいない世界で、まるで草っ原のようだと思うこともあるのだけれど、大駱駝艦の底力を感じる。淡々と地道に一歩一歩進んでいる彼らは、時代錯誤のように思われることもあるやもしれない(来年は結成45年を迎えるそうだ)が、むしろ時代とちゃんと一緒に生きているのだ。

2016/12/22(金)(木村覚)

プレビュー:DANCE BOX ARCHIVE PROJECT vol.1 1995年のGUYS

会期:2017/02/11~2017/03/05

アートエリアB1[大阪府]

関西ダンスシーンの中核を担ってきたNPO法人DANCE BOXは、20周年記念を機に、これまでの膨大で貴重なダンス関連資料を整理するとともに、舞台芸術関係者のみならず、さまざまな立場の人が活用できる仕組みの構築を目指して、「アーカイブ・プロジェクト」を立ち上げている。2016年10月には、「アーカイブ・プロジェクト vol.0」をアートエリアB1で開催。2014年のKOBE-Asia Contemporary Dance Festival #3で上演された、松本雄吉×垣尾優×ジュン・グエン=ハツシバによる『nước biển/ sea water』のアーカイブ展示を行なった。作品映像に加え、衣装、舞台美術、朗読テクスト、ミーティングの音声データなど、複合的な要素を展示空間に再配置し、モノと情報、記憶が交差する場をつくることを試みた。
「アーカイブ・プロジェクト」の本格的な始動となる今回の「vol.1」は、「1995年のGUYS~ダンスボックス設立前夜、関西のコンテンポラリーダンス激動の時代~」と銘打たれている。DANCE BOX設立のきっかけともなった、1995年に伊丹市のアイホールで行われた公演『GUYS』を基軸に展開する。冬樹、ヤザキタケシ、サイトウマコト、由良部正美ら、今も活躍するダンサーをはじめ、関西の男性ダンサー陣が一堂に出演した『GUYS』にまつわるさまざまな資料を振り返り、当時のアーティストが何を志向していたのか、そして彼らが現在に何をもたらしたのかを検証するとともに、関西ダンスシーンのこれからを考えるための場づくりを試みるという。本プロジェクトは、関西ダンスシーンの歴史的検証の場となるとともに、舞台芸術の記録・アーカイブのあり方をめぐって考える機会となるだろう。
また、90年代半ばの関西(とりわけ京都)では、アーティストたちが緩やかに連帯しながら、自分たちの手で環境作りを行なっていったことがひとつの動向として挙げられる。例えば、ダムタイプ周辺のアーティストたちが1992年に立ち上げた自主運営のアートセンター「アートスケープ」や、京都を拠点に活動するコンテンポラリー・ダンスカンパニーMonochrome Circusのメンバーが中心となって1995年に始めた国際ダンスワークショップフェスティバル「京都の暑い夏」がある。DANCE BOXの設立も、単にダンス分野の一団体の設立であることを超えて、そうした同時代的な動向の中で再考されるべきだろう。

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2016/12/21(水)(高嶋慈)