artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

山下残『悪霊への道』

会期:2017/02/03~2017/02/05

アトリエ劇研[京都府]

コンテンポラリー・ダンサー、振付家の山下残と、バリ島の伝統舞踊という異色の組み合わせ。バリ島で伝統舞踊のリサーチを始めた山下は、観光客として歓待を受けるより、コンテンポラリー・ダンサー=「伝統を侵しにきた現代の悪霊」であることを選択し、良い霊も悪い霊も等しく祀ることで世界のバランスを保つというバリの世界観の中に自身の居場所を見出す、というのが本作の筋書きだ。舞台上では、「バリ伝統舞踊の師匠からレクチャーを受ける山下」という構図がリアルタイムで進行していく。師匠役は、バリに渡って伝統舞踊を習得した日本人ダンサー、かるら~Karula~。彼女が語る言葉──舞踊の型、骨や内臓への意識、「猿」「男性」「女性」の演じ分けといった具体的な説明から、トランスに入ることもある舞踊、その根底にある宗教観や文化、西洋の舞踊との違い、自身の身体観や思想に至るまで──が、「日/英二言語のテクスト」としてスクリーンに投影され、山下の身体に次々と指示を与えていく。舞台の端に現われ、自然体で軽く身体をほぐした山下は、膨大な量のテクストとして表示される「師匠の声」を流し込まれ、次第に変容していく。
山下の代表作のひとつ『そこに書いてある』(100ページにおよぶ冊子を観客に配り、各ページに書かれた言葉や絵とダンサーの動きを見比べながら舞台が進行する)もそうだが、ここで焦点化されているのは、「言葉による伝達」と身体の動きの相関性/失敗やズレである。本作の舞台中央で「主役」の座を占めるのは、むしろこの「言葉を表示する饒舌なスクリーン」であり、秀逸なのはスクリーンの装置としての両義性だ。横長のスクリーンは上下二段に吊られており、かつ舞台を手前の空間(山下)/奥の空間(師匠)に二分する役割も果たしている。舞台奥で「手本」を踊ってみせる師匠の姿は、半透明のスクリーンに遮られて、よく見えない。文字通り山下と師匠の「あいだ」を介在するスクリーンは、師匠の言葉を伝達すると同時に両者を分断してしまう。この「媒介すると同時に分断する」というメディアの両義性は「距離」の介在でもあり、それは「バリ伝統舞踊」という他者の文化への「遠い隔たり」の感覚とも呼応する。ガムランの優しい響きが舞台を包むが、それは心地よい陶酔へは誘ってくれない。観客は、絶えず「ズレ」に直面し続ける時間を味わうのであり、ここで提示されるのは、言葉/身体のズレ、生身の肉体/映像のズレ、手本/模倣のズレ、といったさまざまなレベルのズレや差異の表出である。
そうしたズレや差異はまた、両者の「ダンス」を支える基盤の層の厚みの違いでもある。バリ伝統舞踊の基盤を成す宗教観や精神性などの豊かな土壌、かるら~Karula~自身の触発的な言葉や思考が饒舌に語られる一方で、山下はそれに対等に向き合う言葉を持ちえず、非対称な関係性が露わとなる。また、「言葉とそれをインストールされる身体」の実演は、山下の動きを動機づけるものが、自身の「いまここ」にある身体から切り離されて存在する「外部」にしかないことの露呈であり、 しばしば「踊ること」の絶対的な根拠として無条件に称揚されてきた「内的衝動」への疑いが提起される。
それは同時に、「振付」に対する問題提起でもある。ここで行なわれているのは、「バリ伝統舞踊のレッスン」という表面的なレベルを超えて、よりメタレベルにおいては、「言葉によって他者の身体を遠隔操作的に動かす」という「振付」の実践であり、オーセンティックであるがゆえに通常は不可視の「外部から指示を与える振付家の言葉」と「その言葉の実装によって動かされるダンサーの身体」との関係性や暴力的な側面が、「字幕の介在」によって剥き出しにされる。ここで真にデモンストレーションされているのは、(精霊ではなく)「他者の声(振付家の絶対的な声)による憑依」であると捉えるならば、「悪霊」とはすなわち、憑依された身体を変容させる「振付」の謂いに他ならない。
しかしいったい、「悪霊(亡霊)」になるのはどちらなのだろうか? 「股関節の間を無限大に」「肝臓を意識しなさい」といった指示を受け、ぎこちなく身体を動かす山下は、自分の意志とは別の何かに動かされ、取り憑かれているように見えてくる。一方、師匠の踊る姿は上段のスクリーンにリアルタイムで「映像」として映され、「実況中継」されるが、その引き延ばされた粗い画質は、非実体的な皮膜的存在、すなわち「亡霊」として、文字通り宙を漂い始める。あるいは、「影絵芝居」の説明シーンでは、踊るシルエットが「動く影絵」としてスクリーンに映し出され、実体を失って浮遊する。
本作は、「伝統舞踊についてのレクチャーの実演」という体裁を取り、身体運動についての緻密な言語分析を提示しながらも、複数の仕掛けによって相対化を図り、「ダンス」についての問いを照射する、優れた作品だった。

2017/02/03(高嶋慈)

プレビュー:Monochrome Circus+Kinsei R&D『T/IT:不寛容について』

会期:2017/03/10~2017/03/12

京都芸術センター[京都府]

ダンスカンパニー・Monochrome Circusを率いる坂本公成と、LED照明を手がける照明家・藤本隆行(Kinsei R&D)によるコラボレーション・シリーズ作品の第3弾『T/IT:不寛容について』が上演される。ドラマトゥルクにShinya B(米国ペンシルバニア州立テンプル大学芸術学部アート学科上級准教授)を迎え、作曲は元dumb typeメンバーの現代音楽家・山中透が手がける。最先端のメディアとダンスを融合し、国際社会が抱える問題を「Tolerance/Intolerance(寛容/不寛容)」という切り口から考察する舞台作品になるという。
1990年に設立され、京都を拠点に活動するMonochrome Circusは、各メンバーが独立してソロやデュオの公演を行なっており、グループとしては即興的なコンタクトを活かした有機的なアンサンブルを持ち味としている。家具やグラフィックのデザインを手がけるgrafなど、他ジャンルのアーティストとのコラボレーションも積極的に行なっている。今回、Monochrome Circusと3度目のコラボレーションを行なうKinsei R&Dの藤本隆行は、1987年から dumb type に参加し、主に照明並びにテクニカル・マネージメントを担当してきた。2000年代以降は、LED照明を使った舞台作品の制作を開始。2010年からは大阪の山本能楽堂にて、古典能の演目にLED照明を付ける試みも始めている。
世界的な難民問題、テロと移民排除の動き、ドナルド・トランプのアメリカ大統領就任がもたらす波紋など、人種・民族・宗教・言語といった共同体の成立基盤をめぐり、同化/排除の構造や対立はますます激しさを増している。そうした現代社会のあり方に対して、身体表現とメディアを融合した舞台作品がどのように切り込むのかが期待される。

2017/01/30(月)(高嶋慈)

プレビュー:村川拓也『Fools speak while wise men listen』

会期:2017/03/04~03/05 早稲田小劇場どらま館
会期:2017/03/09~03/12 アトリエ劇研

気鋭の演出家・村川拓也による演劇作品『Fools speak while wise men listen』(2016年9月に京都のアトリエ劇研にて初演)が、東京と京都の2都市で再演される。本作は、日本人と中国人の「対話」計4組が、ほぼ同じ内容を4セット反復するという基本構造を持つ。同じ「対話」が「(演出家不在の)稽古風景」のように何度も繰り返されるなか、「対話」の不均衡さが露呈されるとともに、「反復構造とズレ」によって「演劇と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造を鋭く照射する作品であった(詳細は以下のレビューをご覧いただきたい)。
この初演の後、村川は、中国でのワークショップとその発表公演、そしてユン・ハンソル監修の『国家』(韓国ver.)の2作品を各国で上演した。いずれも現地に滞在し、募集した出演者たちと共に作品を制作・発表することで、自身の立ち位置や政治・国家といった大きな事象への関わり方を問われる契機となったという。それは、2017年秋に京都で上演が予定されている〈日本・中国・韓国〉に関わる新作公演に向けての必要な過程であり、今回の再演にも大きな影響を与えるものと思われる。
また、村川は以前にも、「再演」の持つ可能性について追究してきた。前作『エヴェレットゴーストラインズ』は、公演の日時と舞台上で行なう指示が書かれた手紙を「出演者候補」に送り、指示に応じて現われた出演者(と指示を断った「不在」の出演者)によって舞台上の出来事が進行する、偶然性や不確定性をはらんだ演劇作品。1年後の再演では、上演形式を大きく変更し、4バージョンに展開して上演された(例えば、ver. B「顔」はある個人の死についての記憶を共有する複数人が舞台上に召喚され、ver. C「記録」ではARCHIVES PAYと共同制作し、あらゆる記録装置が持ち込まれた舞台上で、出来事の採集が同時進行的に行なわれた)。「初演のコンセプトを引き継ぎつつ、作品をひとつの演劇形式と捉え、その形式に4つのアイデアを投入することで本番ごとに異なる作品を生み出す」ことが目論まれた『エヴェレットゴーストラインズ』と同様に、今回の『Fools speak while wise men listen』の「再演」もまた、初演以降の現実社会の変化と村川自身の海外での上演経験によって、さらなる変貌を遂げて立ち現われることが期待される。

関連レビュー

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/01/30(月)(高嶋慈)

プレビュー:砂連尾理『猿とモルターレ』

会期:2017/03/10~2017/03/11

茨木市市民総合センター(クリエイトセンター)センターホール[大阪府]

「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」と題されたパフォーマンス公演。演出・振付を手がける砂連尾理は、2003年より東北地域と交流があり、東日本大震災後に避難所生活をする人々が語る言葉とその身体に圧倒された経験をもとに創作された。タイトルの「サルト・モルターレ」とは、イタリア語で「命懸けの跳躍」を意味する。非常に困難な状況を経験した人々の命懸けの跳躍=サルト・モルターレを考察し、未来に向けて生きる私たちのサルト・モルターレの模索を試みるパフォーマンス作品であるという。
市民とのワークショップを通じて制作・上演されるこの作品は、2013年に北九州で、2015年に仙台で上演された。今回、大阪の茨木公演では、市内の追手門学院高校演劇部と協働し、自身の経験にない震災の記憶にどのように触れ、想像し、語り伝えていくかが模索される。さらに、どこで誰と演じるかによって振付の意味が更新される本作の巡演するプロセスを、アーカイブするプロジェクトが同時に開始されている。参加するのは、東北で記録と継承の活動に取り組む映画監督・酒井耕とアーティスト・ユニットの小森はるか+瀬尾夏美。ダンスと記録、アーカイブが互いに創発し合う試みを目指すという。3月10日~11日には、小森はるか+瀬尾夏美による展示「二重のまち/声の跳躍」が同センター内で開催される。本公演にあたって砂連尾と制作した映像と、絵や文章による展示が行なわれる。また、3月11日には、座談会「命懸けの跳躍(サルト・モルターレ)からどんな身体・言葉に出会うのか」も開催予定。さらに、2月~3月初旬にかけて、関連プログラムとして、酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」の上映会や、「みちのくがたり映画祭」も開催される。「語ること」と「聞くこと」、「他者の記憶の継承」という困難だが切実な試みについて、言葉と身体、映像を通して多角的に考える機会となるだろう。
公式サイト:https://sarutomortale.tumblr.com/

関連レビュー

プレビュー:みちのくがたり映画祭──「語り」を通じて震災の記憶にふれる──|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/01/30(月)(高嶋慈)

石田尚志 映像インスタレーション

会期:2017/01/20~2017/01/30

地下鉄千代田線乃木坂駅から国立新美術館への通路[東京都]

先日来たとき見逃したので、あらためて見に行く。地下の通路の壁と天井に映像インスタレーションしているのだが、なぜ石田尚志の作品が選ばれたのか、見てみて納得した。石田は絵を描く過程をコマ撮りしてアニメのように見せる映像で知られるが、エスカレータの天井にこれを映すと、絵を描き進むスピードとエスカレータのスピードが同調し、映像を身体で体感できるのだ。なるほど、よく考えられている。

2017/01/30(月)(村田真)