artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
台北ノート
会期:2017/02/15~2017/02/16
横浜美術館[神奈川県]
平田オリザ+盗火劇団「台北ノート」@横浜美術館グランドギャラリー。近未来の美術館ロビーを舞台とし、フェルメールなど、欧州の戦火から避難した名画展に訪れた人々の重層的な日常会話から社会の危機が漏れ伝わるという内容だ。過去のリメイクだが、現在もそのアクチュアリティは失われていない。劇場ではないため、暗転や幕はないが、横浜美術館という本物のアートスペースで体験できるのが醍醐味だった。
2017/02/16(木)(五十嵐太郎)
TOWER(theater)
会期:2017/02/16~2017/02/17
BankART Studio NYK[神奈川県]
2人「TOWER(theater)」@BANK ART NYK。金氏徹平のアートワークによる多孔の直方体からにゅるにゅると、いろんなものが飛び出て、垂れてくる。ユーモラスでかわいい。青柳いづみは生涯をかけて読みきれない本を語り(ボルヘス/カフカ的な)、山田晋平は不条理な状況で子どもの詩を全力で朗読する。シュールさが際立つが、独特な金氏ワールドを演劇化できるものだと感心した。
2017/02/16(木)(五十嵐太郎)
足跡姫
会期:2017/01/18~2017/03/12
東京芸術劇場[東京都]
NODA・MAP「足跡姫」@東京芸術劇場。野田秀樹らしいリズミカルで重層的な言葉遊びが飛び交うなかで、江戸時代の妖艶に舞う踊り子による女カブキが展開する。幽霊小説家が憑くゴーストライター、宮沢りえに憑依する足跡姫など、そこにいない不在を現出させるオマージュと演劇そのものの構造が一致していた。
2017/02/16(木)(五十嵐太郎)
独儀:七つの息
会期:2017/02/14
KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]
ジェン・シュー「独儀:7つの息」@KAAT。彼女の出自でもある東ティモール、台湾のほか、韓国、ベトナム、インドネシアなど、アジア各地の音楽と言語が混在しつつ、伝統音楽を前衛的に歌い、奏でる唯一無二のパフォーマンスだった。そして最後に英語で自作を解説する。それにしても、声のいいこと。それだけで圧倒的に聴かせてしまう。
2017/02/14(火)(五十嵐太郎)
冨士山アネット『ENIAC』

会期:2017/02/11~2017/02/14
のげシャーレ[神奈川県]
和栗由紀夫の元で舞踏を学んだ石本華江。石本のダンス人生を解剖してゆく本作は、ダンス公演か?答えるのは難しいが、「ダンスについてのシアター」であるのは間違いない。石本は、4歳で日本舞踊を、高校時代は現代舞踊を、大学ではコンテンポラリーダンスを、20代で舞踏を学んだ。その踊りが一つひとつ取り上げられて踊られる。だが、だからといって、ダンスはここでエステティックな対象として(だけ)扱われるわけではない。本作で特に問われているテーマがある。それは「ダンスをいつまで踊るのか?」。タイトルは1946年に米国で製作された世界最初のコンピュータの名称。携帯電話(スマホ)やパソコンを頻繁に買い換えるぼくたちは、同じように身体を替えることはできない。ならば、どうやって、アップデートできない(加齢する)体で踊り続けるのか、さもなければいつ、ダンスを止めればよいのか。この問いは、ダンサーにとって切実だろう。石本のダンス歴はまるでアプリを入れ替えるように異なる踊りを踊り替え、しかも舞踏は加齢に強い。そんな石本をフィーチャーして、長谷川寧は舞台に同居しながら、石本を観察し、分析し、研究を重ねる。驚くのは、この「ダンスについてのシアター」がもたらす豊かさだ。これはひとつに、個人史という範囲で行なわれた「アーカイヴ」の試みである。またひとつに、土方の孫弟子となる石本に注目したことで、ダンスの「継承」という問題を引き出した。石本の「アーカイヴ」によって、多様な踊りをインストールしてきた(その点で極めて今日的な)ダンサーが、一度も生前の土方に薫陶を受けなかった世代として「舞踏」の名を担い、踊るとはどんな事態であるのか。舞踏は世界的に人気の踊りであり、近年の石本は頻繁に海外で舞踏のワークショップを行なっているという。その様子も紹介されるが、石本は自分の言葉がいわば「舞踏」という名の「アプリ」とみなされ、いわばそれが他者の身体に「ダウンロード」され、拡散していくことに戸惑うというのだ。筆者は大学の研究者でもあるので、どうしても、アカデミックな視点(例えば「ダンスとは何か」をめぐる哲学的で、社会論的な問い)で長谷川の仕掛けに面白さを感じてしまうが、本公演の肝は、長谷川本人の実存的な悩みなのだ。コンテンポラリーダンスが、日常を重視し、またスタイルではなく個人的な手法あるいは個人から発出するものを重視したダンスであるとすれば、長谷川は彼自身の悩みへと迫り、そこから独自の「シアター」のスタイルを生み出した。その意味で、まさに本作はコンテンポラリーダンスの延長線上にあるのだろう。だが、最終的に本作はダンスというよりシアターなのである。ダンスについてのシアター、あるいはシアターに埋め込まれたダンス。ダンスは「問い」が苦手なのだ。目の前にダンスを提示しながら、それを疑うような振りが、とても難しい。そう考えると、であるからこそ「シアター」の方法を巧みに用いた、という意味で、今後の日本のダンスの分野にとって指針となるような一作といえるのではないだろうか。
2017/02/14(火)(木村覚)


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