artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
戦場のモダンダンス「麦と兵隊」より

会期:2017/02/17~2017/02/19
横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]
日本のモダンダンスのパイオニア江口隆哉・宮操子夫妻が、火野葦平原作の「麦と兵隊」を帝国劇場で発表したのは、日中戦争ただなかの1938年のこと。翌年から彼らは「麦と兵隊」の一部を携えて中国、シンガポール、ジャワ島などを従軍慰問する。慰問の旅は42年まで4年間続き、年に1カ月ほど、1日平均2回公演したというから、トータルでおよそ250公演をこなしたことになる。驚くのは動員数で、1回に100~2700人が詰めかけ、年平均5万人、4年間で20万人もの日本兵が見たというのだ。これが大げさでないのは、屋外の舞台を囲むおびただしい数の兵士たちを捉えた写真によって確かめられる。おそらくダンス公演としては空前の動員数だっただろう。それにしても、アジアにどれだけたくさんの日本兵が派遣されていたことか、しかもそのうちの多くが帰らぬ人となったのだから、なにをかいわんや。ともあれ、そのときのダンスを再現してみようというのが今回の公演なのだ。といってもダンスだから現物はないし、動画も残ってないし、出し物もひとつではないので、残された写真や証言から、「きっとこんな感じじゃなかったか」と想像してリコンストラクトしたという。だからぜんぜん違うかもしれないのだ。
で、実際に公演を見て、まさかこんな振り付けじゃなかっただろうというようなダンスだった。登場人物は男女3人ずつ。女性は前半、カーキ色のシャツに軍帽姿で、下半身はブルマの生足。途中で、古賀春江の絵に出てくるモガが着けていたような真っ赤な水着に着替えたりしたが、当時の写真を見ると、水着はともかく生足は見せていたようだ。男性は腰を前後にクイクイ振る動作を頻発するなど、下世話な動きが目立つ。戦地では「芸術的な舞踊」より「安易で朗らか」な踊りを軍から要請されたといい、観客がどっと笑うようなユーモラスなダンスだったらしいが、さすがに「腰クイクイ」はないだろう。男女の絡みも現代的なコントを思わせるし、ブレイクダンスみたいな動きも採り入れてるし、かなり自由に想像/創造している。制作者はおそらく「こんな感じじゃなかったか」というより、「こんな感じだったらおもしろいのに」という希望で再構築したのかもしれない。ともあれ、美術なら戦争画の現物が残されているので研究も進むが、ダンスは残ってないし、宮以外は記録を残そうともしなかったようなので、このような試みがなければ手つかずのまま闇に葬られてしまうそうだ。ま、それだけに想像力の入り込む余地があるともいえるが。
2017/02/18(土)(村田真)
皆、シンデレラがやりたい。
会期:2017/02/16~2017/02/26
本多劇場[東京都]
根本宗子「皆、シンデレラがやりたい。」@本多劇場。これまで見た根本作品はプロットの複雑過ぎる部分が気になったが、これは気負いがなく、楽しめる。アイドルの追っかけをこじらせた3人の40代女性がスナックにこもって、twitterを武器に女性アイドルに戦いを挑む。物語の最後のパズルのピースは早く読めてしまったが、納得の大団円だった。
2017/02/17(金)(五十嵐太郎)
快快 - FAIFAI- 『CATFISH』

会期:2017/02/15~2017/02/17
CLASKA Room 402[東京都]
快快は小指値と称していた頃から、筆者にとって一貫して〈演劇における役者の疎外〉にフォーカスしてきた劇団だ。例えば『Y時のはなし』の冒頭、スクリーン上にセリフがディスプレイされる前で、役者はそのセリフを読んだり読まなかったりした。戯曲があれば、物語の内容は伝わる。であれば、役者は何のためにいる? 役者はセリフを読む奴隷だ。それも、自分が奴隷であることを隠す奴隷だ。本作は、快快が扱ってきたこの役者性をあらためて主題化した作品となった。「catfish」とは英語でナマズのことだが、スラングとしては「なりすまし」の意味がある。本作はそのタイトルどおり、登場人物は誰もみな「なりすまし」人間。「山崎3世」は泥棒。スーツは背中が透明で裸の状態。「後藤」はやり手のコンサルタントだが、ハゲを隠している。若い「女」は巨乳だが、どう見てもそれは風船だ。会場も「なりすまし」で、目黒のホテルCLASKAの広い一室が劇場になっているのだ。途中、劇は中断し、パーティが始まる。日本酒や寿司が販売される。観客は「劇場の観客」であることをキャンセルさせられ、その間は「パーティの客」にさせられる。いや、日本酒のコップには「観客役10」とさりげない指示が。そう、観客もまたここでは「観客」役になりすましている。そのことを、こうやって煽るのだ。言い忘れていたが、観客には台本があらかじめ配られている。ある役のセリフには、いま自然にしゃべっているようだけれど、実は全部セリフなのだという内容の言葉さえ出てくる。そして、「観客」役のためのセリフがありそれを突然観客に読ませたりもする。そうして、すべてのことが真偽定かならず、真実なのかなりすました嘘なのかわからない空間が出来上がった。実際に身重の役者大道寺梨乃は、狂言回しの「なまず」役を半分降りて、7カ月目の自分はしかしただ妊婦の想像をしているだけなのではと漏らす。身体に起こる出来事さえどこかリアリティに欠けている。なるほど私たちはまさにそんな世界を生きている。「オルタナティヴ・ファクト」なんて言葉が、からかい半分流行ったり。そんな世界に生きる不安を、ユーモアまじりに劇化した。
2017/02/17(金)(木村覚)
かもめマシーン『俺が代』

会期:2017/02/17~2017/02/19
STスポット[神奈川県]
STスポットの小さな舞台の中央、四角くくり抜かれたところに水が溜まり、上からも水がポタポタ垂れている。その真ん中に置かれているのは、金属でできた2mほどの「木」のオブジェ。生命の生長を感じさせる木が人工物で出来ている。本作のテーマである日本国憲法をかもめマシーン主宰・萩原雄太はこのように象徴化した。舞台には一人、俳優の清水穂奈美がいるだけ。彼女は、誰かの役を演じるというよりは、日本国憲法を読み、また「あたらしい憲法のはなし」(文部省が発布当時作成した憲法の副読本)などを読む。「憲法を読むだけで演劇は可能か?」という問いへのチャレンジにも映るが、それは実際可能だった。清水は、ともかく読むことに徹するのだが、途中で(確か自由をめぐる言葉を読むあたりで)語尾が微妙に疑問口調になったり、ラップのような読み方をしたり、怒鳴るように読むところも、小さな声でささやくようなシーンもあるなど、それによって、憲法が舞台の上で引き開かれ、解剖され、観客の心の中で咀嚼されていった。そこで(日本人の)観客は自らに問うことになる。日本国民である自分はこの憲法という土台のうえに生きているが、これが自分をどう規定し、どう促し、また自分はそれをどう意識し、また意識せずに生きているのか、と。当たり前にあるように思っているこれは、誰かがかつて作ったものだ。作り、そして、憲法の中身が浸透するよう、発布当時に人が人に働きかけ、人力で推し進めようとしたものだ。いまの憲法を変えるべきか否かは置いておくとして、そうした憲法を作り、そこに込めた意味を広める力はいまの自分たちにあるのだろうか? 観客の一人として筆者はそんなことを考えながら見ていた。この舞台に「登場人物」がいるとすれば、それはおそらくこの憲法のうえで生きている日本国民なのだ。タイトルに含まれた「俺」とは、つまり、日本人の観客のことなのだ。日本人の観客は、そうして自分の身にひきつけて、主役である自分とともにこの舞台と対峙することになろう。その状況を生むことこそ萩原の戦略なのではないか。「あなたは日本国憲法をどうするつもりなのさ!」と挑発的に問われるわけではない。ただ、清水が憲法を読む空間で、観客は自分を意識させられる。実は憲法に向き合うようで、自分に向き合うことになる作品なのだった。
2017/02/17(金)(木村覚)
プロジェクト大山、アンビギュアス・カンパニー『戦場のモダンダンス「麦と兵隊」より』

会期:2017/02/17~2017/02/19
横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]
大野一雄舞踏研究所は、ダンスアーカイヴ・プロジェクトを数年前から始めている。今年は江口隆哉と宮操子が1938年に上演した『麦と兵隊』にプロジェクト大山とアンビギュアス・カンパニーが取り組んだ。帝国劇場での初演後、日中戦争の戦火のなか、二人は慰問団として戦地に赴き、この作品の一部を上演したという。「再現不可能であることは自明」と本公演の紹介文に記されているように、おそらく参考資料は乏しく、ダンスの再現という点で苦労があったろうことは想像に難くない。それにもかかわらず、過去の作品を取り上げ、現代に問いかけようとする本プロジェクトの意義はそれ自体で評価されるべきものだ。であるからこそ、本作における諸点が少し残念に思えてしまう。『麦と兵隊』という作品の振り付けを再現することは難しかったのかもしれないが、当時の江口、宮が行なっていたダンスとはどんなもので、それを人々はどう受容していたのかという点がもっとクリアであるとよかった。原作と現代の二つのカンパニーのアイディアとが混ざり合って、当時を慮ることが難しく感じられた。その点では、レクチャーパフォーマンスの要素が入っているとよいのではないかと思わされた。
古家優里(プロジェクト大山)らしいコミカルな動きで観客から笑いを取るところは、「今日のコンテンポラリーダンス」的な要素といえるだろう。リズムでイージーに笑いを取ろうとする振る舞いが、戦中という時代を取り上げることとどう関連するのかがよくわからなかった。でも、わからないなあと思いながら、いま、もし大規模な戦争があったとして、慰問団はどう構成されるのだろうかと想像させられた。コンテンポラリーダンスは招聘されるのだろうか。今日の(想像上の)慰問と当時の慰問とではどんな違いが発生するのだろうか。もう少し調べられたらよかったかもしれないのは、当時の兵隊たちの心の様子だ。舞台には当時の慰問団の様子が映された。そこには数千人規模の兵隊たちがしゃがんで舞台へ目を向けていた。彼らは何を思い、ダンスに何を見たのだろう。そこに想像力を傾けることもあったらよかったのではないだろうか。
2017/02/17(金)(木村覚)


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