artscapeレビュー

『nước biển/ sea water』特別展示上映 ダンスボックス アーカイブプロジェクト

2016年11月15日号

会期:2016/10/12~2016/10/29

アートエリアB1[大阪府]

1996年に発足し、関西ダンスシーンの中核を担ってきたNPO法人DANCE BOXは、20周年記念として、過去20年間の上演作品の映像の整備を進めており、2017年2月に大阪のアートエリアB1にて、時代ごとにセレクトした映像を公開する予定だ。このアーカイブ・プロジェクトのオープンを記念して、『nước biển / sea water』の展示上映が行なわれた。
本作では、劇団「維新派」主宰の松本雄吉によるテクストの朗読、ジュン・グエン=ハツシバによる、シクロ(ベトナムの人力車)を海中で漕ぐ少年たちの映像作品、ダンサーの垣尾優によるソロパフォーマンスが舞台上で交錯する。筆者は、2014年の神戸での初演を実見した。上演は、3人が近くの長田港で海水を汲み、劇場まで運ぶ様子の映像中継から始まる。松本が朗読する声は、人間の身体の約60%が水分であること、血液と海水の成分の類似性、人間の体内にも「海」が存在すること、母親の骨を海に流したこと、バケツの中の海水が生物のように揺れて光っていること、そして海水は蒸発して雲に/雨に/川になり、再び海へ戻っていくことを語る。また、ハツシバは、仏教の輪廻の思想が自分をアーティストに導いたこと、来世の生まれ変わりは互いの人生を交換して生きることを亡くなった父と約束したことを語る。「海水=命の循環」というテーマは、観客にも身体的に共有される。劇場に運びこまれた海水を、円形に配置された20個ほどの金だらいに移し替えて舞台上を一周させた後、めいめいがお椀やボール、バケツ、ポリタンクに分け合い、最後にはその海水を海まで歩いて返しに行くのだ。真冬の寒空の下、水を抱えて新長田という場所を歩くこと、しかも家庭内にある容器やポリタンクであることは、阪神大震災の経験をトレースしている感覚を強く感じさせた。
一方、本展示上映のキーとなったのが、「舞台芸術とアーカイブ」の問題である。生身の身体で上演される舞台芸術は、その一回性ゆえに複製が可能なのか、二次元の記録媒体である写真や映像で三次元の空間や身体感覚がどこまで記録可能なのか、(観客の反応も含めて)そぎ落とされるものこそがむしろ本質的な要素ではないのか。こうした問いに加えて、とりわけ本作の場合、「運ばれてきた海水を容器に注ぎ、分かち合う」「港まで皆で返しに行く」という観客参加的な側面が強いため、海水の重さ、歩きながら交わした会話、真冬の寒さ、澄んだ夜空、海の潮の匂いといった身体的な経験の質を(再)共有することは難しい。
記録映像による舞台芸術作品の「完全な再現」は不可能だからこそ、何をその作品のエッセンスとして抽出して見せるのか、例えば効果的なカット割りやカメラワークを駆使した「映像バージョン」として再構築するのか、舞台図面や舞踊譜、構想ノート、衣装や美術といった資料的価値の高いものを展示するのか、当時の批評なども提示して外部からの複数の視線も織り交ぜるのか、といった多様な取捨選択や戦略が問われることになる。
その点で、本展示上映は、記録映像の抜粋も見せつつ、「展示バージョン」と言うべき、インスタレーション的な性格が強いものだった。会場入り口には、港から劇場まで海水を運ぶ道中の映像が流れ、半円形を描いて吊られた松本のテクストを読みながら歩を進めると、足元に置かれた金だらいがS字カーブを描いて誘導するように奥の暗がりへ続く。奥では、上演の記録映像に加えて、派生的につくられたハツシバの映像作品が流れている。また、ハンガーに掛けられた松本の衣装は、身体の「不在」を強調し、今年6月に逝去した松本の死を悼む装置としても機能する。とりわけ興味深かったのが、記録映像と対面するかたちで、3者による打ち合わせの音声記録が聞けたことだ。当初は「劇場内に水路をつくって水を流す」という案が、「人が人力で移すことで水を動かし、循環させていく」アイデアへと変わったことがわかる。過去の上演の記録映像を、その作品のコアが立ち上がる瞬間のやり取りを聞きながら見ること。上演の時に聞いた同じ声を、今は亡きものとして経験すること。舞台芸術のアーカイブの多様なあり方のひとつとして、「手触りのあるアーカイブ」という切り口を実感した機会になった。


展示風景
撮影:岩本順平

2016/10/12(高嶋慈)

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