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パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:鈴木ユキオ+金魚『Waltz』、黒沢美香『Wave』、川口隆夫『大野一雄について』、『吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!』

[東京都]

8月は、鈴木ユキオ+金魚『Waltz』(8月8日~10日、シアタートラム)があり、またd-倉庫でも『ダンスがみたい!15』で黒沢美香(ポスト・モダンダンスに対する黒沢独特の応答として解釈されている『Wave』[8月7日])や川口隆夫(『大野一雄について』[8月8日~9日])の公演など、注目の上演が次々に行なわれる。とはいえ、なによりも見過ごしてはならないのが『吾妻橋ダンスクロッシング ファイナル!』(8月17日、アサヒ・アートスクエア)だろう。2004年にはじまったこのイベントは、一度に旬のダンス作品が多数見られるお得感も売りだったが、重要なのは桜井圭介のキュレーションしたラインナップであること。スタート当初は桜井が「コドモ身体」なるコンセプトを世に問いだした時期とも重なり、たんにダンス好きに留まらない、多様な分野からの興味を奪っていた一大ダンスイベントだった。近年では、出演者のラインナップを見る限り、タイトルにある「ダンス」の濃度は薄くなり、代わりに旬な劇団・ミュージシャン・美術作家が座を占めるようになっていった。しかし、これは桜井のなかからダンスへの思いが消えたということではないはず。むしろ桜井のよしとする「グルーヴ」(あるいはユーモア)が、表現形態としてのダンスの枠を超えて、どん欲に求められていった結果に違いないだろう。とくに3.11以後は、「それでもダンスは可能か?」との問いに桜井は向き合ったに違いない。しかし、なんと今回はダンス組が多数出演するのだ。KATHYは美術系アーティストの水野健一郎とのコラボで出演するし、捩子ぴじんや大橋可也&ダンサーズでおなじみのダンシーズなどの参加も楽しみだ。驚愕するべきは、身体表現サークルの名がリストにあること! しばらく上演活動から遠ざかっていた常楽泰がどんなパフォーマンスを見せてくれるのか、期待と不安とでいまからわくわくしてしまう。この世界で、それでもダンスは可能か? ダンスをめぐる未来は、きっとこの上演の余韻のなかに示されることだろう。

鈴木ユキオ+金魚新作公演「Waltz」(ワルツ)Trailer

2013/07/31(水)(木村覚)

ゼロ・アワー──東京ローズ最後のテープ

会期:2013/07/12~2013/07/15

KATT 神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

KAATにて、やなぎみわの「ゼロ・アワー」を観劇した。彼女の研究熱心を反映したプロットは、音をめぐる批評的作品になっている。メディア・オリエンタリズムのポストモダン的な展開は、同じく日本/女性とアメリカ/男性をめぐって、アイデンティティが揺らぐテーマをもつ「蝶々夫人」が「M. バタフライ」に変容したことと似ていよう。それを可能にしたフォルマント兄弟の音声デザインがすごい。また場面の展開とともに、リング状だった机がどんどん変形する、トラフ建築設計事務所の装置デザインも鮮やかだった。

2013/07/14(日)(五十嵐太郎)

二代目はクリスチャン

会期:2013/07/05~2013/07/07

北とぴあ・つつじホール[東京都]

王子にて、つかこうへいの『二代目はクリスチャン』を観劇した。基本的にはリズミカルで、明るく、キラキラした80年代の空気感を思い出させるのだが、だいぶ前に見たお気楽なイメージで記憶している映画版に比べて、戦争の記憶、差別の問題、親殺しなど、独特の暗さを抱えている。劇中で流れる中森明菜やラッツ&スターなどの歌謡曲が懐かしい。一方、舞台美術はほぼゼロで、照明だけで演出していたのは興味深い。同日に上演された『道化師の歌が聴こえる』は、壁に囲まれた街という設定は面白そうだったが、物語の展開をみると、90分もやる内容なのかと疑問に思った。この展開なら30分くらいでおさまるのではないか。あと、ベタにサティの曲を流すだけでの演出も、個人的にはきつい。

2013/07/06(土)(五十嵐太郎)

大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』

会期:2013/07/05~2013/07/07

シアタートラム[東京都]

上演直前、席おきのパンフレットを目にして、上演時間が「2時間半」とあり、驚愕した。ピナ・バウシュならば休憩込みでそんな尺の作品もあったかもしれないが、日本のダンス作家の作品としてはほとんど前代未聞。「どうなることか」と始まる前は不安もあったし、正直、前半はなくてもいいのではないかとも思ったものの、後半はまるでインド映画でも見ているときのような「ハイ」な状態が訪れ、終幕のころには「まだ30分くらいは全然見ていられる」なんて気持ちになってしまった。日本のダンスのなかでは珍しく原作のある作品だった(ちなみに、大橋の師・和栗由紀夫には美学者・谷川渥の著作をベースにした作品がある)が、SF小説を忠実にダンス化したというよりは、原作とつかず離れずの距離を取り、彼のキャリアの集大成的な作品に新味な彩りを施す手段として、大橋は原作を大胆に利用しているようだった。その点で、飛浩隆ファンにとってはわかりにくい公演になっていたかも知れない。けれども、大橋はそうした大橋作品未体験者を彼独自の舞踏世界へとまんまと誘拐しえたわけで、実際、長丁場の舞台に、客席はうとうとする者は少なく、観客が終始高いテンションを保っていたのは印象的だ。振付の方向としては、2011年の『驚愕と花びら』を思い起こさせる。この作品では、見なれないダンサーたちが舞台を埋めていた。彼らは当時大橋が行なったダンスワークショップに参加した若者たちだった。今作『グラン・ヴァカンス』でも、古参のダンサーたちによって重要場面が引き締められていたとはいえ、多くの時間で、彼らを中心とした新参のダンサーたちの存在が目立っていた。前半は、若い男性ダンサーたちのまだ出来上がっていない気がする身体に戸惑った。それとは対照的に、後半、若い女性ダンサーたちの訓練の跡を感じさせる身体は美しく、見応えがあった。いや、でも、そうしたばらつきのあるダンサーたちが、かたまりとして、醜さも示しつつ美しくまとまってゆくところに大橋の狙いはあったのだろう。そうした傾向は、大橋が「タスク」というよりも「振付」をより積極的に志向しはじめた『驚愕と花びら』に顕著だった。正直に言えば、ぼくは『ブラック・スワン』の頃の大橋が好きだ。緻密で繊細な動作に、見ている自分の記憶があれこれと呼び覚まされてしまう。そうした独特の感覚は今作ではあまり強調されていなかった。先述したことだが、今作でわかりにくかったのは、なにより原作とダンスとの関連性だった。原作があることで大橋が自由になれた部分と、原作があることで原作と今作との関係を問われてしまう部分とが出てくる。前者の効果は非常に大きかったと思う反面、後者に関して、原作を読み込んではいない筆者のような人間には、戸惑う面があった(あるいは小説のファンで大橋作品をはじめて見る観客にも、似たような戸惑いがあったと想像する)。提案なのだが、もっとわかりやすい原作に挑戦してみてはどうだろう。例えば、いま人気の押見修造『悪の華』はどうだろうか。あるいはいっそのこと『くるみ割り人形』でもいいかも知れない。その場合には、今度はバレエ愛好者たちが興味を抱かされることだろう。そう、今回の大橋の試みでもっとも評価すべきは、摩訶不思議なダンス公演というものの前で逡巡する潜在的な観客に、入りやすい「入口」をこしらえるやり方を示したことだ。宝塚歌劇団では、テレビゲームを原作とする作品を上演していると聞く。そうした「あざとさ」を一種の誘惑の戦略としてどう活用できるのかは、ダンスをどうポップなものにするのかという点のみならず、ダンスをどう刷新していくのかという点にも繋がっているはずだ。

「グラン・ヴァカンス」トレーラー

2013/07/06(土)(木村覚)

田中美沙子『闇とルシフェリン』

会期:2013/07/05~2013/07/06

せんがわ劇場[東京都]

久しぶりに新しい才能に出会えたとわくわくした。上演時間の60分を飽きさせない知的な工夫が随所に施されていたからだろう。田中美沙子は、黒田育世が主宰するBATIKに所属するダンサー。確かに「女性性」の表現に黒田のセンスに通底するものを感じるのだけれど、そうした印象をはみ出す力強い可能性を見た気がしたのだ。舞台にはシングルサイズのベッドと黒い下着姿の女(田中)が1人。女は口に、トナカイの角に似た木の枝(先端には小さな電灯が飾られてもいる)をくわえている。なんとも滑稽で奇妙なジョイント。なぜ女がへんてこなオブジェをくわえる運命を生きることになったのか、それはわからない。わからないが無理やり繋がっている二つの存在に目が釘付けになる。田中の体からは、バレエのエッセンスを感じさせる動作が時折あらわれる。けれど、アンコウの体の一部のようでもありまたペニスのようでもある銀色の枝が、その美しさを打ち消してしまう。次に、ベッドが壁のように立てられると、女は闇から残骸らしきものを拾いはじめた。残骸のなかに、明らかにしゃれこうべとわかるパーツがあらわれる。おかしなポーズのおまじない(?)とともに、それらをベッドの向こうへ放り投げる。しばらくすると、今度は完全な形のしゃれこうべを手に田中が姿をあらわした。時間の逆行?魔法?なんだかよくわからないが、枝といいベッドといいこのしゃれこうべといい、ソロのダンスにこうしたアイテムがとても効果的に舞台に置かれているのは間違いない。オブジェが踊る身体を引き立てるだけの役割ではなく、むしろ身体と対等に並び、拮抗しているのがよいのだ。全体として音楽の選択もとても気が利いていた。印象的な音楽が流れるたびに、イメージが切り替わり、その都度、場が面白くなった。けれども、音楽が前に立ちすぎて、音楽に頼りすぎているように見えてしまうのは残念だ。音楽と拮抗し、ときに音楽を裏切り、あるいは音楽不在のダンスであっていい。正直、フライヤーに書かれていた作品についての田中本人の文章と、作品を見たぼくの印象とはあまり接点がない。そういう意味で、ぼくの誤解もあるのかも知れない。けれども、それにしても、風変わりで力強い作品を見ることができた楽しさは否定しようがない。

2013/07/06(土)(木村覚)