artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

レ・ジラフ「キリンたちのオペレッタ」

会期:2013/04/29

六本木ヒルズアリーナ+けやき坂[東京都]

午後うちのムスコがけやき坂の路上に落書きした後、麻布十番で食事してたら開演時間がすぎてしまったので戻ってみると、すでに高さ8メートルの赤いキリンが9頭、けやき坂の落書きの上を練り歩いていた。ほかに歌姫やサーカス団の団長などが歌ったり叫んだりしているが、そんなのはどうでもよくて、目はキリンに釘づけ。胴体の前後にふたり入り、竹馬みたいな高い脚に乗って動かしているのだが、プロポーションもバランスも悪いのにカッコいいのだ。長ーい首は前の人が操作するのだが、その手が丸見え。胴体を支える支柱も丸見え。なのに違和感がない。必要なものは無理に隠そうとせず堂々と表に出す。アートはこうでなくちゃ。しかし既視感を抱いたのも事実で、横浜の「開国博Y150」のとき登場した機械仕掛けの巨大クモとよく似ているのだ。巨大クモはラ・マシン、キリンはカンパニーオフと製作者は違うけど、どちらもフランス製。さすが、納得。

2013/04/29(月)(村田真)

黒沢美香(振付)、上村なおか+森下真樹(ダンサー)『駈ける女』

会期:2013/04/27~2013/04/29

スパイラルガーデン[東京都]

ゆったりとしたらせん状の階段の中程に座して、階段がぐるりと囲む丸い空間を見下ろしながら、公演中ずっと考えていたのは、黒沢美香のダンスは振付に還元できないなにかなのではないかということだった。上村なおかと森下真樹という10年以上のキャリアを積んできた2人のダンサー・振付家が黒沢美香の振付を踊る。コンテンポラリー・ダンスを10年以上ウォッチしてきた筆者のような者にとって、これは間違いなくワクワクさせる企てだ。事実、長身に見えるスレンダーな2人が薄赤い皮膚のような衣裳を纏って、円形の舞台をぐるぐると駈け回る冒頭あたりまでは、「薔薇の人」(黒沢が長年続けてきた、ときに恐怖を催すほど奇っ怪なダンス公演)シリーズが黒沢ではないダンサーによって上演されているかのような錯覚に陥り、興奮させられた。けれども、かなり早い時点で、あれ?と思い始めた。いかにも黒沢らしい振付が繰り出されてはいるものの、それが黒沢のダンスに見えない。森下のダンスは、中学校の教室にいる面白い女の子のような愛嬌がある。不意に見せる仕草につい笑みがこぼれる。それはいわば、あらかじめとらえておいた観客のなかにある笑いのツボを刺激しようとする「昨日」のダンスだ。不意にそんな言葉が浮かんだ。ならばどうだろう。即興を重視するところのある上村のダンスは、いまを感じながら、いまの身体を反省し進んでいく「今日」のダンスとでもいおうか。さて、そうとらえてみたうえで考えると、黒沢のダンスは「昨日」とも「今日」とも違う。あるいは、理想へと向かって邁進する類の「明日」のダンスでもない。あえていうならば、それは「明後日」のダンスだ。思いがけないところに確信をもって突き進む、乙女チックで不思議ちゃん的な、瑞々しいステップだ。黒沢独特の瑞々しい、なにか「はっ」と気づいたら見ているこっちが気絶させられていたとでもいおうか、そんな異次元トリップの感覚はこの舞台にない。いつも通り森下は「昨日」を、上村は「今日」を踊り続ける。振付は確かに黒沢的テイストが込められているのだが、2人の踊りは黒沢のエッセンスと向き合っているように見えなかった。もちろん、黒沢の物真似をすればいいということではない。とはいえ、「明後日」と「昨日」が、「明後日」と「今日」がどう響き合うのか、そこはこの公演の最大のポイントであろうし、少なくともぼくはそこになにかが凝らされているものと期待したのだ。いや、簡単な話だ。森下と上村が、黒沢のダンスをどう受け取り、どう解釈し、どう愛したあるいは憎んだか、それが知りたかったのだ。そこがぼくにはぼやっとしか見えなかった。


POWER OF ART DANCE SERIES VOL.2 上村なおか 森下真樹「駈ける女」

2013/04/28(日)(木村覚)

オオサカがとんがっていた時代─戦後大阪の前衛美術 焼け跡から万博前夜まで─

会期:2013/04/27~2013/07/06

大阪大学総合学術博物館[大阪府]

戦後から1970年大阪万博前夜までの大阪の文化状況を、美術、建築、音楽を中心に振り返る企画展。出品物のうち、資料類は約70件。具体美術協会のものが大半を占めたが、パンリアル美術協会、デモクラート美術家協会、生活美術連盟の資料も少数ながら見ることができた。作品は約40点で、前田藤四郎、池田遊子、早川良雄、瑛久、泉茂、白髪一雄、嶋本昭三、元永定正、村上三郎、田中敦子、ジョルジュ・マチウ、サム・フランシスなどがラインアップされていた。具体美術協会に比して他の団体の割合が少ないのは、現存する資料の豊富さが如実に関係している。このことから、活動記録を残すことの重要性を痛感した。また、本展は大学の博物館で行なわれたが、本来ならこのような企画は地元の美術館がとっくの昔に行なっておくべきものだ。その背景には、美術館の活動が思うに任せない1990年代以降の状況があると思われるが、必要なことが行なわれない現状を嘆かわしく思う。

2013/04/27(土)(小吹隆文)

Crackersboat『flat plat fesdesu Vol. 2』Bプロ、Cプロ

会期:2013/04/23~2013/04/29

こまばアゴラ劇場[東京都]

日本のコンテンポラリーダンスにおける注目の若手作家KENTARO!!を中心としたプロジェクトチームCrackersboat。彼らが行なった、ダンスと音楽の作家たちを集めたイベントがこれだ。遠田誠や岩渕貞太など、名の知られている中堅の振付家・ダンサーも出演していたが、ぼくが見たなかでダントツに面白かったのは、Aokid×たかくらかずきだった。Aokidをはじめてぼくが見たのは、大木裕之が武蔵小金井で行なったイベントのなかでだった。ヒップホップにルーツのありそうなダンスを文系男子の雰囲気のある男の子が一人で、しかもしゃべりながら踊るという、それはそれはとても新鮮なパフォーマンスだった。今回は、たかくらかずきとのコラボレーション。イラストレーターで劇団・範宙遊泳の美術監督も行なっているたかくらは、舞台奥のスクリーンに映る机の上の世界を担当。この箱庭的世界がときに子どもの粘土遊びのようにときにゲームの画面のように変化するのに応じて、目の前のAokidはその世界に巻き込まれ、世界とともに生きようとする。Aokidのよさは、肉体が薄っぺらく思えることだ。彼のアクロバティックな動作は、それができる肉体の力量よりも肉体の軽さ薄さを見るものに感じさせる。そこがいいのだ。そもそも映像が面白く、リアリティを感じさせればそれだけ、目の前の肉体の存在意義が薄くなる、ぼくらはそうした時代に生きている。Aokidがゲームのキャラに見えてしまうとき、そこにむしろぼくらは現在の人間を感じる。今月見た『THE END』がまさにそうであったわけだが、こうした状況で踊る意味をAokidはちゃんと示そうとしている。Aokidのほかには、カラトユカリの演奏がじつにユニークだった。小さなギターをつま弾き、しっとりとした声で歌う、演奏の魅力も際立っていたのだけれど、独特の佇まいになんともいえない面白さがあった。それはなにより、微笑とともに登場し椅子に座ると、ちょこんと花の冠を頭に載せた、その瞬間に濃密だった。声で思いを届けるという、いってみればきわめてプリミティヴな行為を成功裡に遂行するには、どんなにささいなものでもある種の儀式が必要なのかもしれない。花冠は、そんな風なものに思えて、演奏中ずっと花冠とカラトユカリを交互に見続けてしまった。もっといえば、この「どうすれば場が生まれるのか」といった点に敏感になることにこそ、ダンスのなすべき仕事が隠れているのではないか、そんなことをずっと考えていた。

2013/04/27(土)(木村覚)

遠藤一郎公開ライブペイント(「遠藤一郎 展──ART for LIVE 生命の道」)

会期:2013/03/03~2013/04/14

原爆の図丸木美術館[東京都]

遠藤一郎のライヴ・ペインティングは、ともかくミニマル。そして、あえていえば「レディ・メイド」的だ。原爆の図丸木美術館の部屋一面に白い紙を敷き、遠藤は容器から明るいピンクのアクリル絵の具を取り出すと、何色も混ぜることなく、そのまま床に塗り始めた。ピンクが終わり、今度は黒。紙の真ん中に円を描き、塗りつぶす。次は黄色を取り出し、やはりどんな色も混ぜずに、ピンクが地面なら、空に相当しそうな面を黄色くした。パフォーマンスは淡々と進む。特徴的なのは、遠藤が終始「はっ、はっ、」と息を漏らしながらペイントしていることで、必要以上の緊張なり、集中なり、興奮なりが彼のなかで渦を巻いている、そう思わされる。大袈裟ともとれる息づかいとは対照的に、紙の上で展開されているものはとてもシンプルで、なんと形容しよう、ただただ「ぽかーん」としているのだ。そこに、巨大な赤い文字で、紙の左側に「泣」が、右側に「笑」が書き込まれた。これまたシンプル、ニュアンスや含意をほとんどまったく与えないただの2文字だ。遠藤はいつも、まるでマルセル・デュシャンがそうであるように、デフォルメを施さないままの、他人の手垢がべったりついた既成のものを用いる。作家の審美的個性はそれによって極限まで抑えられている。「泣」と1文字書いた途端に「く」と「な」が続く?と予想したのだが、そうした東日本大震災にまつわる類の連想を裏切り、より大きなスケールのイメージが「笑」の文字によってあらわれて、驚いた。これは人間をきわめて遠くの視点から俯瞰して見ている者の言葉だと思った。なるほど、遠藤の最近の活動に、日本列島をキャンバスに「ARIGATO」や「いっせーのーせ」の文字を書くというものがあるが、Googleを使ったあれも、宇宙からというきわめて遠くの視点から見た地球に映る文字である。彼のパフォーマンスというのは、書道家の実演パフォーマンスや、大道芸の脇で似顔絵を描く行為などと同類だと思われがちかもしれない。けれども、どこか決定的に違っていて、やはり「アート」という呼称でもあてがうほかないところがある。とはいえそれは、既存の前衛芸術系のパフォーマンスのあれやこれやともやはり相当に異なる。生命を描写するに相応しい遠藤の熱意(「はっ、はっ、」)がまずあって、その熱意がパフォーマンスの場を通過したその証しとして、なんともいえない「ぽかーん」とした空虚な痕跡を残す。その淋しいような、孤独なような、明るい色が多いのになんだか暗いその闇夜のような手触り。これこそ、遠藤一郎らしいなにかのように思うのだ。

2013/04/13(土)(木村覚)

artscapeレビュー /relation/e_00020563.json s 10086434