artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

はえぎわ『ガラパコスパコス──進化してんのかしてないのか』

会期:2013/06/07~2013/06/16

三鷹市芸術文化センター・星のホール[東京都]

ノゾエ征爾が主宰するはえぎわの第26回公演は、2010年に初演した作品の再再演。はえぎわの芝居は、さまざまな人間のタイプを舞台にまき散らして、現代の社会を舞台に浮き彫りにする。本作では、とくに老いが求心力となっていたのだが、その際に特徴的なのが、人間の醜い部分を露出していく一方で、その表現はじつにカラッとしており、軽く、ユーモアに満ちているという点だ。派遣社員としてピエロを演じる気弱な主人公(ままごと主宰の柴幸男が演じる)が不意に出会った認知症の老婦人と意気投合、自分の部屋で暮らし始める。この出来事に、特養老人ホームのスタッフ、老婦人の娘や孫娘、主人公の兄夫婦や高校時代の友人たちが、絡まってゆく。類型的な人物造形はおもしろおかしくて、時代の病とでもいえるような諸問題を、ある程度自分との距離を置きながらしかし自分にも当てはまることとして観客に考えるよううながす。こうしたところにノゾエの演劇的力量が感じられ、引き込まれる。一方で、人物造形が類型的なぶん、わかりにくいところも出てくる。とくに、主人公と老婦人との愛情生活がどうして始まり、どう進んでいったのかという点。もちろん、老婦人のお漏らしや理不尽な行動に翻弄されつつも献身的に支える主人公の姿など、生活を描く部分はあるにはある。しかし、その生活に主人公は些細でもひとつの発見・感動を見出したりしなかったのか、なんて思ってしまう。結局、主人公の人間に向き合えない性格が自分の名前さえ覚えない女性との暮らしに居心地のよさを感じたという〈コミュニケーション不全状態こそが都合のよいコミュニケーション状態〉という、現代的若者の「らしい」姿を描くことに終始したということか。ところで、本作のタイトル。「ガラパゴス」は日本を指すとともに独自の進化を指しているようだ。進化はしばしば劇中で話題となり、ここが不思議なところなのだけれど、劇中では「老人」が進化の最終状態とされている。そして、老人の次の進化の状態は「?(わからない)」ということになっているのだが、この奇妙な老婦人との愛がより丁寧に描かれれば、そこに次の進化の様は示唆できるのかもしれず、そんなことが描かれたら!なんて空想しているうちに、芝居は終わった。

2013/06/12(水)(木村覚)

黄金の馬車

舞台芸術公園 野外劇場「有度」[静岡県]

会期:2013/6/1・8・15・22
続いて、ここも磯崎新が施設群を設計した舞台芸術公園に移動し、宮城聡が演出する「黄金の馬車」を観劇した。最初から最後まで一度もだれることなく、リズミカルで勢いがあって、メタ的で観客も巻き込んで、面白い。現実と虚構、言葉と身体、旧作の再解釈などがテーマになるのだが、とくに演出に合わせ、気持ちのいい野外劇場の構造を反転させた空間の使い方に感心した。建築家の木津潤平が、これらのデザインを担当している。

2013/06/08(土)(五十嵐太郎)

脱線!スパニッシュ・フライ

会期:2013/06/08~2013/06/09

静岡芸術劇場[静岡県]

ふじのくにせかい演劇祭2013を鑑賞する。静岡芸術劇場では、ドイツの演劇「脱線!スパニッシュ・フライ」。字幕付きでコメディを理解するのは、どうしてもストレスがかかるが、鮮やかな色彩の衣装、髪型、そして過剰な動きでけっこう楽しめる。巨大な絨毯一枚だけでいろいろな働きをする舞台美術が印象的だった。間仕切りの代わりに、ひだを活用したり、一部にトランポリンを組み込むなど、ランドスケープ的な空間である。

2013/06/08(土)(五十嵐太郎)

かもめマシーン『スタイルカウンシル』

会期:2013/05/28~2013/06/02

STスポット[神奈川県]

萩原雄太さん、『スタイルカウンシル』を見ました。この作品は客席の観客に向けられているようで、「未来」や「宇宙」の言葉で指し示された不在の対象に向けられていました。この仕掛けにぼくは率直に感動してしまいました。本作は「3.11以後」の作品です。いわきで取材し、そこで収録したインタビューが用いられています。ボイスレコーダーを手にした役者が、イヤフォン越しにインタビューの音声を聞き、被災者の言葉を役者が口伝えすることで、事柄の焦点は具体化されていました。福島で取材した人の思いを舞台に上げること、同時に、取材したときの萩原さんの思いを舞台に上げること、これが本作のひとつのベクトルです。しかし、それにとどまらず、一体それをしてどうなるのか、被災地への自分の思いはどうしたらいいのか、もうひとつのベクトルはそこから発して、人類の姿を宇宙人にどう説明したら説明したことになるのかという問いへと向かっていきます。ぼくは単純にそのベクトルが引き出されたことに、感動してしまいました。ああ、この芝居の観客はぼくたちではなくて、宇宙人なのか! 宇宙人という観客に見せたい人類の姿とはなにかと問う一方で、リアルの観客は舞台から見放されるのか! 真の観客は神であるバリの芸能がそうであるように、特殊な関係性を舞台空間に構築した気がしたのです。萩原さんの試みは、荒唐無稽に思われるかもしれません。けれども、萩原さんの真面目さが、ここまで至らせたというところになんというか狂気を感じて、ぼくは魅了されました。ただし、こうなると真面目さの真実性が問われることになるのでしょう。萩原さんの真面目さは演技なのか本気なのか、そこが本作の一番の焦点のように思います。真面目さが突き抜けて、芸術どころじゃないと社会活動に向かう人もいるでしょうし、社会と芸術の関係に思い悩んだ末、芸術活動に専念すると決める人もいるでしょうが、萩原さんにはぜひとも、「(芸術も社会活動も)どっちもとる」という立場を選択して欲しいと思ってしまいます。そこで戸惑いあたふたすることも、ひとつのパフォーマンスでしょうし、ひとつ決定的なポイントを見つけて徹底的に掘り下げるのも、見所多いパフォーマンスになりうるかも知れません。たとえばセリフに「それは(ここにはいない誰かが演劇では「いる」と錯覚できること)、錯覚だけれども、僕らのその気持ちは、本当に、あります」「僕らは、僕らを信じます」などという言葉がアイロニーではなく、ストレートな表現だとしたら、この作品は萩原さんの芝居という以上に演劇論であり、もっといってよければ信仰告白です。告白を聞いてしまった観客の一人として、その信仰を萩原さんがどう生きるのかというドラマを見ていきたいと思っています。

2013/06/02(日)(木村覚)

Noism1『ZAZA──祈りと欲望の間に』

会期:2013/05/31~2013/06/02

KAAT[神奈川県]

金森穣さん、『ZAZA──祈りと欲望の間に』を見ました。時間をかけて鍛え上げたダンサーの身体は圧倒的な力を発揮するものだなとあらためて確認しました。第1部の「A・N・D・A・N・T・E」、白い羽(俗にいえば紙吹雪)のようなものがつくる円の周囲をダンサーたちはぐるりと周り、ときに円に入るとダンサーたちは複雑に絡まって、羽を宙に舞わせながら、アクロバティックな連鎖を繰り広げました。そうしたときのよどみのなさに、ダンスのなかの非ダンス的要素を削ぎ落してはじめて生まれる、ストイックな美しさを堪能しました。ロマンチックバレエのしばしば第2幕で展開される妖精たちの世界を重ねて見ていました。妖精たちの世界は、人間の意識下に潜む欲望の世界です。その闇を白で描く。羽のような紙のようなものでつくった円の形がダンサーたちによって乱れていくさまに、そうした闇の姿を一瞬見た気がしました。バレエは狂気に迫りながらぎりぎりまで狂気を美しく可憐に描くものです。第1部はその狂気へ、つまりバレエの力へ向かっていると思いました。
以上のように第1部に魅了されたぼくは、その一方で、第2部、第3部をうまく受けとめられませんでした。第2部「囚われの女王」は、囚われた女王が主題のシベリウスの楽曲をバックに井関佐和子が踊るソロ作品。単純な話、ぼくにはダンサーのどこからも「囚われた」感じがしなかったし、目の前にいるのが「女王」という感じがしなかった。冒頭に長い説明がスクリーンに映りました。その説明内容とダンスとのギャップが埋まらないまま終わってしまった。気になったのは、井関の痩せた身体です。「短髪だからボーイッシュ」というのもつまらない理解ですが、井関の身体は「女王」の質をほとんど見る者に察知させません。その代わりに感じられるのは、鍛えられたストイックな身体が目の前にいるということです。チュチュを剥ぐと、バレエダンサーは無機質なダンス機械に見える。この事実を見ないことにして「女王」の主題を押し出すより、この事実を積極的に活かしたほうがよいのではなどと思いました。
ところで、金森さんはもっとダンス中毒だと思っていました。ダンス中毒の異常性が、狂気にもギャグにも見えるくらい爆発していると観客はグッとくるだろう──、そんなものが見られるという期待を抱いてこの日劇場に来たのですが、第3部「ZAZA」ではその期待は満たされませんでした。経験上、舞台にリンゴというアイテムが登場すると条件反射的に「マズイ!」と身を固くする習性をぼくはもっていますが、やはりあれは危険ですよ。いくら金森さんの表現したいことがデリケートだとしても、リンゴが登場しただけでそれが連想させるありがちなメタファーへと観客は単純化させてしまうものですから。ちなみに、ブラウン管テレビもおもちゃのピアノも拡声器も同様なアイテムで、無意味に60年代(「アングラ」!)を喚起させられたりします。自己顕示欲と性欲とが満たされぬままにはけ口を求めている、金森さんはそんな現代社会の姿を描きたいようにぼくには見えました。それをコント(非ダンス)的な表現ではなく、ただただ踊ることで描いたらいいのに。自分の踊りを見せたいというダンサーの自己顕示欲が、ガリガリの身体を生み出してしまう。フェティシズムを喚起しない身体が、性的に欲情している。そんなちぐはぐな、異常で、ときに切ないときに滑稽なダンス中毒の世界。これこそ、現代社会を語るのにふさわしい、バレエならではのメタファーなのではないか(『ジゼル』にはすでに、踊り死にしそうになるというダンス狂いのシーンがありますが)。そうした自己への批評が見え隠れしたら、そのとき現代的なバレエ作品が生まれるように思うのです。

2013/06/02(日)(木村覚)