artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』

会期:2013/07/05~2013/07/07

シアタートラム[東京都]

今月の一推しは、大橋可也&ダンサーズ『グラン・ヴァカンス』(2013年7月5日~7日、シアタートラム)。大橋は、舞踏にルーツをもつ振付家だが、つねに新鮮なアイディアで挑戦し続けてきた野心的な作家だ。今回はSF小説家の飛浩隆作『グラン・ヴァカンス──廃園の天使〈1〉』を原作に、さらに新しい境地に挑む。大橋のダンスの魅力は、ダンサーたちのゾンビ性にある。とくに最近の恵比寿NADiffでの上演は印象的だった。書店の空間に客に混じって徘徊しているダンサーたちが、ある時間になると激しく踊り出す。薄い生地のワンピースに身を纏った女性ダンサーたちは、日常に溶け込みつつも、明らかに常軌を逸した、不安を掻き立てる無表情で踊り、男たちもどこにでもいそうな佇まいでありながら、生々しい暴力性を湛えていた。暗黒舞踏は、エログロナンセンスの60年代らしく、当時、異形として際立った身体を踊らせることをしたわけだが、大橋はそうした歴史的意匠から自由に、現代にふさわしい異形を模索してきた。今作でも、そうした大橋の長年のトライアルが威力を発揮することだろう。大橋のこれまでの活動の集大成となる作品に違いない。必見です。

「グラン・ヴァカンス」トレーラー

2013/06/30(日)(木村覚)

岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』

会期:2013/06/14~2013/06/23

北品川フリースペース楽間[東京都]

岡崎藝術座の芝居のほとんどを占めているモノローグは、とても攻撃的に観客に迫ってくる。この攻撃性については、作・演出の神里雄大のパーソナリティに由来するものかあるいは彼の社会的境遇に由来するものかなんて考えさせられることが多く、これまでの場合、攻撃性に思いを馳せるとき、作者本人の怒りや不安にその原因を求めがちだった。しかし、本作はすさまじい攻撃性を感じさせられるものの、その根底にあるのは個というよりもっと普遍的なものであると強く思わされた。観客に人間というものへと反省を向けさせる、ここにこの作品が傑作である理由がある。少女誘拐監禁という話題と刑事ポワロとその友人ヘイスティングズが関わる殺人事件の話が併存し進む。これら基本要素のなかで、5人の役者たちの演じる10人近い人間たちの思いが、憎悪や偏見、軽蔑やおせっかいなどを噴出させ、終始舞台は混沌としている。噴出する人間たちの思いを混ぜっ返してさらに複雑にしているのは、ダンスというべきか否か、役者たちの不思議な動作だ。口から漏れ出すセリフを冷やかし、ふざけて手にしては弄んでいるみたいに見える諸々の動作は、ただでさえ照明の暗い舞台を一層暗くさせる。見ていて、ずっと嫌な気持ちになっていた。いやがらせ?と思わされる感じは、相変わらずの岡崎藝術座。けれども、このダンスにも似た動作が部分的な統率を生み出して、舞台全体はいままでにないような独特で濃密な密度を保って進んでゆく。この全体の完成度が人間を語るという次元を成立させているのかもしれない。


『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』ダイジェスト

2013/06/22(土)(木村覚)

小松亨『シスターモルフィン』

会期:2013/06/21

森下スタジオ[東京都]

世界を横断しながら活動を続ける(結果、日本での活動は控え目なのがもったいない)舞踏家・室伏鴻の作・演出・振付による作品。とはいえ、土方巽の晩年に薫陶を受けたという小松亨の身体所作には、その時期の土方独特の〈徴〉が強く刻まれており、まるで小松の身体の上で室伏と土方がつばぜり合いをしているかのように見えた。いや、もう少し冷静に読みとるべきかもしれない。土方仕込みの身体で自分の踊りたい欲求を舞台に発露する小松に、室伏のアイディアが衝突し、小さな摩擦を残してすれ違った、そんなところか。冒頭、白い布を被った小松がゆっくりとしゃがんだ姿勢から立ってゆく。布の奥で瞳が被虐性をほのめかす。立った姿勢で首を微妙に傾けると、ベーコンの自画像のように布のヒダが顔を歪める。そこに被虐の感触は一層際立ってくる。次のシークェンスでは、口から真珠がこぼれる/真珠をこぼす。全部で100粒ほどが、ぽろぽろとこぼれ、床に散らばる。布も真珠も室伏の作品にふさわしいアイテムなのだが、室伏が自分のソロ作品で用いるならば出てくるニュアンスとは微妙に違う。室伏が用いるとき、諸アイテムは自分とは別の生命をもったもののように単独性を帯びているのだが、小松はまるで自分の延長のように用いるのだ。小松のダンスからは、ナルシシズムが濃密に感じられる。それがピークに達したのは、中盤の5分ほど、ひたすら絶叫しながら、壁に激突したり、非常時用の階段を上り下りしたり、床を蹴ったりした場面だった。小松のなかの怒りのような不安のような思いが溢れた。しかし、ただ溢れてゆくだけだ。溢れたことを外から見つめる視点が舞台のなかにない。だから、溢れたものを観客はそのまま受け取らざるをえない。そのぶん、観客に強く依存する意識が目立ってくる。ダンス公演の帰り道などによく思うことなのだけれど、ダンスを見るとは、煎じ詰めると、所作の完成度などを云々することよりも、所作から透けて見える踊り手の意識を見ることなのだ、おそらく。終盤、四つん這いの獣の佇まいでゆっくりと舞台の縁を回り、最後はほぼ全裸の状態で小松はゆっくりゆっくり横回りした。50歳を過ぎた女性の体が表に裏になる、それがエロティックに映る。「見て!」と言わんばかりの所作は、その所作へ向けた小松の解釈がはっきりとこちらに伝わらないぶん、ただただ生々しい。自分を露出したいというダンサーの願望と、振付家の意図とがきちんとした対話を経る手前で、上演の日を迎えてしまった、そんな気がした。「出会い損ね」という出来事それ自体は面白いとも思えるものなのだが。

2013/06/21(金)(木村覚)

Waiting for Something

会期:2013/06/15~2013/06/16

舞台芸術公園 稽古場棟「BOXシアター」[静岡県]

静岡の舞台芸術公園にて、中野成樹が演出した「Waiting for Something」を観劇する。ベケットの『ゴドーを待ちながら』を踏まえたものだ。2年も(!)携帯電話の充電を待ちながら、日本語と韓国語(そして英語)のディスコミュニケーションによって、日本人の男と韓国人の女の物語が続く。そこに字幕と通訳も介入し、複雑になる。彼の演劇は、そもそも翻訳をテーマにしていたが、「Waiting for Something」は異言語間、あるいは同じ言語間の伝わらなさを作品としている。ゆえに、日本人/韓国人がみるか、あるいは両言語ともわかる/わからない人がみるかによっても、違うものに感じられるだろう。

2013/06/16(日)(五十嵐太郎)

マギー・マラン『Salves──サルヴズ』

会期:2013/06/15~2013/06/16

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉県]

一言でいえば「ドタバタ悲劇」。ラストの5分は「ドタバタ悲喜劇」。5台のオープンリールが舞台を囲む。冒頭、この機械で再生するテープをダンサーたちがマイムで手繰ってみせる。その後は、5秒から10秒のきわめて短いシーンが暗転を挟んでひたすら連なってゆく。たとえば、一文字に腰掛けた男女、不意に現われた黒人や軍人が横から割り込むと端の一人が押し出され、倒れてしまうとか。とくに繰り返されるのは、あわてる人間たちの姿とか。なにに追われているのか判然としないが、あわてるさまは緊張しているようでも緊張している振りのようでもある。特徴的なのは、皿とか彫刻像とかを数人でバケツリレーしているあいだに、それらが床に落ち、割れてしまう場面。これが何度も繰り返される。割れた皿を集めて復元してみせたりもする。暴力が文化や伝統を破壊することのメタファー? しかし、不思議なくらい、戦慄が、見るこちらの心に迫ってこない。堆積していくシーンが暗転を挟んでいるからか、映画の一場面のように見えてしまい、その分、間近な舞台で実演されていることなのに迫真的でないのだ。世界に潜む不安を取り上げてはいるものの、この取り上げ方だと、不安な出来事を安心な距離から見つめている格好になってしまう。アイロニカル、でもそれでいいの?と思わされる。始終流れていたフランス語の語りをぼくが聞き取れなかったことが致命的問題だったのかもしれないが。最後の5分は、それまで暗かった舞台が突然明るくなり、大きなテーブルが用意され、パーティでも開かれそうな様子になる。しかし、ささいなことで、人々はけんかを始める。顔にカラフルなペンキを投げつけ合う。叩き合って、パーティが台無しになって終わる。悲劇の後の喜劇は、喜劇それ自体の力を発揮する余地なく悲劇をより悲劇的に(悲惨なことに)する。世界を転がす難しさ、生きることの苦しさは描いたのかもしれない。けれども、そんなこと当たり前じゃないとも思ってしまう。むしろ、難しいと苦しいと思い込んでしまう精神の硬直を解きほぐす力こそ、ダンスの力なのではないか。その意味では、もっと踊って欲しかった。短いシーンを積み重ねるやり方は、ピナ・バウシュを連想させたが、バウシュが踊りの内に盛り込んだ「精神を解きほぐす力」はここにはなかった。ただ悲しくもなく可笑しくもないドタバタがあるだけだった。

2013/06/16(日)(木村覚)