artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
藤本隆行×白井剛「Node/砂漠の老人」

会期:2013/05/26~2013/05/28
KATT神奈川芸術劇場 中スタジオ[神奈川県]
KAATにて、藤本隆行×白井剛 『Node/砂漠の老人』を観劇する。シュレッダーにかけた大量の紙の山=情報の混沌とした砂漠のオアシスに暮らし、そこから外には出ない老人のもとに、人(=情報?)が訪れてはまた去っていく。生の身体とデジタル制御された映像テクノロジーが重なり、そして構造のレベルで現代音楽が融合し、やがて再生を想起させるフィナーレへ。あいちトリエンナーレでは、この進化版を上演する予定という。
2013/05/26(日)(五十嵐太郎)
渋谷慶一郎+岡田利規+YKBXほか『THE END』
会期:2013/05/23~2013/05/24
Bunkamuraオーチャードホール[東京都]
先日、富田勲による「イーハトーヴ交響曲」がNHKで放送されていた。初音ミクを交響曲に導入するというこの作品の試みは、ニコニコ動画という枠を超えて、電子音楽の大家によってもヴォーカロイドが活用されうることを告げていた。なるほど、富田に留まらず、こうした試みは今後、ぼくらの想像力を超えた仕方で多様な分野へと広がってゆくのだろう。『THE END』は、まさにそうした初期初音ミクの実験のひとつとして後に振り返られる一作ではあろう。YKBXの強烈な映像世界は、パフォーマーの(渋谷慶一郎は舞台の陰で演奏をしてはいるとしても)いないオペラが、映像だけでもちゃんと舞台を満たしうることを証明した。ほかにもマーク・ジェイコブス(ルイ・ヴィトン)による衣裳や、ロビーを飾っていた等身大(?)のフィギュアなど、初音ミクという存在の魅力を新しく展開する要素はいくつも見られた。とはいえ、本作の中心となる初音ミクをめぐる物語的要素には、共感も新味な感動もほとんどえられなかった。とくに人間と同様の死が初音ミクに待っているという内容の前半のセリフには違和感があった。初音ミクが人間ではない(故に死が不可能)であることこそ、初音ミクとぼくら人間とを結びつける切ない絆を構成するものではないか、そう思うからだ(その点「わたしは初音ミク かりそめのボディ」などの富田「交響曲」に表われる歌詞のほうが説得力がある)。もちろん、今後、初音ミクになにかの役を演じさせるという試みも起きるだろうし、渋谷と岡田のアイディアもそうした志向の一種なのかもしれない。しかし、そうであるならば、なにかを「与えてもらう」ことで自分は存在しているというセリフが後半に出てきて再び戸惑ってしまうのだ。これは人間的な死という文言とは別種のきわめて初音ミク的な実存を語るものであり、その点を重視するなら、前半と後半のつじつまがあわない。プログラムでの渋谷の発言を参照すると「死」というテーマは、どうも初音ミクの存在からというよりも、オペラという音楽ジャンルの現状から引き出されたものらしい。オペラは「すでに死んだメディア」というきわめてステレオタイプな考えに渋谷は依拠している? これだけとは言いきれないが、ようするに渋谷の創作の背景から「死」というテーマが導き出されているようで、そうした作家性と初音ミクという素材との相性がぼくはあまり良くないのではと思ってしまった。ボカロPたちが、競って初音ミクに歌を歌わせているニコニコ動画の楽曲たちは、初音ミクという存在から引き出された言葉に魅力を感じさせられるものが多い。しかし、ボカロPのアプローチは既存のJポップ的なセンスに縛られすぎに映ることもある。だから、そうしたなかにあって渋谷のような作家の音楽性が現状を変化させることには価値があるはずだ。とはいえ、初音ミク的想像力に起因するものでないのならば、そうした試みは優れたあだ花としてしか残らないのではないかと危惧してしまう。
渋谷慶一郎・初音ミク オペラ 「THE END」 VOCALOID OPERA
2013/05/23(月)(木村覚)
SSD オープンレクチャー 相馬千秋「演劇はなぜ、都市に出るのか?─都市のドラマトゥルギーを引き出す、演劇的想像力の可能性」
会期:2013/05/16
東北大学片平キャンパス都市建築学専攻仮設校舎ギャラリートンチク[宮城県]
今期、せんだいスクール・オブ・デザインのメディア軸は、「演劇/ライブから考える」と題して雑誌制作を行なう。第一回のゲストの相馬千秋は、劇場を飛びだし、都市のドラマトゥルギーを引き出す事例を紹介した。池袋の芸術劇場の前で行なわれたフラッシュ・モブ、フェスティバル・トーキョーにおいて新橋と福島をつなぐ高山明の「光のないII」、移動するトラックが客席となって都市を体験する試みなど、演劇の可能性を開く挑戦だ。
2013/05/16(木)(五十嵐太郎)
高田冬彦「メメント・モリ──愛と死を見つめて」
会期:2013/05/23~2013/05/24
白金アートコンプレックス[東京都]
白金のビルに集合したギャラリーが、5周年を祝し杉本博司のキュレーションで合同展を行なった。ぼくはここで、以前にもartscapeで論評したことのある若い作家の作品を一点だけ取り上げることにしたい。ブリトニー・スピアーズになりきったり、食虫植物に変身したりと、これまでの高田冬彦の映像作品は、たいてい、高田本人が出演することで観客を挑発し戸惑わせてきた。しかし、本作《LOVE EXERCISE》はそこがちょっと違う。動画の画面には全裸に近い女が一人(しばらくすると女の務めた仕事を男が行なう)。女の体には掌ほどの大きさのお面があちこちに貼りついていて、男も女もいるのだけれど、その表情はどれも口を尖らせて恍惚としている。そこにおもちゃのような天使が現われ、「ここの子と、ここの子にチューさせて……ああもういいや、今度はこっちの子とあの子……」などといった気まぐれな指令を裸の女に与える。たとえば、胸の脇に着けたお面と太もものあたりに着けたお面をキスさせるとなると女はたいへんだ。スパルタのインストラクターにこらしめられているみたいに、苦しそうにしながら、女は体を丸めて面と面(口と口)を必死に合わせようする。無理難題をもちかける意地悪な天使によって、口を尖らせた男女が、もがく女の体の上でキスを試みる。ペアは男女とは限らない。男男も女女も女男女もある。この天使まかせの乱交的状態に眩暈のようなものを感じてくらくらしつつも、恍惚感が溢れてきて見ることがやめられない。これは愛をめぐる天使と恋人たちの物語であり、同時に天使と天使に指令される裸の女(男)とのSM的物語である。この二つの物語が二つの歯車となり、かみ合い、進む。愛というものの姿がこれほど赤裸々に語られていいのか、そう思うほど見る者の心と肉体を強く刺激してくる。高田の作品の特異性は人間を見つめるその眼差しの力にある。美しく価値ある人間のみならず、自己中心的で、露出症的で、ときに愚かときにずるい、自らの欲望に忠実な人間。この大衆的で俗悪な人間というものの実相に、高田はさらに一歩迫ってみせた。
2013/05/15(水)(木村覚)
プレビュー:岩渕貞太+関かおり『Hetero』(DANCE-X13 MONTREAL: TOKYO: BUSAN)

会期:2013/05/31~2013/06/02
こどもの城 青山円形劇場[東京都]
岩渕貞太と関かおりによる『Hetero』が「DANCE-X13 MONTREAL: TOKYO: BUSAN」で上演される。昨年の横浜ダンスコレクションEXで若手振付家のための在日フランス大使館賞を受賞したこの作品。2人がここ数年きわめてストイックに取り組んできた身体の質の実現を、今回の上演で驚愕しつつ見ることになるだろう。彼らは身体マニアとでも言いたくなるくらい、自分たちの身体を独自のニュアンスが生まれるまで執拗に造形してきた。昨年トヨタコレオグラフィーアワードでもその成果はあらわれ、関は『マアモント』で次代を担う振付家賞を受賞した。日本のコンテンポラリーダンスはややもすれば素人的であることが肯定的に見られるところもあるが、2人の取り組みは、造形することの可能性をわたしたちに訴えてくる。その造形愛はどこか人形愛に似ていびつで、そのいびつさこそ彼らのなによりの魅力なのだ。
Hetero -full version- Teita Iwabuchi & Kaori Seki
2013/04/30(火)(木村覚)


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