artscapeレビュー
Noism1『ZAZA──祈りと欲望の間に』
2013年07月01日号
会期:2013/05/31~2013/06/02
KAAT[神奈川県]
金森穣さん、『ZAZA──祈りと欲望の間に』を見ました。時間をかけて鍛え上げたダンサーの身体は圧倒的な力を発揮するものだなとあらためて確認しました。第1部の「A・N・D・A・N・T・E」、白い羽(俗にいえば紙吹雪)のようなものがつくる円の周囲をダンサーたちはぐるりと周り、ときに円に入るとダンサーたちは複雑に絡まって、羽を宙に舞わせながら、アクロバティックな連鎖を繰り広げました。そうしたときのよどみのなさに、ダンスのなかの非ダンス的要素を削ぎ落してはじめて生まれる、ストイックな美しさを堪能しました。ロマンチックバレエのしばしば第2幕で展開される妖精たちの世界を重ねて見ていました。妖精たちの世界は、人間の意識下に潜む欲望の世界です。その闇を白で描く。羽のような紙のようなものでつくった円の形がダンサーたちによって乱れていくさまに、そうした闇の姿を一瞬見た気がしました。バレエは狂気に迫りながらぎりぎりまで狂気を美しく可憐に描くものです。第1部はその狂気へ、つまりバレエの力へ向かっていると思いました。
以上のように第1部に魅了されたぼくは、その一方で、第2部、第3部をうまく受けとめられませんでした。第2部「囚われの女王」は、囚われた女王が主題のシベリウスの楽曲をバックに井関佐和子が踊るソロ作品。単純な話、ぼくにはダンサーのどこからも「囚われた」感じがしなかったし、目の前にいるのが「女王」という感じがしなかった。冒頭に長い説明がスクリーンに映りました。その説明内容とダンスとのギャップが埋まらないまま終わってしまった。気になったのは、井関の痩せた身体です。「短髪だからボーイッシュ」というのもつまらない理解ですが、井関の身体は「女王」の質をほとんど見る者に察知させません。その代わりに感じられるのは、鍛えられたストイックな身体が目の前にいるということです。チュチュを剥ぐと、バレエダンサーは無機質なダンス機械に見える。この事実を見ないことにして「女王」の主題を押し出すより、この事実を積極的に活かしたほうがよいのではなどと思いました。
ところで、金森さんはもっとダンス中毒だと思っていました。ダンス中毒の異常性が、狂気にもギャグにも見えるくらい爆発していると観客はグッとくるだろう──、そんなものが見られるという期待を抱いてこの日劇場に来たのですが、第3部「ZAZA」ではその期待は満たされませんでした。経験上、舞台にリンゴというアイテムが登場すると条件反射的に「マズイ!」と身を固くする習性をぼくはもっていますが、やはりあれは危険ですよ。いくら金森さんの表現したいことがデリケートだとしても、リンゴが登場しただけでそれが連想させるありがちなメタファーへと観客は単純化させてしまうものですから。ちなみに、ブラウン管テレビもおもちゃのピアノも拡声器も同様なアイテムで、無意味に60年代(「アングラ」!)を喚起させられたりします。自己顕示欲と性欲とが満たされぬままにはけ口を求めている、金森さんはそんな現代社会の姿を描きたいようにぼくには見えました。それをコント(非ダンス)的な表現ではなく、ただただ踊ることで描いたらいいのに。自分の踊りを見せたいというダンサーの自己顕示欲が、ガリガリの身体を生み出してしまう。フェティシズムを喚起しない身体が、性的に欲情している。そんなちぐはぐな、異常で、ときに切ないときに滑稽なダンス中毒の世界。これこそ、現代社会を語るのにふさわしい、バレエならではのメタファーなのではないか(『ジゼル』にはすでに、踊り死にしそうになるというダンス狂いのシーンがありますが)。そうした自己への批評が見え隠れしたら、そのとき現代的なバレエ作品が生まれるように思うのです。
2013/06/02(日)(木村覚)