artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
「音キキの会」音メグリ・ワークショップ

会期:2009/08/29
京都芸術センター[京都府]
ピアニストであり、音環境アドバイザー小松正史氏のナビゲートによってセンター内のさまざまな音を拾い集め、音の地図(サウンドマップ)をつくるというワークショップ。少年少女科学クラブの展覧会の関連イベントとして開催された。グループごとに行動し、同じ場所でそれぞれが描いたサウンドマップを披露。音と空間の緊密な関係や、他人との感覚の違い、それを理解することの楽しさなど、さまざまな発見と遊びに溢れた時間だった。対象は小学生以上ということだったが、行ってみたら参加していたのが大人ばかりだったのがちょっと残念。
2009/08/29(土)(酒井千穂)
イデビアン・クルー『挑発スタア』

会期:2009/08/20~2009/08/25
にしすがも創造舎[東京都]
ファッションショーのランウェイに似た長机が椅子と一緒にどん、とある。両側から観客が挟む。ダンサーが登場すると、モデルみたいに背筋を張って歩く。ただそれだけなのにダンスが体から溢れている。10人ほどのダンサー各人が各様の衣装をまとう。孤独で凜としている。井手茂太は、そんな個人を踊らせる。けれど、踊りのきっかけはたいてい他人で、のせられたり脅かされたり、気づけば踊り手は我を忘れ踊り、ポーズを決めている。きっかけは他人とは限らず、普段は隠れている、抑圧された状態の自分が踊りをうながす場合もある。たがを外すと、そこに「いつもとは違うテンションの自分」が現われ、そこに踊りが発生する。そうして熱風のようにダンスはダンサーの体に迫り、通り抜け、体を熱し、消えてゆく。踊らされた自分に気づき、不意に恥ずかしさがこみ上げるなんてことも隠さない。そう、なぜ踊るのか踊ってしまうのかという因果性が明確なのだ。そのことが井手の舞台を誠実なものにしている。イデビアン・クルーとしての活動はしばらく休止するそうだけれど、その間も、井手がメンバーたちとともに手中にしているダンスの因果性がどこでどう展開するのか、忘れず見守っていきたい。
2009/08/23(日)(木村覚)
涼音堂茶舗「電子音楽の夕べ」

会期:2009/08/22~2009/08/23
法然院 方丈[京都府]
毎年、法然院方丈で開催されている「電子音楽の夕べ」。辺りが暗くなると無数の蛍が闇の中を飛んでいるかのような幻想的な光景が出現する「浄土庭園」での粟倉久達による光のインスタレーションは、「銀河鉄道の夜」をイメージしたもの。併設の茶席空間では障子をスクリーンにデザインユニット「東京食堂」の映像作品が上映される。面白いのは、開演の頃になると外からさまざまな虫の鳴き声が聞こえてくること。電子音と虫や風の音が合わさっていくライブと、伝統技術を継承しながら現代美術の接点として活動する作家たちが創りあげる空間は、会場である法然院自体の風情もさることながら、音楽イベントという枠にとどまらない魅力に溢れていて毎回、次回の開催が待ち遠しくなるほどスゴい。
2009/08/22(土)(酒井千穂)
青年団若手自主企画 vol.42『昏睡』(作:永山智行、演出:神里雄大)

会期:2009/08/17~2009/08/26
アトリエ春風舎[東京都]
『三月の5日間』を上演し、また今年の春に行なわれた「キレなかった14才♥りたーんず」でも注目された神里雄大は、岡崎藝術座を主宰する話題の若手演出家だ。彼が気になって見に行ったのだけれど、本作を書いた永山智行や、役者の山内健司と兵藤公美の力にも魅了された。男女の短い物語が連なる。欲望の限りを尽くして欲望が満たせなくなった王、7時間50分きっかり寝るのが健康と信じ込んだ男、不倫相手との性交中に抜けなくなった男の話などが、けっして合一化できない女との関係とともに描かれる。最後に2人は、真っ暗闇で死後になくなった肉体を求める。恋人であれ夫婦であれ他人は他人であるということがクリアにまた寓意的な仕方で語られ、観客は苦い笑みを浮かべる。自分が把握できる範囲を超えて他人は存在している。その事実に向き合って、それでも関係を推し進めていきたいと願う前向きさを感じる上演だった。
2009/08/22(土)(木村覚)
カオス*ラウンジ(夏)

会期:2009/08/18~2009/08/30
ビリケンギャラリー[東京都]
出展者でもある藤城嘘がpixiv(イラストを投稿・閲覧できるウェブサービス)を中心にネットを通じて集めた40人前後の作家たちによる展示。今年3月に国分寺で行なった同展の第2弾。pixiv経由だけあって作品はイラストやマンガの類が多いのだけれど、キャンバスを用いた美術的なものも少なくない。技量も知識もある、そのうえで、あえて落書きの手つきで少女を描く作家たち。少女を犯すより少女と同化したいという80年代以降のおたく的精神の恐らく最良の部分といえるものが、小さな画面で生き生きと暴れている。亡き富沢雅彦という名の同人誌ライターは85年出版の『美少女症候群』のなかで、マイナーな同人誌作者たちは「ロリコン」と自己規定することでマスとなりえたと述べている。性を介する共同幻想が、それぞれで閉じこもっていたおたくたちが繋がることを可能にしたのだった。ところ狭しと飾られた本展の作品群のほとんどすべてに描かれている少女の像はまさにそんな力を発揮していて、作家たち同士、また彼らと観客を繋ぐ〈今日のヴィーナス〉といった存在感に満ちている。では、コミュニケーション・ツールとなった「少女」たちは、具体的に何を可能にしてゆくのだろう。少女の体を借りて叫んだ声は、いまのところ時にイライラしあるいはわくわくしている描き手の実存を表明しているのだが。
2009/08/21(金)(木村覚)


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