artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
金魚(鈴木ユキオ)『言葉の縁(へり)』

会期:2009/07/24~2009/07/26
シアタートラム[東京都]
90分、息つく間もないテンション。鈴木ダンスの到達点を見た。彼の暮らす藤野の森のような静寂(トム・ウェイツが冒頭曲)は、同時に社会から隔絶された野性的な世界で(大きな枝やカモシカの角が効果的に舞台を飾る)、暴力に満ちている。荒涼として美しく、官能性に満ちた舞台。「官能性」とは、目が合えば衝突してしまう男たちや足を拡げて身を沈める女たちの仕草などに不意に薫るというだけではなく(それはそれで繊細でありとても美しいのだけれど)、徹底的に鈴木の振り付けをダンサー全員が身体化しているという至極ダンス的な事態から醸し出されているものなのである。ダンサーを鍛えるとは、こうしたことなのだろう。身体が振りを結晶させる媒体となって、みずからを殺す。そこに生命が煌めく。言葉が内と外を結ぶ道具だとすれば、その縁はやはり内を外と繋ぐ道具である身体と接触しているに違いなく、鈴木はきっとその接触をとらえようとこのタイトルを作品につけたのだろう。まさしくその接触の瞬間がこの作品に起こったかは定かではないけれども、身体が内を外と繋ぐときに起こるそのひりひりとした感覚は存分に味わうことができた。
2009/07/24(金)(木村覚)
大駱駝艦・壺中天公演:村松卓矢『穴』

会期:2009/07/01~2009/07/12
大駱駝艦・壺中天[東京都]
白塗りの若い裸体はダンサーというより異世界の怪物みたいで、村松卓矢はその怪物をゲーム的な「キャラ」として扱っているように見えた。タイトル通り、舞台の中央に穴が空いていて、ものやダンサーが入ったり出て来たりと作品構造はきわめてシンプル。冒頭、中堅ダンサー4人が横並びになって微動する。蟻地獄のような具合に、いずれ4人は穴に滑り込んでゆくのだけれど、その間に見せたこの微動は、ゲームのキャラがコントローラーからの指令を待っているときの反復動作のようだった。表現なき表情、ロボット的な風体はかわいく、しかも独特のリアリティを感じる。ただ動作がキャラ的に見えるという形式的なゲーム性もあるのだけれど、より重要なのはダンサーの動く動機にゲーム的な構造が含まれているところだ。例えば、後半で、若手8人ほどが踊る際、「シュッ」と息を小さく吐く合図をきっかけに「首を振る」などの単純な動作のヴァリエーションが展開される。普通ならば隠すはずの合図、それが響くたびに切り替わる動作、この指令と応答のセットによって、自己表現とは異なる何かが舞台上に生じていると見る者は感じる。指令と応答を繰り返す遊びは芸術的とは言い難いけれども、芸術的ではないからこそ今日的なリアリティがある。むしろ、こうした構造への探究から生まれるものの内にこそ未来の芸術の姿を見ることができるのではないだろうか。
2009/07/08(水)(木村覚)
プレビュー:村松卓矢『穴』/鈴木ユキオ『言葉の縁』/大橋可也&ダンサーズ「明晰の夜1」

[東京都]
7月の日本(東京)で見るべき公演No. 1は、間違いなく村松卓矢『穴』(7/1~12@大駱駝艦スタジオ「壺中天」)です。昨年の『どぶ』、一昨年の『ソンナ時コソ笑ッテロ』は、どちらも傑作でした。なぜ体が動くのか?というダンスのきわめてシンプルな問いが、きわめてシンプルなかたちで展開されるところがなんとも素晴らしいのです。きっと今回も期待を裏切らないことでしょう。
また、村松と同じく突出した存在である鈴木ユキオの公演『言葉の縁』(7/24~26@シアタートラム)もあります。とても誠実に舞踏の姿をとらえようとしている鈴木と舞踏という装置をいまもっとも楽しそうにいじり倒している村松。こう並べるとじつに対照的な二人ですね。両方見ると今日の舞踏の振り幅がよくわかることでしょう。ぜひ、二公演見て比較してみましょう!
dance company KINGYO(Yukio Suzuki)New WORK
ちなみに、私事で恐縮ですが、大橋可也&ダンサーズのイベント「明晰の夜1」(7/18@UPLINK FACTORY)に、私こと木村覚がトークのモデレーターとして参加します。お相手は飴屋法水×大木裕之×大橋可也という空前絶後のラインナップ。こちらとしては、機会をとらえて「パフォーマーの身体」というものについてどう考えているのかを御三人から聞き出してみたいと考えています。初音ミクの時代(三次元じゃなくて全然オッケーの時代)に人間の身体をメディアとしてあえて用いる意味はあるのか? あるとしたらどこに?
2009/06/30(木村覚)
ヤン・ファーブル『寛容のオルギア』

会期:2009/06/26~2009/06/28
彩の国さいたま芸術劇場[東京都]
「欲望のカリカチュア、21世紀のモンティ・パイソン」がキャッチフレーズ。なるほど、冒頭、白い下着の男と女は、テロリストらしい存在を脇に、ひたすらマスターベーション競争を続ける。股間をシェイクし叫びを上げるといったオルガスムなしの単なるポーズは「マスターベーション」を誇張し記号化する。西洋風のギャグと受け入れ爆笑する観客もいる。「権力の時間ですよ」と役者が観客に向けて語りかけると、消費社会、テロと戦争、左右の政治、性差に基づく暴力などの記号が、じつに戯画的に、舞台に呈示される。そうした仕掛けは、日本の若手演劇のデリケートなアプローチに慣れたぼくにはずいぶん単純で古めかしく映った。人間を束縛するステレオタイプ・イメージを舞台に上げることは、ステレオタイプのイメージに無批判に浸かってしまっている人間たちへの批評になりうると同時に舞台のステレオタイプ化も助長する。ミイラ取りのミイラ化(ステレオタイプ化する批評性)は、それもまたギャグ?と笑えればよかった。けれど、正直ぼくは楽しめなかった。
終幕に近づき、延々とマスターベーションのポーズをとらされた役者たちが「ファック○○!」とあちこちへ不満をぶちまけると、ファーブルも日本人の観客も批判のやり玉にして、その後彼らは、真の自慰行為としてしばらく即興的なダンスを踊った(ダンスってナルシスや自慰そのものだなあとあらためて思わされた)。役者二人が「じゃあ、上野公園へアイスクリームでも食べに行こう……そこにオルガスムは?」とおしゃべりして終幕。社会の権力への批判が演劇の権力への批判へスライドし、さらに演劇の外へと飛びだそうとするラストから推察するに、ファーブルは「演劇の終焉」(演劇やめた!)を宣言しているように見えた。「寛容のどんちゃんさわぎ」のなかでもっとも寛容さを発揮したのは、こうした袋小路への道程につき合った観客だろう。
2009/06/27(木村覚)
ミクニヤナイハラプロジェクト vol.4『五人姉妹』

会期:2009/06/25~2009/06/28
吉祥寺シアター[東京都]
「延々に続けばいいのに」と思わされるか否か、ぼくにとって「傑作」かどうかの基準はこれなんだけれど、『五人姉妹』は傑作だった。五人のかしましい姉妹と一人の召使い男子。姉妹の一人春子は6時間しか起きていられず一日18時間は眠り姫。キャーキャーギャーギャー、激しい身ぶりを交えてほとんど聞き取れないガールズトークはマンガによく出てくる図形化したオノマトペ(擬声語・擬音語)みたいにポップ。と思うと、舞台の4つの白いキューブは、可動式で家の間取りを表わしながら、空間を均等に区切っていて、まるでコマ割。キャラや衣装は岡崎京子テイスト? マンガを舞台でやるという発想と思えば、とてつもない早口も、吹き出しを早読みする感じに似ていて楽しくなる。
激しいといえば、春子を起こそうと全員が体育用の笛を「ビャー」と吹くときの、耳が聞こえなくなりそうな感じや、春子が起き出してくるときに長い間真っ暗闇のまま舞台が進行する演出方法もじつに激しい。けれども、そうしたアイデアも、すべては演劇の効果として上手く機能していて不快ではない。物語は、つい先日の大叔母の死と、彼女たちにとってもっと深刻な17年の経つ母の死へと向かう。春子が危うく交通事故死しかけたところを助けてくれた男は、じつは母なのではないかと推測し出すクライマックスは、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』を思い出させた。最後に、かしましさで埋めようにも埋められない大きな不在を示し、演出の才能のみならず戯曲作家としての力量を矢内原は見事に見せつけた。
2009/06/25(木村覚)


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