artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

隔離式濃厚接触室

会期:2020/04/30~無期限に延長

「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とするオンライン展覧会。会期は、「4月30日の24時間」限定(ただし、いったん「会期終了」後、「無期限」に変更されている)。本展では、企画者であるアーティストの布施琳太郎と、詩人の水沢なおの作品が展示されている。

美術でも舞台芸術でも、コロナ禍で発表の場が奪われたことの代替手段として「オンライン公開」「バーチャルツアー」「無観客での配信」「Zoomを活用した演劇」などさまざまな試みが行われている。本企画がそれらと一線を画する点は、「オンライン=アクセスの平等性とシェアの思想」を無批判に是とする態度に対する批評的距離である。他人との「濃厚接触」を避け、「ソーシャルディスタンス」を適切に保つため、ひとりずつなどの「入場制限」が課される。そうした現実空間における物理的制約を、「アクセスの平等性が保証されている」はずのオンライン空間に戦略的に持ち込み、反転させること。そこでは、私の「鑑賞の自由」は、見知らぬ誰かの「排除」「鑑賞の不自由」と表裏一体である。あるいは、私の「鑑賞の自由」を阻害する入室者がいても、互いに匿名的存在であり、「排除された誰か」の姿もその数もうかがい知ることはできない。制約と不可視性に根ざした本展の意義は、「社会的隔離」を「ネットによるつながり」によって回復し癒すのではなく、むしろ「分断」を生むという屈折した回路によって「ネットと公共性」の議論を喚起しつつ、「(無数の)他者の排除によって成り立つ自由」という倫理的課題を突きつける点にある。

筆者は4月30日、会場URLを何十回とクリックしてアクセスを試みたが、その都度「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しているため、アクセスできませんでした」というエラーメッセージが表示され、見られなかった。だが、「見られなかった」こともまた、本展のコンセプトに鑑みると、それもまたひとつの鑑賞体験と言えるのではないか。ここで比較対象として想起されるのは、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内で、2015年3月11日から開催されている「Don't Follow the Wind」展である。現実空間/オンラインという差異はあるものの、放射能汚染/コロナ禍という外的要因によって、「展覧会」の鑑賞のあり方そのものが変容を被ること。物理的制限を課されつつ、想像のなかで体験すること。そこには、「展示内容」だけでなく、「実際にアクセスできた鑑賞者とできなかった鑑賞者とのあいだに生まれる分断」「共有の不可能性」、そして「私の占有と引き換えに排除された(無数の、不可視の)他者について想像すること」も含まれている。

(追記:会期が「無期限」に延長後の5月3日に、アクセス成功。詳述は控えるが、「オンライン=共有」を徹底して拒む仕掛けにより、「鑑賞体験の一回性・個別性」「隔離と監視」についての問いが、凍結した世界とともに展開[転回]する。死にうっかり触れたような感触を、水沢の詩が、対極の性殖へとじっとり湿らせていく)


公式サイト:https://rintarofuse.com/covid19.html

2020/04/30(木)(高嶋慈)

長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

発行所:大福書林

発行日:2020/1/15

本書は、1990年代に台頭した若い女性写真家を中心に、「写真ブーム」を引き起こした潮流──写真評論家の飯沢耕太郎が「女の子写真」と名付けた潮流──を対象とし、代表的写真家のひとりである長島有里枝が、性差を自明なものとするカテゴリー化とそれが内包するジェンダーの不均衡な権力構造の再生産について、徹底した批判的検証を加えるものである。長島は武蔵大学大学院人文科学研究科社会学専攻に社会人枠で4年間通い、修士論文に加筆修正したものが本書である。

章立ては主に時系列順で構成され、「女の子写真」のパイオニア的存在とされる長島の1993年のデビュー、95年のヒロミックス登場を経て、90年代後半にかけて「突然」ブームが出現したのではなく、その「前史」にあたる90年代初頭に、若手女性写真家の台頭がすでに見られたことを掘り起こす作業から始まる。具体的には、1990年と91年に、初めて2年連続で女性写真家が木村伊兵衛写真賞受賞を果たしたことだ。長島は、「ブーム」を時代的な連続性の下で捉え直す視座に立ちつつ、受賞の選評、雑誌や新聞の(大半が男性による)言説を検証し、露骨なジェンダーバイアスや性差別的な眼差しの偏向、論理的破綻を暴いていく。

男性論客による「女の子写真」の言説に対する批判は、ヒロミックスについての言説を分析した4章が中核となる。そこでは、ヒロミックス特集を組んだ『スタジオ・ボイス』1996年3月号の扉に掲げられたマニフェスト「僕らはヒロミックスが好きだ。」がきわめて象徴的なように、「僕ら」=異性愛の男性の視点から、自らの欲望に奉仕するものとして一方的に語り、言説によって飼い慣らそうとする植民地的暴力が糾弾される。飯沢の論調に顕著な「自己中心的」「軽やか」「技術的な未熟さ」といった語り口は、一方でそれを「男性写真家にはない魅力」として称賛しつつ、実質的にはホモソーシャルな連帯とその背後にあるミソジニーの強化にすぎない。また、「女の子写真=技術的未熟さ」の前提とされる「コンパクトカメラなど機材の簡易軽量化」「カメラ機能付き携帯電話の普及」といった言説にも、長島は検証を加える。例えば、長島自身はデビュー当時から一眼レフカメラを使用しており、アンソロジー写真集『シャッター&ラヴ Girls are dancin’ on in Tokyo』(INFAS、1996)に紹介された写真家16名のうちコンパクトカメラで撮影した作品を掲載しているのは2、3名にすぎないこと、また若手写真家登場のピークが97、8年であるのに対し、「携帯電話・PHSの普及率が人口の50%を超えたのは2000年末」という総務省のデータを対置させる。

「未熟で傷つきやすく、(機械にも)弱い『女の子』は、安全で魅力的な庇護の対象であり、支配・所有が可能である」。男性論客たちの言葉遣いの端々には、性差に加え年齢差がはらむ権力関係の隠蔽、自己防衛、覇権争い、父権的構造が、巧妙に埋め込まれている。それらは(恐らく)無自覚だからこそ、より深刻である。またその最大の弊害は、女性写真家の表現が同世代の多くの女性の共感を呼び、「自分にもできる」というエンパワーメントを与えた面を取りこぼしてしまうことにある。

本書を通して長島は、ジェンダー・スタディーズ、とりわけジュディス・バトラーを参照し、身体的性差を唯一の基準とする二元的なジェンダー区分の自明さに疑義を呈する立場から、「女の子写真」というカテゴリー化の自明性と飯沢が論拠とする「女性原理」を切り崩していく。その先に賭けられているのは、「女の子写真」として不当に他者化・周縁化された語りを主体的にどう取り戻すかという企てだ。長島は、同時代的潮流として第三波フェミニズムに着目し、「ガーリーフォト」として記述し直すことを試みている。

本書の問題提起の射程は、90年代日本における女性写真家をめぐる言説だけにとどまらない。それは、写真界のみならず日本社会の男性中心主義が、「若い女性」をいかに抑圧/消費しているかの証左であり、「表現/語りの主体とジェンダー」という広範な問い、とりわけ「強固な二元論的性差を無批判に受け入れて自明の根拠とする語りは、表現されたものの解釈をいかに狭め、歪め、見損ね、見落としてしまうか」を冷静に告発している。

2020/04/24(金)(高嶋慈)

石場文子「zip_sign and still lifes(記号と静物)」

会期:2020/04/10~2020/04/19

Gallery PARC[京都府]

一見ありふれた生活空間のスナップだが、わずかな空間の歪みのような違和感がよぎる。画面を凝視するうちに、玄関ドアに無造作に立てかけられたビニール傘、キッチンに並ぶペットボトルや缶、床を這う電源コード、植木鉢の「ライン」が、周囲から自らを不自然に切り離すように浮かび上がってくる。石場文子の写真作品「2と3のあいだ」「2と3、もしくはそれ以外」のシリーズは、ある特定の視点から見たときに「輪郭線」が成立するように、黒く塗りつぶした線を被写体に施し、撮影したものである。写真が「二次元への圧縮・置換装置」であることに着目し、現実空間への介入を通して錯視を仕掛ける手法は、例えば、廃墟や取り壊し予定の建築空間に彩色を施し、ある一点から見たときに幾何学的イメージとして成立させるジョルジュ・ルースの写真作品を連想させる。建築物という大がかりなスケールのルースと対照的に、石場の作品は、生活用品が散らばる日常空間や室内の静物を被写体とし、より個人的で親密的だ。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


また、新作では、テーブルに敷かれた布や皿の上に果物が配置された、「静物画」風の画面構成がなされている。「輪郭線」で区切られた果物やポットは、原色のカラーパネルの背景のフラットな効果とも相まって、平面的に見え、より「絵画」に接近し、「絵画」と「写真」の境界を攪乱させる。それは、写真が内包する「一点透視的視点の強化」を示すと同時に、画像編集ソフトを用いた写真の加工作業を思わせ、「二次元の画像に取り囲まれた視覚状況」についても示唆する。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]



なお、会場のGallery PARCは、新型コロナウィルスの影響による状況変化が数年に及ぶものとの見通しから、5月以降に予定していたすべての展覧会の中止、現会場の閉鎖、事務所機能の移転を発表した。今後は、アーティストとの協働によるオンラインコンテンツ作成、webショップの整備、過去の展覧会資料の整理、外部での展覧会企画、運営母体の企業のパッケージデザインへのアーティスト起用などの活動やサポートに取り組みながら、展覧会活動の再開を目指すという。ギャラリー開設から約10年、現会場に移転して約2年半あまり。ビルの2階から4階にまたがった階層構造を活かした展示やパフォーマンスの試みも生まれていただけに惜しまれるが、サポート活動の継続と将来的な展示再開を待ちたい。

2020/04/10(金)(高嶋慈)

水越 武 写真集『日本アルプスのライチョウ』刊行記念展

会期:2020/04/02~2020/04/26

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武は日本の山岳写真の第一人者で、デビュー写真集の『山の輪舞』(山と渓谷社、1983)以来、数々の名作を発表してきた。撮影の範囲もヒマラヤから熱帯雨林まで世界中にまたがっている。だが、今回新潮社から写真集『日本アルプスのライチョウ』として出版され、ふげん社で刊行記念展を開催したライチョウのシリーズは、人間の営みを超越した「神々の世界」というべき高山の環境に目を向けてきた彼の写真家としての軌跡から、やや外れているのではないかと思う。テーマとなっているライチョウは、むろん日本アルプスの厳しい自然環境で生息している鳥だが、彼らを見つめる水越の眼差しには、冷静な観察者というよりは、どこか哀しみや慈しみの感情が宿っているように見えるのだ。

ライチョウは約1万3000年前の氷河期の終わりとともに、「高山に追い上げられた」のだという。以来、山岳信仰とも結びついて「霊鳥」として崇められ、ほとんど狩猟の対象にはならなかった。そのために、ライチョウは「人間を恐れない」で平気で近づいてくる。水越はそのような、やや特異な人間と鳥との関係のあり方を踏まえて、日本アルプスの雄大な大自然を背景としたライチョウの四季の生の営みを細やかにカメラにおさめていく。その半世紀以上にわたる「対話」の積み重ねが、一枚一枚の写真に結晶している。

地球温暖化の影響で森林限界が上昇していることで、ライチョウたちの生息環境は急速に狭まりつつあり、「絶滅危惧IB種」に指定された。「地球の気候変動の影響を強く受けるライチョウの未来は決して明るくない。存続の鍵を握るのは我々人間である」という写真集の「あとがき」の言葉が、重く心に響く。

関連レビュー

水越武「MY SENSE OF WONDER」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月15日号)

2020/04/09(木)(飯沢耕太郎)

甲斐啓二郎『骨の髄』

発行所:新宿書房

発行日:2020年3月20日

写真家が写真を撮り始めるきっかけは大事なことだが、それが写真の出来栄えにそのまま反映するわけではない。むしろ実際に撮影してみてわかったこと、そんな「気づき」をどのように取り込んでいくのか、元あったプランをどれだけ大胆に変更していくことができるかが重要になる。

元々、ラグビーやサッカーなどスポーツ競技を中心に撮影していた甲斐啓二郎は、フットボールの歴史を記した本で、毎年2月の「Shrove Tuesday(告解の火曜日)」に、イングランド・ダービーシャー州のアッシュボーンでおこなわれる、「Shrovetide Football」と呼ばれる行事に興味を抱く。フットボールの原型とされるこの行事では、町の真ん中を流れるヘンモア川の両岸の住民たちが、1個のボールをゴールまで運ぶことを競い合う。「教会に入らない」、「人を殺さない」ということ以外には一切のルールがないこの競技を、甲斐はほとんど予備知識なしに撮影したのだが、できあがってきた写真は予想を超えたものだった。そこには、肝心のボールはほとんど見えず、男たちが揉み合い、ぶつかり合い、密集し、駆け回っているその姿だけが写っていたのだ。つまりスポーツ写真としては完全に失敗だったわけだが、甲斐は大きな手応えを感じた。その「気づき」から、スポーツ、あるいは宗教行事の原型というべき世界各地の「祭事」を追うプロジェクトが開始されることになる。

甲斐が「Shrove Tuesday」に続いて撮影したのは、「骨の髄」(秋田県美郷町の「竹打ち」の祭事)、「手負いの熊」(長野県野沢温泉村でおこなわれる、厄年の25歳の男衆が守る社殿に松明で火を付ける「火付け」の祭事)、「Opens and Stands Up」(ジョージア西部、シュフティのShrovetide Footballによく似たボールを奪い合う行事)、「Charanga」(南米・ボリビアのマチャでおこなわれる、男たちが素手で殴り合う「Tinku(出会い)」の行事)である。これらのイヴェントの写真は、すべて「Shrove Tuesday」と同じやり方で撮影され、本書『骨の髄』に収録された。それらを見ると、甲斐が撮影したかったのが、祭りそのものではなく、むしろそこに写り込んでいない「何ものか」だったことが見えてくる。彼が写真集の「あとがき」で「『祭事』を『自然』もしくは『神』と置き換えて、『向かってくるもの』と考えると、『格闘の祭事』は『自然の猛威』とみることも出来る」と書いているのは、そのことを言おうとしているのではないだろうか。「見えないボール」は「見えない神」のメタファーとして捉えることもできそうだ。

なお、本書の刊行に合わせて、同名の写真展が銀座ニコンサロンで開催される予定だったが、新型コロナウイルス感染症の広がりの影響で中止された。4月はじめの段階で、ほとんどの美術館、ギャラリーは休業を余儀なくされている。苦難の時期を乗り越えて、早く展覧会が自由に開催できるような状況になることを願いたい。

関連レビュー

甲斐啓二郎「Opens and Stands Up」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年06月15日号)

甲斐啓二郎「手負いの熊」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年11月15日号)

甲斐啓二郎「骨の髄」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年11月15日号)

甲斐啓二郎「Shrove Tuesday」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年10月15日号)

2020/04/03(金)(飯沢耕太郎)