artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

王子直紀「吐噶喇・川崎」

会期:2020/03/29~2020/04/03

photographers’ gallery[東京都]

東京・新宿のphotographers’ galleryは、2001年に創設された。その立ち上げのメンバーのひとりである王子直紀は、同ギャラリーで「川崎」シリーズを発表し続けてきた。だが、このところ個展の開催が途絶えていて、本展は約6年ぶりの開催になるという。彼はその中断のあいだに、もうひとつのシリーズ「吐噶喇」を撮りためていた。今回は、この二つのシリーズを同時に見せることによって、写真家として次のステップに踏み込んだのではないかと思う。

「川崎」はモノクローム、「吐噶喇」はカラーで撮影されていることもあり、すべて縦位置という共通性はあるものの、両シリーズの印象はかなり違う。「川崎」のほうが風景を断片として切り取る意識が強く、被写体を突き放し、弾き出していくような視線の運動を感じる。それに対して「吐噶喇」はより求心的で、被写体との親和性が感じられ、南島の熱、匂い、湿り気などが伝わってくる。このような二つの対照的な場所を選び、微妙に撮り方を変えることで、明らかに王子の視点に厚みと奥行きが加わった。次は、両シリーズを単純に並置するのではなく、そのあいだをつなぐ構造を設定していくことが必要になるのではないだろうか。それがきちんとかたちをとっていけば、独自の「日本列島」の像が見えてくるのではないかという予感がある。

なお、展示に合わせて、それぞれ32ページのA5判変形の小冊子『吐噶喇1』(KULA)、『川崎1』(同)が刊行された。

関連レビュー

王子直紀「KAWASAKI」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年03月15日号)

王子直紀「牛島」/「外房」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年08月15日号)

2020/04/02(木)(飯沢耕太郎)

東海道 西野壮平 展

会期:2020/04/01~2020/04/07

日本橋三越本店 本館6階 コンテンポラリーギャラリー[東京都]

西野壮平は、さまざまな場所に足を運んで撮影した大量の写真を、切り貼りしてモザイク状にコラージュし、風景を再構築する作品を制作し続けている。その彼の新作は、2017年の冬に、東京から京都までの「東海道」約492キロを、1カ月かけて徒歩で旅して撮影した写真で構成されていた。西野は写真家として本格的にデビューする前の2004年に、故郷の兵庫県から東京まで歩いたことがある。今回の「東海道」はそのルートを逆に辿るもので、彼にとっては写真家としての原点を確認するという意味を持つものだったのではないだろうか。

彼が最終的に発表の形態として選んだのは、約4万カットからセレクトしてコラージュしたというオリジナル写真作品を、カラー・コロタイプ(制作:便利堂)で印刷・複製し、全長34メートルという巻物状にして見せることだった。そのほかに、壁面には部分的に切り取った19点のフレーム入り作品も展示されていた。

これは、西野の作品を見るときにいつも感じることだが、細部に目を凝らせば凝らすほど、さまざまな場面がひしめくように錯綜し、迷宮を彷徨っているような気分になってくる。そこに写っているのは、たしかにリアルで日常的な光景の集積なのだが、全体として見ると、魔術的としか言いようのない非現実感が生じてくるのだ。特に今回は、歌川広重の「東海道五十三次」以来、日本人のイメージ回路に刷り込まれている「東海道」がテーマなので、よりその現実感と非現実感の落差が大きいように思えた。カラー・コロタイプの、水彩画のような色味、画質も、うまくはまっていた。これまでの彼の作品は、囲い込まれた都市空間を被写体とすることが多かったのだが、今後はある地点からある地点までの移動のプロセスが、より重要な意味を持ってくるのではないだろうか。

関連レビュー

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|村田真:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

2020/04/02(木)(飯沢耕太郎)

アバロス村野敦子「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」

会期:2020/03/06~2020/04/19(延長)

POST[東京都]

アバロス村野敦子の「Fossa Magna—彼らの露頭と堆積」は、「見えるもの」と「見えないもの」、「大きなもの」と「小さなもの」のあいだを想像力でつなぐ、とても興味深いプロジェクトである。フォッサマグナとは、ドイツの地質学者エドムント・ナウマンが1880〜90年代に発表した本州中央部の大地溝帯のことである。西端は新潟県糸魚川と静岡県大井川を結ぶ線上に、東端は新潟から千葉にかけての線上にあるフォッサマグナには東京も含まれている。村野は、ナウマンのフォッサマグナ発見のエピソードに強く惹かれ、同地溝帯の地表に露出した岩盤を中心に撮影し始めた。やがて、彼女は自分が暮らす東京の日常にも目を向けるようになる。そこにも、さまざまな「地殻変動」が生じており、日々の出来事が「堆積」し、それが「露頭」として目に見えるかたちで出現してくるからだ。

今回のPOSTの展示では、フォッサマグナの「露頭」を撮影した写真群(実物の岩の破片も含む)、日常生活を撮影したスナップ写真、夫のアバロス・カルロが書いた漢字練習帳やナウマンの論文などを複写した写真などで構成されていた。会場のスペースに限界があるので、インスタレーションがうまくいっていたとはいえない。特に日常生活のパートは、もう少し拡充してもいいだろう。だが、さらにこのプロジェクトを展開していけば、より広がりと深みのある展開が期待できそうだ。

なお、このシリーズは、2017年度の写真家オーディション「SHINES」(キヤノンマーケティングジャパン主催)で町口覚が選出し、彼の造本で30部限定の写真集を刊行している。その「Drifting across the sea, Searching for a place to belong, Finding a new home, And calling in their own. Just like the Fossa Magna, Years gone by, Layer by layer, Unseen, but to be known」という長いタイトルの写真集の増刷版も刊行され、会場で販売されていた。写真集には、アバロス・カルロの詩的なテキストが、写真と写真のあいだを縫うようにレイアウトされている。写真とテキストとの絡み合いが、重層的、多次元的な内容とうまくマッチしていた。

2020/03/11(水)(飯沢耕太郎)

高橋宗正「糸をつむぐ」

会期:2020/02/12~2020/03/23

PGI[東京都]

写真家にとって、撮影の機材を変えるということがとてもいい方向に働くことがある。高橋宗正の場合がまさにそうだった。高橋は、3年ほど前から8×10インチ判の大判カメラを使い始めた。友人から「水に浮くもの」を撮ったらいいのではないかと言われて、その言葉がずっと引っかかり、大判カメラを使えばいいのではないかと思いついたのだ。そんな矢先、たまたま8×10インチ判カメラを売りたいと思っていた人に出会い、話がつながった。何かが動くときは、偶然のように見えて、それを超えた力が働くのだろう。

今回の「糸をつむぐ」展には30点のモノクローム作品が出品されている。テーマはさまざまで、風景、オブジェ、「結婚、出産、子育て」など、かなり多様な写真が含まれている。「水」のイメージも多い。その「水」も流れる水、止まる水、震える水、染み出す水などいろいろだ。「何か」を撮ろうとしているのではなく、その「何か」に向かう心の動き、繊細なセンサーの反応に、むしろ素直に呼応してシャッターを切っているように見える。元々、高橋は撮り手としての能力が抜群に高い写真家だったが、そのセンスに頼り切らずに、慣れない機材のメカニズムをあいだに挟むことで、逆に写真の説得力が増した。それでいて持ち前の軽やかさは失われていない。彼にとっても、手応えのあるシリーズに仕上がったのではないだろうか。

「水に浮くもの」の探求は、もう少し続けてほしい。つむいだ糸が、何か大事な絵模様を織り上げていきそうな予感がする。

関連レビュー

高橋宗正「石をつむ」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年04月15日号)

高橋宗正『津波、写真、それから──LOST&FOUND PROJECT』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

2020/03/11(水)(飯沢耕太郎)

平本成海展 narconearco

会期:2020/02/18~2020/03/14

ガーディアン・ガーデン[東京都]

平本成海は昨年の第20回写真「1_WALL」展のグランプリ受賞者。受賞記念の個展として開催された本展には、平本の自宅に毎日届く新聞(地方紙)に掲載された写真をピックアップして加工、コラージュした作品が並んでいた。コラージュ作品は、その日のうちにSNSにアップされる。今回展示された「narconearco」に付された記事は、たとえば次のようなものだ。「このうち境内入り口に設置された一台に、17日23時50分ごろ、目出し帽を被った不審な人物が本殿に入っていく姿が映っていた。燃やされた発光如来が納められていた厨子には、ナルコネアルコのようなものでこじ開けた痕跡があったことが分かっている」。

つまり、地方新聞の写真と記事を基にしたフェイク・ニュースを作って、個人的な回路で流通させるというアイディアである。記事も写真も洗練された手つきで作られていて、視覚的なエンターテインメントとしても十分に楽しめる。ただ、「ナルコネアルコ」とは何かということを突き詰めようとすると、出口のない迷路に入り込んでしまう。

「1_WALL」展の審査員のひとりの増田玲は展覧会に寄せたコメントで「どうやら受信者として指定されているらしい私たちに期待されているのは、個々のイメージの謎を解くことではなく、それらを謎として受けとる私たちの思考そのものを観察することなのではないか」と書いている。それは確かにその通りなのだが、もし「ナルコネアルコ」をめぐる不条理な事件が、互いに結びついて、より大きな「謎」として提示されていけば、平本の作品世界はもう一回り広がりと深度を増すのではないかと思う。もうひとつ、会場にはコラージュ作品が並んでいるだけで、テキスト(記事)は省かれていた(リーフレットに一部掲載)。やはり画像とテキストが一体化したインスタレーションのほうがよかったのではないだろうか。

2020/03/09(月)(飯沢耕太郎)