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長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』

2020年05月15日号

発行所:大福書林

発行日:2020/1/15

本書は、1990年代に台頭した若い女性写真家を中心に、「写真ブーム」を引き起こした潮流──写真評論家の飯沢耕太郎が「女の子写真」と名付けた潮流──を対象とし、代表的写真家のひとりである長島有里枝が、性差を自明なものとするカテゴリー化とそれが内包するジェンダーの不均衡な権力構造の再生産について、徹底した批判的検証を加えるものである。長島は武蔵大学大学院人文科学研究科社会学専攻に社会人枠で4年間通い、修士論文に加筆修正したものが本書である。

章立ては主に時系列順で構成され、「女の子写真」のパイオニア的存在とされる長島の1993年のデビュー、95年のヒロミックス登場を経て、90年代後半にかけて「突然」ブームが出現したのではなく、その「前史」にあたる90年代初頭に、若手女性写真家の台頭がすでに見られたことを掘り起こす作業から始まる。具体的には、1990年と91年に、初めて2年連続で女性写真家が木村伊兵衛写真賞受賞を果たしたことだ。長島は、「ブーム」を時代的な連続性の下で捉え直す視座に立ちつつ、受賞の選評、雑誌や新聞の(大半が男性による)言説を検証し、露骨なジェンダーバイアスや性差別的な眼差しの偏向、論理的破綻を暴いていく。

男性論客による「女の子写真」の言説に対する批判は、ヒロミックスについての言説を分析した4章が中核となる。そこでは、ヒロミックス特集を組んだ『スタジオ・ボイス』1996年3月号の扉に掲げられたマニフェスト「僕らはヒロミックスが好きだ。」がきわめて象徴的なように、「僕ら」=異性愛の男性の視点から、自らの欲望に奉仕するものとして一方的に語り、言説によって飼い慣らそうとする植民地的暴力が糾弾される。飯沢の論調に顕著な「自己中心的」「軽やか」「技術的な未熟さ」といった語り口は、一方でそれを「男性写真家にはない魅力」として称賛しつつ、実質的にはホモソーシャルな連帯とその背後にあるミソジニーの強化にすぎない。また、「女の子写真=技術的未熟さ」の前提とされる「コンパクトカメラなど機材の簡易軽量化」「カメラ機能付き携帯電話の普及」といった言説にも、長島は検証を加える。例えば、長島自身はデビュー当時から一眼レフカメラを使用しており、アンソロジー写真集『シャッター&ラヴ Girls are dancin’ on in Tokyo』(INFAS、1996)に紹介された写真家16名のうちコンパクトカメラで撮影した作品を掲載しているのは2、3名にすぎないこと、また若手写真家登場のピークが97、8年であるのに対し、「携帯電話・PHSの普及率が人口の50%を超えたのは2000年末」という総務省のデータを対置させる。

「未熟で傷つきやすく、(機械にも)弱い『女の子』は、安全で魅力的な庇護の対象であり、支配・所有が可能である」。男性論客たちの言葉遣いの端々には、性差に加え年齢差がはらむ権力関係の隠蔽、自己防衛、覇権争い、父権的構造が、巧妙に埋め込まれている。それらは(恐らく)無自覚だからこそ、より深刻である。またその最大の弊害は、女性写真家の表現が同世代の多くの女性の共感を呼び、「自分にもできる」というエンパワーメントを与えた面を取りこぼしてしまうことにある。

本書を通して長島は、ジェンダー・スタディーズ、とりわけジュディス・バトラーを参照し、身体的性差を唯一の基準とする二元的なジェンダー区分の自明さに疑義を呈する立場から、「女の子写真」というカテゴリー化の自明性と飯沢が論拠とする「女性原理」を切り崩していく。その先に賭けられているのは、「女の子写真」として不当に他者化・周縁化された語りを主体的にどう取り戻すかという企てだ。長島は、同時代的潮流として第三波フェミニズムに着目し、「ガーリーフォト」として記述し直すことを試みている。

本書の問題提起の射程は、90年代日本における女性写真家をめぐる言説だけにとどまらない。それは、写真界のみならず日本社会の男性中心主義が、「若い女性」をいかに抑圧/消費しているかの証左であり、「表現/語りの主体とジェンダー」という広範な問い、とりわけ「強固な二元論的性差を無批判に受け入れて自明の根拠とする語りは、表現されたものの解釈をいかに狭め、歪め、見損ね、見落としてしまうか」を冷静に告発している。

2020/04/24(金)(高嶋慈)

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