artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

笹岡啓子「PARK CITY」

会期:2019/12/06~2019/12/26

photographers’ gallery[東京都]

笹岡啓子が「PARK CITY」のシリーズを撮影しはじめたのは2001年、photographers’ galleryで最初に同シリーズを展示したのが2004年だから、すでにかなりの時間が経過している。そのあいだに東日本大震災の被災地を撮影した「Difference 3.11」(2012〜)や海岸線をモチーフに「地続きの海」の景観を探る「SHORELINE」(2015〜)など、いくつかのシリーズを発表しているので、この作品だけに集中してきたわけではない。だが、これだけ長く続くと、その時間の厚みをどのように新作に組み込んでいくかが、大きな課題として浮上してくるのは当然だろう。

笹岡は2009年に写真集『PARK CITY』(インスクリプト)を刊行している。そのときは、6×6判のモノクロームフィルムで撮影した写真を集成していた。それと比較すると、今回の展示ではよりヴァリエーションが増えてきている。カラー写真が中心になり、ネガの状態に色を反転してプリントした作品もあった。笹岡の出身地でもある広島の平和記念公園を中心とした地域を、傍観者的な距離感で撮影していく、被写体の選択の方向性に大きな変化はない。だが、以前の冷静なアプローチとは異質な、どこか感情的な要素を強調した写真が目につくようにも感じた。

このシリーズが、今後どのように展開していくのかはまだよくわからない。笹岡自身にも迷いがあるのではないだろうか。この時期を抜けることで、これまで撮影してきた広島平和記念資料館の展示物の観客たちや、慰霊のために川の周辺に群れ集う人々などの諸要素が、よりくっきりと構造化されてくることを期待したい。なお本作品の一部は、同時期に刊行された『photographers’ gallery press no.14』にも掲載されている。

関連レビュー

笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年07月15日号)

笹岡啓子「PARK CITY」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年07月15日号)

笹岡啓子「PARK CITY」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)

笹岡啓子『PARK CITY』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2010年03月15日号)

2019/12/25(水)(飯沢耕太郎)

安村崇「態態」

会期:2019/12/01~2020/01/19

MISAKO & ROSEN[東京都]

安村崇は「その事物が写真としてどう現われるのか」、つまり写真の画面上での「見え方」にこだわって作品を制作し続けてきた。その禁欲的ともいうべき営みは、今回のMISAKO & ROSENでの個展「態態」で、ひとつの結節点を迎えたようだ。

彼のデビュー作である『日常らしさ』(オシリス、2005)を知る者は、今回の展示を見て懐かしさを覚えるのではないだろうか。革靴や靴下や酒の徳利などをクローズアップで撮影した何枚かは、日常の事物がどこか偽物っぽく見えてくるあり方を追求した『日常らしさ』に通じるものがあるからだ。出品作には、公共施設の建造物の一部を切り取って、画面上に等身大に再現した『1/1』(オシリス、2017)と共通性を感じるものもある。つまり、安村は旧作の2作品の「間」に狙いを定めているということだろう。とはいえ、中途半端な折衷ではなく、そこには新たな「見え方」を意欲的に模索していこうという姿勢がはっきりとあらわれていた。

はじめて挑戦したという映像作品もとても興味深い。映像作品でも被写体はほぼ同じで、見慣れた日常の事物を縦、あるいは横にスクロールして捉えている。つまり観客は、対象物の一部しか見ることができないわけで、スクロールしていくと、次第にその眺めが変わり、違う「見え方」があらわれてくる。その画角、構図、スクロールの速度の選択が的確かつ絶妙で、見慣れた被写体が、奇妙な異物に見えてくることに驚かされた。今後は静止画像と動画をより複雑に組み合わせた、インスタレーション的な展示も考えられるのではないだろうか。次の展開が楽しみだ。

2019/12/21(土)(飯沢耕太郎)

至近距離の宇宙 日本の新進作家 vol.16

会期:2019/11/30~2020/01/26

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

毎年、年末から年始にかけて東京都写真美術館で開催されている「日本の新進作家」展も16回目を迎えた。今回は「至近距離の宇宙」というテーマで、藤安淳、井上佐由紀、齋藤陽道、相川勝、濱田祐史、八木良太の6人が出品している。写真表現の歴史において、クローズアップで撮影された写真の登場は大きな意味を持っていた。肉眼で見る世界とは、まったく異なる世界の眺めを捕獲することができるからだ。そこに見えてくる現実世界の姿は、親密さと違和感とを同時に感じさせるのではないだろうか。今回の展示でも、6人の若手写真家たちは、作品制作を通じて、身近なはずの被写体を撮影したときに生じる驚きや不思議さを引き出そうとしていた。

とはいえ、展覧会の前半に並ぶ藤安、井上、齋藤と、後半の相川、濱田、八木の作品の印象はかなり違う。自身も双子の片割れである藤安は、さまざまな双子たちのポートレートを撮影し、井上は生まれたばかりの赤ん坊の瞳にカメラを向ける。聾唖の写真家である齋藤は、世界がみじろぎするその一瞬を捉えようとする。現実世界のあり方をストレートに描写し、「感動」とともに定着させようとする彼らに対して、プロジェクターやタブレット端末の液晶画面の光を光源として制作する相川、山や海のイメージを身近な素材で再構築する濱田、鏡や「驚き盤」などの装置を介した視覚的な変容を扱う八木の作品は、むしろ「近さ」という認識そのものをクールに見直そうとしている。この二つの対照的な作品世界を並置することは、試みとしては面白いが、やや混乱を招いていた。前半部分と後半部分の作品の違いを、もう少し丁寧に浮かび上がらせるべきだったのではないだろうか。

2019/12/18(水)(飯沢耕太郎)

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小林紀晴 写真展 孵化する夜の啼き声

会期:2019/12/11~2019/12/24

銀座ニコンサロン[東京都]

小林紀晴は、このところ、日本各地の祭事や祭礼を撮り続けている。じつは、小林と同世代、あるいは彼よりやや若い写真家たちのなかで、同じような題材を選ぶ者がかなり多い。それらの写真を見るたびに、なぜ祭事や祭礼なのかという疑問を覚えることがよくある。民俗学をバックグラウンドとして祭事を撮り続けてきた芳賀日出男や須藤功の場合には、その動機ははっきりしている。日本人の宗教観や死生観が、最もよくあらわれてくるのがそれらの行事であり、撮影によって視覚的なデータを得ることができるからだ。だが、小林らが何を目的として撮影しているのかは、写真を見ている限りではうまく伝わってこない。

小林が会場に掲げていたコメントに以下のように記しているのを読んで、「なるほど」と思った。祭事や祭礼は夜通しおこなわれることが多いので、漆黒の闇に包まれてじっとしていると「奇妙な感覚」に襲われることがある。眼前の人の姿や光景が裏返って「千年前と千年後、現実と異界、ケとハレ、明と喑といったものがゆっくりと反転し、時間と空間が奥行きをもってねじ切れたとき、亀裂が生じ、やがて激しく割れる」。そこで「私はぷっくりと生まれ出でた“モノタチ”を目撃する」というのだ。これは、客観的な記録を基調とする従来の民俗学的な写真のあり方とはまるで違う、写真家の個人的な体験に根ざした撮影の動機といえる。祭事や祭礼は、その「時間と空間が奥行きをもってねじ切れ」るという感覚を引き出すための装置と見るべきだろう。

それはそれでよいが、それならば、その個人的な体験にもっと集中し、写真の選択、配置の仕方をより厳密におこなってほしい。展示されている写真には、祭礼の前後の日常を撮影したものがかなり多く含まれているが、それらは明らかに緊張感を欠いている。大小の写真をズラしながら、重ねていくような展示構成も、視点が拡散してしまうので一考の余地があるだろう。なお、本展にあわせて赤々舎から同名の写真集が刊行された。本展は2020年1月9日〜1月22日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2019/12/12(木)(飯沢耕太郎)

ホンマタカシ『Symphony その森の子供』

発行所:Case Publishing

発行日:2019年11月

ホンマタカシは2011年に福島の森のきのこを撮影した。2012年には東京・代々木のBlind Galleryで「その森の子供」と題する個展を開催し、同名の写真集も刊行している。同作品は2015年4月〜7月にボストン美術館で開催された「In the Wake: Japanese Photographers Respond to 3/11」展にも出品された。今回、Case Publishingから出版された『Symphony その森の子供』は、その完成版といえる。同書には福島に加えて、スカンジナビア、チェルノブイリ、ストーニーポイントで撮影されたきのこの写真がおさめられていた。

スカンジナビア(スウェーデン、フィンランド)と、チェルノブイリ(旧ソ連、現在はウクライナ)で撮影されたきのこの写真は、福島のそれとつながっている。2011年の東日本大震災直後の津波による福島第一原子力発電所の大事故、1986年のチェルノブイリ原子力発電所4号機の爆発事故によって放出した放射性物質が、森のきのこたちに吸収・蓄積され、摂取規制が長く続いてきたからだ。チェルノブイリからかなり離れたスカンジナビアでも、爆発事故後に、風の影響によって放射性物質が集中してふりそそいだのだという。

写真集の最後のパートにおさめられた、アメリカ・ニューヨーク郊外のストーニーポイントのきのこたちは、やや違った意味を持っている。現代音楽家のジョン・ケージは、1954年にストーニーポイントに移り住んだ。ケージは同地の野生のきのこたちに魅せられて、その研究を開始する。ケージはのちにニューヨーク菌類学会の創設者のひとりとなり、「きのこ狂」として知られるようになる。きのこの持つ魔術性、偶有性、多様性はケージの音楽活動にも多大な影響をもたらした。ストーニーポイントは、それゆえ、世界中のきのこ愛好家(マイコフィリア)にとって、聖地というべき場所となった。

この4つの土地を巡礼のように彷徨うことで、『その森の子供』は、さらにふくらみを増し、きのこの世界の豊かさを、静かだが力強いメッセージで歌い上げる作品に成長した。森で採取したきのこたちを、その場で白い紙の上にそっと載せて撮影した写真と、それぞれの森のたたずまいを、やや引いたアングルで押さえた写真とを組み合わせる写真集の構成もとてもうまくいっている。ホンマタカシの写真家としての美点が、最大限に発揮された作品といえるだろう。

関連レビュー

ホンマタカシ「その森の子供 mushrooms from the forest 2011」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2012年02月15日号)

2019/12/10(火)(飯沢耕太郎)