artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
アルマンド・サラス・ポルトゥガル「Casa Barrag n」
会期:2017/10/10~2017/11/11
タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]
昨年、グラシエラ・イトゥルビデ展を開催したタカ・イシイギャラリーフォトグラフィー/フィルムで、再びメキシコの写真家の作品が展示された。アルマンド・サラス・ポルトゥガル(1916~1995)は、メキシコ・モンテレイ出身で、1930年代にアメリカ・ロサンゼルスで写真を学び、帰国後、メキシコ各地を撮影したドラマチックでスケールの大きな風景写真で頭角をあらわした。建築写真の分野でも、端正な画面構成の作品を多数発表している。特に40年にわたって「専属写真家」を務めたという、ルイス・バラガンの建築の記録写真がよく知られている。今回の個展はバラガンの代表作といえるメキシコシティ郊外の《バラガン邸》(1948)を撮影した写真を集めたもので、ポルトゥガルの建築物に対する視点の取り方を、じっくりと検討しながら眺めることができた。バラガンは当時の建築の主流であった機能主義的な国際様式をそのまま取り込むのではなく、メキシコの伝統的な生活様式や美意識に合わせて変更していく「感情的建築」を目指していた。《バラガン邸》にはその彼の志向が最も強くあらわれており、ポルトゥガルもそれに合わせて、カメラアングルや光の状態を慎重に選択してシャッターを切っている。こうしてみると、バラガンの建築がいかに「写真に撮られる」ことを前提として構想されているのかが、鮮やかに浮かびあがってくるのが興味深い。特に何点か展示されていたカラー写真に、バラガンとポルトゥガルの意図が明確に表明されているように感じた。
2017/10/13(金)(飯沢耕太郎)
マグナム創設の原点
会期:2017/10/06~2017/10/25
フジフイルム スクエア[東京都]
マグナム・フォトは、いうまでもなく1947年にロバート・キャパ(ハンガリー→アメリカ)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(フランス)、デビット・シーモア(ポーランド→アメリカ)、ジョージ・ロジャー(イギリス)の4人の写真家を中心に設立された「写真家のための協同組合」である。その後現在に至るまで、フォト・ジャーナリズムとドキュメンタリーの分野で世界中の写真家たちに影響を与え続け、大きな目標となってきた。本展はそのマグナムの草創期の写真にスポットを当てたもので、創設者の4人のほか、イヴ・アーノルド(アメリカ)、インゲ・モラス(オーストリア→アメリカ)、エリオット・アーウィット(アメリカ)、ワーナー・ビショフ(スイス)、デニス・ストック(アメリカ)、マルク・リブー(フランス)といった写真家たちを取り上げている。「Part1 創設者4人が写真家として活動を開始」、「Part2 第二次世界大戦」、「Part3 マグナム創設とその後」という三部構成、70点の作品を見ると、この時期のマグナムの写真家たちの活動ぶりが特別な輝きを発しているように思えてくる。むろん、個々の写真家たちが、それぞれのキャリアのピークを迎えつつあったということはある。だが、それ以上に雑誌や新聞に掲載された一枚の写真が多くの人々の心を揺さぶり、世論の動向にも影響を与えていくような、フォト・ジャーナリズムの黄金時代が背景にあったということだろう。その輝かしい時期は、だがそれほど長くは続かない。1954年、ロバート・キャパがインドシナ半島で、ワーナー・ビショフがペルーのアンデス山中で取材中に命を落とす。56年にはデビット・シーモアがスエズ動乱を取材中に亡くなる。そのあたりから、マグナム内の、写真は芸術なのか、記録なのかという論争も激しくなり、その活動も大きな曲がり角を迎えることになる。とはいえ、今回展示された1930~50年代の写真群は、何度でも見直すべき価値がある傑作揃いといえる。ただ、会場がやや手狭だった。もう少し大きなスペースで、資料展示も含めてゆったりと写真を見ることができるといいとおもう。
2017/10/13(金)(飯沢耕太郎)
野村浩「もう一人の娘には、手と足の仕草に特徴がある。」
会期:2017/10/07~2017/10/22
POETIC SCAPE[東京都]
今年3月に同じ会場で個展を開催したばかりの野村浩が、矢継ぎ早に新シリーズを発表した。前回の「Doppelopment」の続編というべき作品で、ひとり娘の「はな」に双子の姉妹の「なな」がいたという設定をさらに膨らませている。前回は、牛腸茂雄の「こども」の写真を思わせるモノクロームの画面に、スナップショット的に二人の女の子を配するという趣向だったのだが、今回はカラー写真になり、写っているのはひとりだけだ。つまり、野村が生み出した「もうひとりの娘」がまさにひとり歩きし始め、自分の世界をつくり始めたという設定である。もともとこのシリーズは、野村自身が双子の片割れというところから発想したものだが、展開していくにつれて少しずつ現実感が増し、写真を使った物語作家としての野村の本領が充分に発揮されるようになってきている。娘の成長に合わせてさらに続けていけば、より豊かな内容になることが期待できそうだ。このシリーズのもうひとつの見所は、前回の牛腸茂雄と同様に、写真史的な文脈が巧みに導入されていることだ。今回の展示にはインスタント写真を使ったパートもあるのだが、そこではダイアン・アーバスのあの有名な双子の写真や、ロートレックの自分をモデルと画家に分裂させたセルフポートレートが引用されていた。考えてみれば、写真というメディウムそのものが「Doppelopment」(ドッペルゲンガーと写真の現像を意味するdevelopmentを組み合わせた野村の造語)の装置というべきものであり、被写体を増殖させる試みが絶えず繰り返されてきた。このシリーズは、個人史と写真史が結び合うかたちで発展していくのではないかと思う。ただ、あまりにも複雑な内容になっていくと、観客の負担も増えてくる。軽やかな「初心」を忘れることなく続けていってほしい。
2017/10/11(水)(飯沢耕太郎)
小松浩子「鏡と穴─彫刻と写真の界面 vol.4」
会期:2017/09/09~2017/10/14
gallery αM[東京都]
光田ゆりがキュレーションする連続展「鏡と穴──彫刻と写真の界面」の第4回目として開催された小松浩子のインスタレーションには、正直圧倒された。ギャラリーに向かう階段を降りる時から、定着液の饐えた匂いが漂っていて、ある程度予想はしていたのだが、会場の様子はその予想をはるかに超えていたのだ。ロール紙に引き伸ばされた大量のプリントが、壁に貼り巡らされ、床に置かれたり、丸めて立てたりしてある。壁と壁の間に張られた針金に吊るされているものもある。床には、文字通りびっしりと8×10インチサイズのプリントが敷き詰められ、観客はその上を土足で歩いて作品を見るようになっている。写真に写っているのは、小松が偏愛しているという資材置場の光景。さまざまなモノたちが乱雑に寄せ集められ、重なり合い、そのまま放置されている場所のたたずまいが、写真のインスタレーションで再現されているのだ。ギャラリーのスペース全体が、まさに資材置場と化していることに思わず笑ってしまった。小松の今回の展示のタイトルは「人格的自律処理」だそうだ。「人が死んだときに実行されることがら、例えば遺言執行や臓器提供などを、死者自身が行うことの可能性についての考えを含んで」いるのだという。とても興味深いコンセプトだが、そのことから推し量ると、今回の展示はモノそのものの「人格的自律処理」を小松が代行したということなのではないだろうか。ドイツのケルンや、マンハイムでの展覧会も含めて、このところの彼女の展示には吹っ切れた凄みを感じる。もっと大きなスペースで、思う存分暴れてほしいものだ。
2017/10/10(火)(飯沢耕太郎)
新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 笹岡啓子《PARK CITY》
会期:2017/09/22~2017/10/09
横浜市民ギャラリー[神奈川県]
「キオクのかたち/キロクのかたち」展のレビュー後編。
「語ること」の可能性を模索する前編の3組とは異なり、広島という歴史的な刻印を押された地に身を置き、「語ること」の不可能性もしくは飽和状態を見つめ直すことから出発しようとするのが笹岡啓子の写真作品《PARK CITY》である。笹岡は、夜間の平和記念公園や市街地、平和記念資料館の展示室をモノクロで撮影した写真集『PARK CITY』(2009)を刊行後、近年はカラープリントを発表している。この移行に見られるある種の断絶、もしくは「ヒロシマ」の表象をめぐる転回については、6月のThe Third Gallery Ayaでの個展レビューで考察した。
本展では、大判のカラープリントのあいだに小ぶりのモノクロプリントが点在し、さらにネガポジ反転された写真も加わり、視線と焦点を定めにくい分散的な展示方法が(あえて)採られた。長時間露光撮影により、観光客や通行人の姿が希薄な陽炎のように空中を漂い、「亡霊」の出現、もしくは「原爆の炸裂の瞬間に蒸発した人間」を否応なしに想起させるカラーの近作。そこでは、観光客で溢れる明るい現在の公園の中に、(炸裂の瞬間という記録不可能な)「過去」が召喚され、狂気に満ちたイメージが出現する。また、資料館の展示室で撮影した写真では、写真パネルや映像展示とそれを「見る」観客の姿に笹岡は執拗にカメラを向ける。大きく引き伸ばされた焼野原の写真をスマホで「撮影」する観客たち、入れ子状に増殖する「写真」の生産。リニューアルされた展示室で、円形の都市模型にプロジェクションされる原爆投下前/投下後のCG映像に魅入る観客たち。「映像」の「ヒロシマ」、「映像」でしかない「ヒロシマ」、その実体感の希薄さ。ネガポジ反転された写真群が、「失調」という感覚を増幅する。
そして、これらのカラー写真のあいだに置かれたモノクロ写真は、遠目にはほぼ真っ黒で、至近距離で目を凝らさないとよく見えない(闇に浮かぶ献灯の前で佇む後ろ姿や、人々が集う川辺の背後にうっすら浮かぶ原爆ドームのシルエットなど)。大判のカラープリントと小ぶりのモノクロプリントが隣り合って並ぶため、作品との「適切な距離」がうまく取れない。引きで見ようとするとモノクロの画面はほぼ真っ黒で判別できず、接近して見るとカラーのプリントは視界からはみ出してしまう。引きと接近の狭間を往還し、その都度焦点を合わせ直しながら、小さな疲労が次第に身体に溜まっていく。
「適切な距離感の把握」の失調、それは、きれいに整備された公園/写真や映像の実体のなさが浮遊する平和記念資料館内において、「ヒロシマ」を捉えようとする時の距離間隔の喪失でもある。笹岡の展示は、「広島」のなかにある「ヒロシマ」の見えづらさ、捉えどころのない距離感の失調感覚を、一枚の写真の中だけで完結させるのではなく、展示空間全体の体験へと拡張し、観客に体感させることに成功していた。
また、笹岡のカメラが、平和記念公園と資料館の双方において、外国人観光客の姿を多く捉えていることにも注目したい。「広島」が抽象的な概念ではなく、世界遺産登録やオバマ来訪といった外的要因によって外国人観光客が増加するなど、絶えず変化していく現実の生きた場所であり、また東館のリニューアルなど「展示」内容や形態がメディアの進歩とともに加算され更新されていく以上、「ヒロシマの表象」をめぐる笹岡の抵抗の試みもまた、何度でも編み直されていかねばならない。
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2017/10/09(月)(高嶋慈)