artscapeレビュー
笹岡啓子「PARK CITY」
2017年07月15日号
会期:2017/06/06~2017/06/24
笹岡啓子が2001年から撮り続けている《PARK CITY》は、生まれ育った広島を「公園都市」と見なし、平和記念公園とその周辺を撮影した写真作品である。2009年には写真集『PARK CITY』が刊行された。本個展は3つの構成要素から成る。1)『PARK CITY』所収のモノクロ、正方形フォーマットの写真(夜間に公園や市街を撮影した、ほぼ真っ黒な画面)。2)カラー、横長フォーマットの近作(公園や原爆ドーム周辺で人物を撮影。何かを眺める人々の後ろ姿を撮影した写真と、長時間露光によって亡霊のように希薄化した人影を写し込んだ写真から成る)。3)スライドプロジェクション(10年以上にわたる本シリーズを再編したものに加え、自身の幼少期の家族写真、被爆以前/被爆直後の記録写真が混ざり、個人的な記憶と大文字の歴史、作家としての表現とオフィシャルな記録が幾重にも積層したイメージの磁場が出現する)。
本個展は、1)写真集『PARK CITY』所収の写真と、2)近作のカラー写真とのあいだの断絶、もしくは移行を非常に感じさせるものだった。それぞれを仔細に見ていこう。
1)夜間に撮影された平和記念公園や市街地の写真では、ポツンと佇む外灯や遠くの看板の灯りが孤独な星のように闇に浮かぶばかりで、真っ黒な画面にはほとんど何も写らない。その「写らなさ」の端的な提示は、「美しく整備された公園にカメラを向けても、原爆の惨禍という過去は写らない」という諦念である。あるいは、それらの写真では、原爆ドームや平和記念資料館、慰霊碑や祈念像といった「記憶」の代理=表象を担う装置が闇の中に没し、「見えなくなっている」「眼差しの対象として現前しない」ことを考えれば、名づけようのないものを視覚装置や言語化によって管理し、ナショナルな共同体として統合しようとする「可視性の政治」への抵抗として読み取れるだろう。
一方、対照的に3)スライドプロジェクションには、露出オーバーで画面がほぼ真っ白に飛んでしまい、昼間の公園内を歩く人々が眩い光の中に溶解していくかのような写真が何枚も登場する。ホワイトアウト寸前のそれらは「原爆の炸裂の瞬間」を想起させ、「炸裂の瞬間を写した写真」という不可視へのファンタスム、不可能がゆえの強い渇望を提示する。
「過去」を写そうとする欲望を拒絶する闇の黒さから、「炸裂の瞬間を写した写真」というありえないイメージの捏造へ。『PARK CITY』刊行後の近年の笹岡は、すでに過ぎ去った「過去」を写すことの不可能性から、「原爆の炸裂の瞬間を写した写真は、記録したフィルム自体が閃光や熱線で消滅するため、物理的に存在しない」というもうひとつの不可視性へと移行しているのではないか。
そして、あらゆるイメージを塗り込める「黒」と、あらゆるイメージを消し去っていく「白」との両極のあいだで、すなわち「ヒロシマ」の表象をめぐる2つの不可視性のあいだで浮遊するのが、「亡霊」の群れだ。平和記念資料館の展示室内部を撮影した写真群では、明るい照明に照らされた展示物や解説パネルの前で、観客の姿は暗く沈み、固有の顔貌を失い、黒い影の群れへと変貌する。(ここでは、二次的な記憶媒体である展示パネルこそが亡霊を生み出す、という逆転が起きている)。また、2)原爆ドーム周辺で撮られた近作のカラー写真では、長時間露光撮影により、観光客や通行人の姿は像として固定されず、陽炎のように希薄化した亡霊となって漂う。公園都市広島にカメラを向ければ、「亡霊」が写ってしまう(美しく整備されたここは、「爆心地」近くだったのだ)。
あるいはさらに想像が許されるならば、揮発した蒸気のように漂う人影は、「原爆の炸裂の瞬間に蒸発した人間」のありえないイメージをも想起させる。ここには、観光客で溢れる現在の広島の「日常」風景の中に、(炸裂の瞬間という記録不可能な)「過去」を呼び込もうとする笹岡の強い意志が感じられ、「現在」と「かつてこの場所で起きた過去」が写真の中で同時に生起する。それは、時制が崩壊し融合し破綻した、狂気に近い戦慄的なイメージだ。
原爆の惨禍という過去の「写らなさ」の諦念、記憶を代理=表象するシステムへの抵抗、「炸裂の瞬間」というもうひとつの不可視性、(写るはずのない)「亡霊」の徘徊。「広島」とは現実の都市の名である以上に、「写真、表象、記憶」をめぐる幾重もの係争が絡み合う場の名前でもある。では、「過去」の写らなさの端的な提示を超えて、「現在」の中に「過去」を憑依させ、フィクショナルなイメージとして捏造する、ある種の暴力的な簒奪に笹岡の表現を向かわせるものは何か?
ここで、3)のプロジェクションには、笹岡が公園周辺で撮ったスナップショットに加え、さまざまなリソースの写真を入れ子状に写した写真が多いことに注目したい。そこでは、「写真に撮られた広島」の複数性とその時間的厚みが形成される。広島という都市が抱える公園は、幼少期の家族写真が示すように、休日に家族で訪れる個人的な思い出の場所であり、同時に人類史的な災厄の場でもある。被爆前の街並みや建設中のドームの写真と、被爆直後に撮られた写真、復興が進んだ記念式典の記録写真。それらの膨大な写真群は、展示パネルとして、調査中の資料として、すなわち「人々の眼差しを受け止める表面」として写される。そして、現在の公園や記念館の展示室内に設置された写真パネルに視線を注ぐ人々の後ろ姿に、笹岡は、繰り返し、執拗に、痛みのようにカメラを向ける。大きく引き伸ばされ、場合によってはトリミングを施されてパネルに仕立てられた写真は、一部がフレームアウトして分断され、人々の頭や肩に遮られてよく見えない。ここで笹岡のカメラは、展示という近代的制度が記憶の表象をめぐるポリティクスの場であること、しかしそこには部分的な欠損や見えづらさが含まれること、そして元の写真が撮影された時間(被爆直後)/パネルが製作された時間(記憶の管理と制度化=忘却の始まり)/現在、という時間の多層性を鋭く照射する。
1978年生まれという、「1945年8月6日」の直接的な経験からは圧倒的に隔てられた笹岡にとっての「ヒロシマ」の経験とは、「撮られた写真を見るという経験」としてすでに開始されている。従って「そこ」へ到達するには、二重、三重に隔てられた時間の断絶の層を貫通するように、「見えづらさ」の困難を抱え込みながらも見ること、繰り返し眼差しを向けるしかないこと、記憶の制度化のポリティクスも含めて眼差すことを、何度も確かめて肯定するようにシャッターを切るのだ。人々の眼差しの後ろ姿に、自身の代行的反復としての姿を仮託しつつ、冷静な距離を取りながら。
2017/06/06(火)(高嶋慈)