artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
『[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』
発行所:武蔵野市立吉祥寺美術館
無名の撮影者たちの写真群をあらためて再構築して読み解いていく、そのような「ヴァナキュラー写真」への関心の高まりを受けて、武蔵野市立吉祥寺美術館から素晴らしい写真集が刊行された。『[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』は、写真というメディウムを、新たな方向に大きく開いていく可能性を秘めたプロジェクトといえるだろう。「はな子」はいうまでもなく、1949年にタイ王室から上野動物園に寄贈され、54年に井の頭自然文化園に移ったアジアゾウである。まだ敗戦の痛手が残る厳しい社会状況のなかで、多くの人々の心を和らげて人気者になった「はな子」は、その後69歳という異例な長寿を保って2016年に亡くなった。今回の企画は、市民が撮影した「はな子」とともに写っている169枚の写真と、その撮影当日に執筆された飼育日誌とをつなぎ合わせ、「
2017/10/08(日)(飯沢耕太郎)
6th EMON AWARD Exhibition 神林優展
会期:2017/10/03~2017/10/14
EMON PHOTO GALLERY[東京都]
神林優は1977年、長野県生まれ。2002年に多摩美術大学卒業後、2010~11年のニューヨーク滞在を経て、ユニークな写真作品をコンスタントに発表してきた。多摩美術大学時代に師事した萩原朔美や、その同世代の山崎博など、「コンセプチュアル・フォト」の系譜を受け継ぐ作風だが、厳密な方法論に基づくのではなく、より軽やかに日常の事象に目を向けて作品化していく。ただ、発想は豊かで技術的にも洗練されているものの、フィニッシュワークがやや小さくまとまってしまう印象があった。そのあたりが、今年2月に開催された6回目のEMON AWARDでも、準グランプリにあたる特別賞の受賞に留まった理由といえる。だが今回の「受賞者展」では、作品がより力強さを増してきているように感じた。神林にとってはひとつの転機となる個展になりそうだ。今回展示されたのは、スケートリンクのブレードの跡を撮影した「FIGURE」(1点)、折跡のある折り紙を開いて撮影した「FOLD」(25点)、カッティングシートを被写体にした「CUT」(2点)の3作品である。いずれも「本来的な行為の目的からは解き放たれてはいながらも、わたしたちのある目的のために為された運動によって残された跡」を被写体としている。偶然の積み重ねによって生じたフォルムであるにもかかわらず、そこにはある種の必然性が感じられる。それらの「運動によって残された跡」の静謐な美しさが、あまり押し付けがましくない繊細な手つきで、だが確信を持って捉えられているところに見所があり、とても好ましいイメージ群として成立していた。この方向を突き詰めていくと、さらに大きな可能性が開けてきそうだ。
2017/10/06(金)(飯沢耕太郎)
新納翔「PEELING CITY─都市を剥ぐ─」
会期:2017/09/26~2017/10/07
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
新納翔の新作写真集『PEELING CITY』(ふげん社)の刊行記念展として開催された本展を見て、あらためて高梨豊の「東京人」を想い起こした。「東京人」は、高梨が『カメラ毎日』(1966年1月号)に36ページにわたって掲載した作品で、東京オリンピック直後の多層的な都市空間の諸相が、写真とテキストによってコラージュ的に構成されている。新納が撮影したのは、東日本大震災の前後の時期からの東京とその周辺だが、目の幅を大きくとり、さまざまな距離感の被写体を等価に捉えていく眼差しのあり方に共通性を感じるのだ。とはいえ1960年代と2010年代では、都市空間そのものの手触りがかなり違ってきている。そのことは当然、新納の写真群に写り込んでいるはずだが、ポートレート(近景)、路上スナップ(中景)、風景(遠景)が入り混じる構成に紛れて、くっきりと浮かび上がってこないもどかしさを覚えていた。ところが、10月6日にふげん社で開催されたギャラリートークにゲストとして参加した中藤毅彦の発言を聞いて納得するものがあった。中藤は新納が一時所属していた東京・四谷のギャラリー・ニエプスの主宰者であり、新納の写真を初期からずっと見続けている。その彼が指摘したのは、新納の撮影した写真の中に「ヘルメットをかぶった人物がよく写っている」ということだった。写真集で数えて見ると、たしかにヘルメットをかぶった人物が写っている写真は全111点中10枚ある。帽子をかぶった人物、傘が写っている写真を加えるとその数はさらにふくらみ、全作品の三分の一ほどになる。これはむろん、無意識レベルでの被写体の選択なのだが、ここまで数が多いとやはり何か特別な理由があるのではないかと思えてくる。それはおそらく、ヘルメットが(帽子や傘もそうだが)、何かから「身を守る」ための装具であるということなのではないだろうか。つまり、現在の東京に潜む「危険さ」が、ヘルメットや帽子や傘に対する鋭敏な反応に結びついているのだ。これはやや穿った見方かもしれない。だが、往々にして感度のいいアンテナを持つ写真家は、知らず知らずのうちに何かを嗅ぎ当ててシャッターを切っていることがある。それを無意識レベルから意識レベルまで引き上げて、さらに大きく変貌しつつある都市空間の「皮を剥ぐ」作業を推し進めていく必要があるだろう。
2017/10/06(金)(飯沢耕太郎)
小松浩子
会期:2017/09/09~2017/10/14
gallery αM[東京都]
写真家の小松浩子の個展。工事現場の資材置き場を写したおびただしい数のモノクロ写真を会場の床や壁を埋め尽くすほど展示する作風で知られる写真家である。なかでも2012年に目黒区美術館の区民ギャラリーで開催した「ブロイラースペース時代の彼女の名前」は、広い会場にプリントされた印画紙のロールを張り巡らせた圧巻の展示だった。
今回の個展でも、その才覚はいかんなく発揮されていた。壁という壁がモノクロ写真で埋め尽くされ、それは床にも及んでいるため、来場者はそれらを踏みつけながら鑑賞することを余儀なくされる。文字どおり四方八方にイメージが拡散しているため、正面や中心を設定することは不可能に近い。それゆえ、私たちは特定の写真に視線の焦点を絞ることすらできないまま、まるで宇宙空間を漂うかのように、写真空間の中をあてどなく彷徨うほかないのである。
興味深いのは、そうであるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、その夢遊病的な彷徨は結果として「資材置き場」の視覚的なイメージよりも触覚的なイメージを強く感じさせるという点である。瓦礫や鋼材のざらついた質感だけではない。泥を浴びたブルーシートや剥き出しの土までもが、思わず触れたくなるような触覚性を醸し出している。この皮膚感覚を励起させたいがために、小松はこれほどまで執拗に写真空間の密度とボリュームを追究しているのではないか。
物質の触感を写真の平面に焼きつけ、なおかつ空間をそれらの平面で充填することによって、その触覚性を空間の物質面で増強すること。それは、一点の写真作品の芸術性を審美的に(つまり視覚的に)問う写真の規範では計りしれない、小松ならではの方法論である。写真作家としてそれを獲得していることに大きな意味がある。
2017/10/05(木)(福住廉)
長島有里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」
会期:2017/09/30~2017/11/26
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
武蔵野美術大学在学中の1993年、パルコが主催する「アーバナート#2」展に長島有里枝が出品した、セルフポートレートを含む「家族ヌード」には衝撃を受けた。まったく新しい思考と感受性と行動力を備えた写真家が出現してきたという驚きを、いまでもありありと思い起こすことができる。その長島の25年にわたる軌跡を辿り直す「代表曲を収録したベストアルバム」(野中モモ)というべき東京都写真美術館での個展は、その意味で僕にとってはとても感慨深いものだった。あっという間のようで、さまざまな出来事が凝縮したその25年のあいだに、ひとりの女性写真家がどのように変貌していったのか、あるいは何を保ち続けてきたのかが、ありありと浮かび上がる展示だったからだ。『YURIE NAGASHIMA』(風雅書房、1995)、『empty white room』(リトルモア、1995)、『家族』(光琳社出版、1998)、『PASTIME PARADISE』(マドラ出版、2000)と続く、キャリアの前半期の写真群には勢いがあり、自分と家族、社会との関係が小気味よく切り取られている。だが、むしろ結婚、出産、離婚などを経た後半期の作品に、写真家としての成熟がよくあらわれていると思う。写真集『SWISS』(赤々舎、2010)におさめられた写真や、母親と共同制作したという個展「家庭について/about home」(MAHO KUBOTA GALLERY、2016)のインスタレーション(写真も含む)には、生の苦味や重みを背負いつつ作品として投げ返し、一歩一歩進んでいくアーティストの姿勢がしっかりと刻みつけられていた。どうしても腑に落ちなかったのは、「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」という、どこかのテレビ局のメロドラマのようなタイトルである。もしかすると、タイトルと展示の内容との違和感が狙いなのかもしれないが。
2017/10/04(水)(飯沢耕太郎)