artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

チャンネル7 髙橋耕平「街の仮縫い、個と歩み」

会期:2016/10/15~2016/11/20

兵庫県立美術館[兵庫県]

注目作家紹介シリーズ“チャンネル”7回目は、京都を拠点として主に映像作品を手がける髙橋耕平の個展。髙橋は、「複製」「反復とズレ」「同一性と差異」といった映像の構造に自己言及的な初期作品から、近年は、具体的な人物や場所に取材したドキュメンタリー的な作品へとシフトしている。この移行によって浮上したのが「記憶」という主題であり、「個人」の記憶から「場所」の記憶や地域の共同体へ、さらにそこにはらまれた歴史的時間へと、作品ごとにフィールドを拡張してきた。
本展での髙橋の関心は、21年前の阪神・淡路大震災の被災という、他者の経験や記憶にどうアプローチできるのかという問いへ向けられている。ただしそれは、被災経験それ自体の主題化ではなく、非当事者として完全な共有や追体験は不可能だからこそ、「誤読」がはらむ創造的な可能性があるのではないかという試みでもある。
展示室に入ってまず目につくのは、展示形態の仮設性、移動性だ。映像作品は広げた毛布や段ボールに投影され、プロジェクターを置く台や鑑賞者用の椅子は、水の入ったペットボトルにベニヤ板を被せた仮ごしらえのものだ。これらは「避難生活や救援物資」を強く連想させる。一方、映像の被写体やインタビュー内容には、震災との直接的な関係は見られない。電動車イスの男性、視覚・聴覚障害者が街を歩く様子や歩行訓練の風景が映され、髙橋は自らの身体を介入させて、彼らの知覚世界の疑似的なトレースを試みる。それは、障害者の歩行という近似値を通じて、快適な都市空間がスムーズな移動を妨げるものに変貌した被災経験へ接近しようとする試みだと理解できる。


会場風景 撮影:表恒匡

一方、写真作品は、キャスター付きの台車の上に貼られて床置きされ、つまづいて蹴飛ばすとコロコロと転がり出しそうだ。鑑賞者の歩みを阻むように置かれたそれらをのぞき込むと、一枚の写真やチラシを地面の上に置いて入れ子状に撮影したものだとわかる。これらは、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」が一般の人々から提供を受けて所蔵する被災資料(の複写)を、2016年現在の神戸や阪神間の路上に置いて撮影したものだ。例えば、《神戸市の路上─電線点検作業》では、電線に上る点検作業員を写した写真が、ひびの入ったアスファルトの上に置かれることで地面の亀裂と視覚的につながって見え、復旧された電線と「地震」の記号的な置換が意味の衝突を引き起こす。《神戸市の路上─積雪》では、地面を覆う雪の「白」が、現在の路上の白いペンキ跡とつながり、関連のない事象どうしが写真の中で等号で結ばれてしまう。また、求人広告や迷子犬の貼り紙などを、おそらくかつて貼られていた場所に置いて撮影したと思われる写真もある。ここでは、形態や色彩を読み替えの因子として元の写真の意味づけや文脈がズラされ、あるいは「かつてあった」場所に再配置されることで、過去が現在へと唐突にも「接ぎ木」されているのだ。
だがそれは、遊戯的で恣意的な次元に留まるものではない。「時間の接ぎ木」の提示は、「過去のある光景を写した写真」が「現在時において眺められる」という、常に遅れや時差を伴った写真の受容経験についての優れた批評である。またそれは、「将来、他人によってこのように眼差されるかもしれない」シミュレーションとして、「震災資料」の見方を「更新」することで、写真における解釈コードが無数に存在しうること、色彩や形態へと恣意的に還元されうる写真の二次元性、現実の場所・物理的コンテクストに根差しつつもそこから分離・切断される矛盾、といった写真がはらむ複数の性質を照射する、 写真についてのメタ的な考察でもある。
こうした髙橋の実践はまた、「震災資料のアーカイブ」をどう活用するか、という倫理的/創造的な問題も含む。通常は、美術作品(の素材)としては見なされない「震災資料」を美術館という場に持ち込むことで、単に「防災」「記憶の継承」といった観点を超えて、どのような創造的作用をもたらすのか。髙橋の試みが成功したのは、今回用いられた「資料」が、公的な記録ではなく、アマチュアの人々が撮影した写真という私的・個人的かつ匿名的なものであったことも大きい。もちろん、震災の経験や記憶それ自体は軽視できないが、元の文脈やキャプション(撮影者の意図、撮影場所、保管されていたアルバムなど)から引き剥がし、「震災資料のアーカイブ」というメタな文脈からも切断し、「震災の記録」として一元化する眼差しを解除して眺めたとき、写真は、その「意味」を決定できない揺らぎや綻びを取り戻し、新たな生を獲得して別の光を放ち始めるのである。


《神戸市の路上─電線点検作業》2016年|カラー写真
※引用資料:人と防災未来センター蔵

2016/11/19(土)(高嶋慈)

山村幸則 展覧会『太刀魚はじめました』

会期:2016/11/01~2016/11/20

GALLERY 5[兵庫県]

山村幸則は、突拍子もないアイデアを実行するアーティストだ。例えば、山育ちの神戸牛の仔牛に海を見せるべく、神戸港まで引き連れて再び山に帰っていく《神戸牛とwalk》、古着屋から1000着の古着を借りて新たな装いを提案する《Thirhand Clothing 2014 Spring》、黒松が茂る芦屋公園で松の木に扮装して体操を行なう《芦屋体操第一》《同 第二》など、地域の歴史や自然を自身の体験として作品にしてしまう。作品には彼自身とアートが融合しており、日常と表現行為が地続きになっているのだ。さて、今回山村がテーマにしたのは太刀魚。神戸港で太刀魚を釣り、その模様を映像で記録したほか、カフェで食材として利用してもらう、グッズをつくる、ワークショップを行なうといった作品が発表された。筆者は最終日前日のトークイベントに参加したが、そこでも太刀魚尽くしの料理がふるまわれた。彼の作品を見るたびに思うのは、「よくこんなことを思いついたな」「思いついても実際にやるか」ということ。だが、彼の真摯な姿勢と、そこから溢れ出るユーモアに感化され、いつも作品の虜になってしまうだ。

2016/11/19(土)(小吹隆文)

ハナヤ勘兵衛の時代デェ!!

会期:2016/11/19~2017/03/19

兵庫県立美術館[兵庫県]

兵庫県芦屋市を拠点に活躍し、戦前戦後の写真界に大きな足跡を残したハナヤ勘兵衛(1903~1991)。本展では、代表作を中心に、芦屋カメラクラブで彼と一緒に活動した紅谷吉之助、高麗清治、松原重三らの作品も合わせた約120点を展覧。その足跡と時代を振り返っている。ハナヤ勘兵衛といえば新興写真やモンタージュの印象が強いが、戦中戦後の作品には都市の人々を生々しく捉えたものが多く、紀州をテーマにした晩年の作品も含め、作風の多様性がよく分かった。また、ビンテージ・プリントが数多く含まれていること、彼が開発した小型カメラ「コーナン16」(のちに「ミノルタ16」としてヒットした)が展示されているのも貴重だった。本展は小企画展ゆえ目立たないが、内容が非常に良いので多くの人に見てほしい。また同時開催の「彫刻大集合」も、近代から現代までの彫刻約50点が並んでおり、見応えがあった。

2016/11/19(土)(小吹隆文)

A-chan「Salt’n Vinegar」

会期:2016/11/18~2016/12/04

POST[東京都]

日本で生まれ育ったA-chanがニューヨークに渡ったのは2007年だから、もう10年近くが過ぎた。そのあいだにロバート・フランクのアシスタント兼プリンター/エディターを務めるようになり、Steidl社から写真集『VIBRANT HOME』(2012)、『OFF BEAT』(同)を刊行した。今回は、やはりSteidl社から出た新作写真集『Salt’n Vinegar』にあわせての展示で、じわじわと胸の奥に浸透してくるような写真群が並んでいた。彼女のニューヨークでの充実した日々の様子が伝わってくる。
写っているのは、主に「大きな公園」の近くに住んでいるという彼女の周辺の光景である。ベンチに置き忘れられた「Salt’n Vinegar」の表示のあるポテトチップの袋、浮遊しているようなストローハット、公園の水たまり、蛇口から流れ出る水など。モノクロームとカラーが併用されているが、その移行は滑らかで澱みがない。写真を見ているうちに、彼女が鋭敏に反応しているのがtinyなものであることに気づいた。単に見かけが小さいとか、可愛らしいというだけではなく、儚さや脆さを含み込みながら、凛とした存在感を発するtinyな事物を、積極的にコレクションしているように思えてきたのだ。
写真集には日本で撮影されたものも含まれているようだが、「アメリカ在住の日本人」という、不安定だが開放感もあるポジションをうまく活かしていくことで、さらに自分の世界を深めていけるのではないだろうか。日本でも、もう少し彼女の存在が知られてくるといいと思う。小規模だが、そのきっかけになりそうないい展示だった。

2016/11/19(飯沢耕太郎)

石川竜一写真集『okinawan portraits 2012-2016』

発行所:赤々舎

発行日:2016/09/02


石川竜一は、2015年に前作の『okinawan portraits 2010-2012』(赤々舎)で第40回木村伊兵衛写真賞を受賞した。本作はのその続編にあたる写真集である。
一癖も二癖もあるウチナンチュー(沖縄人)と正面から対峙し、裂帛の気合いを込めて撮影するポートレートが中心であることには変わりはない。だが、被写体の背景となる沖縄の風景を丸ごと捉えた写真の数が増えているのが目につく。石川のなかで、人物たちを取り巻く環境をしっかりと捉えることで、この地域に特有の風土性を浮かび上がらせようという意図が強まっているのは間違いないだろう。写真集のボリューム自体も厚みを増している。前作とあわせて見直すと、まさに石川の「okinawan portraits」のスタイルが完全に確立したことがわかる。
このシリーズは、おそらく彼のライフワークとして続いていくのだろうが、石川にはむしろ沖縄をベースにした写真だけでなく、撮影の領域をさらに広げていくことを期待したい。被写体とのコミュニケーションをとりやすい沖縄で、ある水準以上のスナップやポートレートを撮影することは、彼の抜群の写真家としての身体能力を活かせば、それほどむずかしくはないと思えるからだ。むしろ、よりコンセプチュアルな方向に狙いを定めた作品、あるいは沖縄以外の場所に長期滞在して撮影した写真も見てみたい。異なった環境に身を置くことで、逆に沖縄という場所の特異性が、さらにくっきりと浮かび上がってくるはずだ。

2016/11/17(飯沢耕太郎)