artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

須藤絢乃写真展 てりはのいばら

会期:2016/11/09~2016/12/10

芦屋市谷崎潤一郎記念館[兵庫県]

少女漫画の登場人物を思わせるユニセックスな人物像や、プリクラやデコ文化に見られる変身願望を反映した写真作品で知られ、2014年には16人の行方不明の少女に扮した作品《幻影》で、キヤノン写真新世紀のグランプリを受賞した須藤絢乃。芦屋市谷崎潤一郎記念館で2度目の個展となる本展では、谷崎潤一郎の代表作『細雪』の4姉妹に自らが扮した作品6点を発表した。作品には、同館所蔵の谷崎の遺品や、かつて谷崎が住んでいた邸宅、船場育ちの須藤の祖母が大切にしてきた着物や小物も見られ、彼女が『細雪』を通して感じた阪神間モダニズムの時代と近代女性像が窺えた。作品はカラー写真だが、往年の総天然色映画あるいは初期のカラー写真の色調が採用され、時代を超越したマジカルな雰囲気に。和風のしっとりした世界観でも独自の作風が貫かれており、成長がしっかりと感じ取れた。なお、同館では今後も継続して須藤の個展をなう予定。次回の個展がいまから楽しみだ。

2016/12/10(土)(小吹隆文)

正岡絵理子「羽撃く間にも渇く水」

会期:2016/12/07~2016/12/18

TOKYO INSTITUTE OF PHOTOGRAPHY 72 Gallery[東京都]

毎年夏に東川町国際写真フェスティバルの行事の一環として開催されている「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」も、2016年度で5回目を迎えた。今回のグランプリ受賞者は、現在奈良県在住の正岡絵理子。その受賞記念展として本展が開催された。
受賞作の「羽撃く間にも渇く水」は、正岡がビジュアルアーツ専門学校・大阪在学中から10年余り撮り続けてきた息の長い連作である。彼女の身辺を撮影したモノクロームの日常スナップだが、一枚一枚の写真の強度、緊張感がただ事ではない。一言でいえば、アニミズム的な世界観というべきだろうか。ヒトも、動物も、モノも、自然も、人工物も、彼女の目に写るすべてのものが生命体として生気を発し、分裂・生成を繰り返している。つかの間の一瞬を捉えた写真の集積にもかかわらず、そこには「46億年続く歴史の中で水溜りの中の一滴のような私たち」を見通す視点がある。そのスケールの大きな作品世界は、だが、さらに飛躍していく時期に来ているのかもしれない。
「赤レンガ公開ポートフォリオオーディション」の時点では、100点以上あった「羽撃く間にも渇く水」のシリーズは、70点ほどに整理され、今回の展覧会にはそのうち16点が展示されていた。止めどなく溢れ出そうとする写真たちを、塞き止め、明確な形にしていこうという意志が芽生えつつある。それだけでなく、デジタルカメラを使った新作も撮り始めているという。結婚し、子供が生まれ、奈良に移住するという人生の変わり目を迎えて、彼女の写真がどんなふうに変わっていくのかが楽しみだ。

2016/12/09(金)(飯沢耕太郎)

潮田登久子『みすず書房旧社屋』

発行:幻戯書房

発行日:2016/11/11

ユニークなドキュメンタリー写真+エッセイ集である。潮田登久子は1995年から「本と本の置かれている環境」をテーマにした写真を撮影しはじめた。本書に収められた「みすず書房旧社屋」の写真もその一環として撮られたもので、1948年に、芦原義信の設計で東京都文京区春木町1丁目(現・本郷3丁目)に建造された木造の社屋が、1996年8月に老朽化によって解体されるまでを追い続けている。
この旧社屋には、僕も一度だけ足を運んだことがある。およそ、みすず書房という日本有数の学術出版社のイメージにはそぐわない、下町のしもた屋という雰囲気の建物だった。それでも、潮田が撮影した写真を見ると、雑多に積み上げられた本の束、増殖する紙類、磨き込まれたテーブル、下宿屋のような流し、英字新聞が床に敷かれたトイレなど、いかにも「本をつくる」のにふさわしい、居心地のよさそうな環境であることがわかる。潮田は建物の外観や内装を丁寧に押えるだけでなく、その居住者たち、つまり編集部員や営業部員たちも撮影している。彼らのたたずまいも環境にしっくり融けあっている。夕方になると、近所の酒屋から缶ビールやおつまみを買ってきて、小宴がはじまるのだが、そんな和やかな談笑のなかから、いい企画が生まれてきたのだろう。いまや失われつつある、文化の匂いのする出版社が支えていたひとつの時代を、写真が見事に掬いとっていた。
本の装丁・デザインは潮田の夫でもある写真家の島尾伸三。当時みすず書房の編集部に在籍していた加藤敬事、横大路俊久、守田省吾、建築家の鈴木了二、写真家の鬼海弘雄と島尾伸三がエッセイを寄稿している。なお、版元の幻戯書房からは「本の景色/BIBLIOTHECAシリーズ」として、同じく潮田の写真で『先生のアトリエ』、『本の景色』が刊行される予定である。続編も楽しみだ。

2016/12/05(月)(飯沢耕太郎)

鷹野隆大「距離と時間」

会期:2016/11/26~2017/01/09

NADiff Gallery[東京都]

この欄でも何度か紹介したことがあるのだが、1970~80年代にかけて、若い世代の写真家たちが「コンセプチュアル・フォト」と称される写真をさかんに発表していた。写真機を固定して定点観測を試みたり、位置を少しずらしてフレームの外の空間を取り入れたり、ピントの合う範囲を意図的にコントロールしたりする彼らの作品は、写真を通じて「写真とは何か?」を探求しようとする意欲的な試みだった。
鷹野隆大のNADiff Galleryでの展示は、まさにその「コンセプチュアル・フォト」の再来といえる。毎日、自分の顔や東京タワーを撮り(定点観測的に)、それらを並べる。意図的にピントをずらして、逆光気味の写真を撮る。印画紙を引き裂いて、テーブルの上にコラージュ的に配置する。これらの試みは、手法的にも、発想においても、かつての「コンセプチュアル・フォト」の写真家たちの仕事を思い起こさせるからだ。もともと、鷹野の作品のなかには「写真とは何か?」をつねに問い直そうとする傾向があった。それが加速してくるのは、2010年に同世代の鈴木理策、松江泰治、清水穣、倉石信乃と「写真分離派」の活動を立ち上げてからだろう。この季節はずれの探求の試みは、いまは逆にやや古風にさえ見える。だが、粘り強く続けられていくことで、さらに豊かな成果を生むのではないかという予感がする。
なお、Yumiko Chiba Associates viewing room shinjukuでは、同時期に「光の欠落が地面に届くとき 距離が奪われ距離が生まれる」展(11月26日~12月24日)が開催された。こちらも「コンセプチュアル・フォト」のヴァリエーションであり、地面に落ちる「影」に狙いを定めて、「距離と時間」の問題を別な角度から考察しようとしている。

2016/12/04(日)(飯沢耕太郎)

生誕80周年 澤田教一 故郷と戦場

会期:2016/10/08~2016/12/11

青森県立美術館[青森県]

澤田教一が撮影した《安全への逃避》(1965)、《泥まみれの死》(1966)といった写真は、ピュリッツァー賞、世界報道写真コンテストなどの賞を相次いで受賞し、ベトナム戦争の過酷な現実を伝える象徴的なイメージとして、さまざまな媒体で取り上げられてきた。だが代表作のみが一人歩きするにつれて、逆に一人の写真家としての澤田の実像は見えにくくなってくる。今回、開館10周年の記念展として青森県立美術館で開催された「澤田教一 故郷と戦場」展では、美術館に寄託された2万5千点近い写真と資料とを精査することで、彼の全体像がようやくくっきりと浮かび上がってきた。
まず注目すべきなのは、彼がベトナムに赴く前の青森・東京時代の写真群である。澤田は1955年から三沢の米軍基地内のカメラ店で働き、のちに結婚する同僚の田沢サタの影響もあって、プロカメラマンをめざすようになる。その時期に撮影された、珍しいカラー画像を含む写真を見ると、被写体の把握の仕方、画面構成の基本を、すでにしっかりと身につけていることがわかる。被写体に向けられた視線の強さ、的確な構図など、後年のベトナム時代の写真と遜色がない。日本でレベルの高い仕事をこなしていたからこそ、ベトナムでもすぐに第一線で活動することができたのだろう。
もうひとつ、今回の展示で印象深かったのは、被写体への「感情移入」の強さである。ベトナムで撮影された写真のなかに、一人の人物を執拗に追いかけ、連続的にシャッターを切っているものがいくつかある。例えば1966年頃に撮影された、連行される黒シャツの解放戦線兵士を捉えた一連のカット、68年の「テト攻勢」下のフエで、負傷した男の子を抱えて何事かを訴える母親の写真などだ。これらの写真を見ると、澤田が明らかに苦難に耐えている人々や、無名の兵士たちに、強く感情を揺さぶられているのがわかる。それはたんなる憐れみや同情ではなく、人間同士の本能的な共感というべきものだ。
比類ない写真家としての身体能力の高さと、むしろパセティックにさえ見える「感情移入」の強さ、この2つが結びつくときに、あの見る者の心を動かす写真群が生み出されてきたのだろう。澤田の写真の知られざる側面を丁寧に開示する、意欲的な回顧展だった。

2016/12/01(木)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00036770.json s 10130863