artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

8日間のアートフェア vol.2

会期:2016/06/11~2016/06/19

高架下スタジオ・サイトAギャラリー[神奈川県]

黄金町のレジデンスに滞在中のアーティスト15人によるアートフェア。大半が女性で、作品は絵画、写真、彫刻と多彩。BankARTのオープンスタジオにも出ていた岩竹理恵の樹木の写真がいい。背景を白く飛ばして木を1本だけ浮き上がらせている。セピア色のモノクロ写真で、ちょっとカール・ブロスフェルトを思い出させるなあ。木漏れ日のような淡い光を捉えた井上絢子の絵もそそられる。背景が黒い夜の木漏れ日(木漏れ月?)もあって惹かれるのだが、なにか足りない気もする。画面に引っかかりというか抵抗感がなく、視線が上滑りしてしまうのだ。結局なにもカワズにカエル。

2016/06/14(火)(村田真)

生きるアート 折元立身

会期:2016/04/29~2016/07/03

川崎市市民ミュージアム[神奈川県]

アーティストはだれしも自分の「生」とアートの一体化を夢見るが、「生」のほうは本人もコントロールできない偶然性に支配されるため、いつ、どこで、どんなふうにアートと合体するかわからない。折元の場合1990年代なかばに父が亡くなり、アルツ気味の母の世話をしなければならなくなったことから、なかば強引に生活とアートが合体した。せざるをえなくなった。それが「アート・ママ」シリーズだ。母の幼少期の苦い思い出を元に、巨大なハリボテの靴をはかせて写真に収めた《スモール・ママ+ビッグシューズ》、ベートーヴェンの「運命」に合わせて母の髪の毛を逆立てたりする映像《ベートーベン・ママ 川崎》など、母をモチーフにした連作を発表。いけない言い方だが、母がアルツを背負ってアートに闖入してきた感じ。折元にとっては新たなモチーフの発見であると同時に、母の再発見でもあったのではないか。さらに、介護の合間に抜け出して飲み屋で息抜きする1時間に、メモ用紙の裏に描いた500点ものドローイング《ガイコツ》や、海外で500人もの老婆を集めて食事をふるまうパフォーマンス《500人のおばあさんの昼食》など、「アート・ママ」から派生した作品もある。特にガイコツのシリーズは圧巻、ドローイングに感動するのは久しぶりだ。第2会場では、フランスパンを顔につけて街を練り歩く「パン人間」シリーズをはじめ、70-90年代の作品を中心に紹介しているが、どこか浮いているというか、「アート・ママ」ほどの説得力が感じられないのは、生とアートが一致していないからだろうか。逆にだから尾を引くような重苦しさがなく、安心して笑って見てられる面もある。いやあ見てよかった。

2016/06/12(日)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00034878.json s 10125394

恩地孝四郎展 抒情とモダン

会期:2016/04/29~2016/06/12

和歌山県立近代美術館[和歌山県]

近代日本版画の第一人者である恩地孝四郎(1891~1955)の大回顧展。版画を中心に、油彩、素描、写真、書籍デザインなど約400点で構成されており、回顧展としては20年ぶり、これだけの内容は今後不可能ではないかと思わせる充実ぶりだった。本展で最も注目すべきは、戦後にGHQ関係者のウィリアム・ハートネットやオリヴァー・スタットラーが収集し米国に持ち帰ったコレクションが多数出品されていることであろう。しかし、筆者自身は「音楽作品による抒情」と題したシリーズが好きなので、どうしてもそちらに目がいってしまった。また本展では恩地の書籍デザインが多数出品されていたが、その斬新なグラフィックセンスには目を見張らざるを得ない。特に1930年代の仕事は先進的で、現代のデザインと比較しても劣るどころかむしろ魅力的であった。

2016/06/12(日)(小吹隆文)

artscapeレビュー /relation/e_00034806.json s 10124685

ヨシダミナコ「普通の日々」

会期:2016/06/01~2016/06/12

galleryMain[京都府]

2名の写真家がギャラリー空間を分割共有し、共通のテーマの下でダブル個展を行なう連続企画展。第一弾では、「私性」をテーマに、ヨシダミナコとキリコの個展がそれぞれ開催された。
ヨシダミナコの個展「普通の日々」は、制作に打ち込む画家の夫との生活の中で、焦燥感を抱えながらも自身の制作活動を止めていた写真家が、約9年振りに発表した個展。「彼」との9年間の生活で、身の回りの情景を日常的に撮りためたスナップが、2種類の展示形態で発表されている。ギャラリーの壁には、セレクトされた数十枚のプリントが、モチーフの色彩や形態がリズミカルな連鎖を生み出すように再配置され、現実の時系列とは別の、視覚的なシークエンスを心地よく生み出している。例えば、ジャガイモの表面の淡い黄色は、絵本を写した隣の写真の黄色やオレンジ色と響き合い、その黄やオレンジで描かれた丘陵の波形は、さらに隣に置かれた、揺らぐカーテンの波形と呼応する。穏やかで軽やかな視覚の波に身をゆだねる心地よさが、ここにはある。
一方、9年間分の全ての写真は、時系列順に一枚ずつファイリングされ、分厚い日めくりカレンダーをめくるように、手でめくって見ることができる。合計1260枚にのぼる、物質的厚みに置換された時間の束。「彼」と暮らす日々について綴った写真家のステートメントは、ある意味ラブレターのようだが、奇妙なことに(あるいは期待に反して)、写真には「彼」の姿はほとんど写り込まず、「彼」との関係の変化や感情の揺らぎといった私的な物語は画面から排除されている。むしろ、膨大な写真の束から見えてくるのは、写真家の眼差しの変質である。毎日の食卓や草花、手書きの手紙、「彼」のアトリエの一隅など、息苦しいほど室内の事物に向けられていた眼差しが、後半、アイスランド滞在を契機として積極的に「外」へと向かい、空間的な広がりを獲得していくのだ。そして、それらの合間あいまに差し挟まれる「お誕生日ケーキ」の写真が、律儀な年輪のように、新しい年の開始を告げていく。その撮影行為は、「誕生日」を共に祝ってくれる人が、今年も傍にいることを確認する儀式のようでもある。「長い間、わたしは真っ暗なトンネルの中にいた」と綴るヨシダが獲得した新たな視線が、この先どこに向かうかが楽しみだ。

2016/06/11(土)(高嶋慈)

キリコ「2回目の愛」

会期:2016/06/01~2016/06/12

galleryMain[京都府]

写真家のキリコはこれまで、会社を辞めてニートになった元夫との関係を綴った《旦那 is ニート》や、かつて売れっ子の舞妓だった祖母の思い出の写真の再構成/現在の日常生活のスナップなどによって、家族という親密な関係性のただ中に身を置きながら、写真という装置の介在によって距離を測るような試みを発表してきた。「私性」をテーマにした、ヨシダミナコとのダブル個展では、「2回目の愛」というタイトルの下、自身と祖母との関係に再び向き合っている。
キリコによれば、88歳になった祖母は、食事、着替え、排泄などの世話をキリコの母親(祖母にとっては娘)に依存しないと生きられない状態になっており、娘を「おかあさん」と呼ぶようになった。逆転した母娘関係。そこに、孫である自分が入り込めない拒絶感を感じるとともに、「肉親であるから故に、愛も憎しみも表裏一体となるなか「愛」という言葉で片付けられる程簡単なものではないことは重々承知しているが、2回目の関係にも 1 回目の時と同様に、母娘の「愛」があればと願ってしまう」(個展ステートメントより)。
わが子へ愛情を向けるように、祖母の食事や移動の介助をする母親。無防備な祖母の姿。しかしその親密な光景は、キリコ自身がその場にいてカメラで撮影したものではなく、「介護用モニター」の画面を静止画として再撮影したものだ。撮影行為の二重の介在。その二重化された隔たりは、「そこに入れない」「疎外されている」というキリコ自身の意識をむしろ如実に映し出す。また、「静止画」として切り取ることで、2人の間で交わされた会話内容や声のトーンなど、聴覚的なディティールが抜け落ちていることも、疎外感を増幅させる。黒い箱状のフレームに静止画を収め、連続したシークエンスとして繋げて見せる展示方法は、時間の流れを可視化するとともに、フレーム=枠の存在を強調し、閉じ込める檻のようにも見えてくる。
解像度の粗さ、画面に写る電波の受信サインや温度の表示は、これが「介護用の監視モニター」の画面であることを告げ、その間接性は他人のプライベートに向き合う生々しさを緩和するとともに、「カメラの機械の眼」が本質的に持つ非人称的な暴力性を露わにする。撮影主体としての人間を介さない非人称的なカメラの眼に、最も親密な関係性が映り込んでしまうということ。その無慈悲なまでの残酷さの露呈こそが、 「他人のプライベートを覗いてしまった」という後ろめたさよりも、私たちをいっそう居心地悪くさせる。
通常のドキュメンタリー写真の場合、写真家の身体は、「その場にいないもの」として予め消去され、透明な媒体として、いかに「自然なあるがまま」の被写体の姿を捉え、本質に肉薄するかが賭けられている。一方、キリコの本作においては、「写真家」である以前に、一人の個人としてその場にいることが初めから拒絶されている。キリコは、自らが撮影主体となることを手放しながら、カメラの機械の眼の暴力性やそれとの(擬似的な)同化という欺瞞に向き合っている。
逆転した母娘関係が育む「2回目の愛」は、葛藤の果てに同様の境地に至った佐野洋子の小説『シズコさん』からの引用によっても補強されている。実際に、そうした美しい瞬間は訪れたのだろう。だが、それを「母性愛」という側面から強調することは、別の問題をはらんでいる。介護を「自然な母性」として女性の労働として押し付ける圧力が浮上するからだ。
介護という問題と、(特に家庭内で行なわれる場合の)密室性、逆転した親子関係。それは親密で美しいものであると同時に、「母性愛」という言葉で語られるとき、介護労働を女性に負担させる構造の危うさが透けて見える。さらに、写真(静止画)と映像(動画)、個人の生の生々しさ/モニターを介して見るという間接性、親密な関係性と非人称的なカメラの暴力性など、重層的な問題をはらんだ展示だった。


会場風景 撮影:キリコ

2016/06/11(土)(高嶋慈)