artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて

会期:2016/04/05~2016/05/22

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

ジャック=アンリ・ラルティーグ(1894-1986)の写真をどう見たら良いのか、よく分からないでいる。家族や友人、身近な人々、出来事を写した写真の数々は、とても良いと思う。富裕な家庭に生まれ、写真機という新しい高価な機械を買ってもらった少年が、身近なものに目を向け、また動きのある被写体から瞬間を切り取ることに夢中になったであろうことも理解できる。しかし、対外的に発表するつもりで撮られたのではない写真、極めて私的なアルバムをどのように見れば良いのか、そこに何を見出せば良いのか、迷うのである。他の写真家であれば、たとえ私的な写真であっても、そこに同時代の社会、事件などの証言を見ることができるものが多いのだが(あるいはそういう視点を含めて紹介されることが多いのだが)、ラルティーグの写真にはそのような時代、社会の記録をほとんど見ることができない(あるいはそういう視点では紹介されない)。二度の大戦を経ているはずなのに、彼はそのような世事に関心を持っていなかったように見えるし、また彼の写真を見る人々もそのようなドキュメンタリーを求めていない。いったい、1962年に米国で「発見」され、翌1963年に69歳で「デビュー」した「新人写真家」の作品に人々は何を見てきたのだろうか。
今回の展覧会の後半では、カラー作品40点が展示されている。筆者はラルティーグのカラー写真は初見。実際、そのほとんどが日本では初公開だ。解説によればラルティーグが残した写真の3分の1がカラーだが、これまでほとんど紹介されてこなかったという。撮影年代を見ると、1920年代に撮影されたオートクローム作品を除くと、リバーサルフィルムで撮影されたカラー写真はいずれも1950年代以降。改めて本展の作品リストを見てみると、出品されているモノクローム作品の撮影年代は1920年代までに偏っている。第二次世界大戦後の写真はわずかで、それもピカソや、ラルティーグの作品集出版に尽力した写真家リチャード・アヴェドンのスナップだ。ということは、カラー写真が紹介されてこなかったというよりも、ラルティーグの戦後の写真全体がほとんど紹介されてこなかった(あるいは関心を持たれてこなかった)ということなのだろう。海外で刊行された作品集をいくつか見てみたが、掲載されている作品には同様の年代の偏りがある。代表作とされ、これまでの展覧会でもとりわけよく取り上げられてきたのは、ベル・エポック期の写真だ。このようなバイアスの存在を考慮しつつ最初の疑問に立ち返れば、写真家ジャック=アンリ・ラルティーグを「発見」した人々、そして私たちは、写真に写すことで永遠のものとなったラルティーグの幸せな少年時代、古き良き時代という幻想を自分自身に重ね合わせて見ているということになろうか。[新川徳彦]

2016/05/19(木)(SYNK)

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金サジ「STORY」

会期:2016/05/03~2016/05/15

アートスペース虹[京都府]

昨年の個展に続く、「物語」シリーズの写真展。緻密に構成された鮮烈なイメージで綴られる、「架空の創世の神話」の新たなページが、一枚、また一枚と繰り広げられた。生/死、人間/動物、動物/植物、人間/神、男性/女性といった境界が混ざり合う中に、東アジアの各地域の神話や民話、祭礼、美しい衣装、象徴的な事物が混淆的に混じり合い、作家自身の見た夢や空想が織り交ぜられて、多層的なイメージへと結晶化する。
クマの頭部と美しいチマチョゴリを着た少女の身体が融合した像は、作家の直感的なイメージに基づくというが、実際に朝鮮半島の建国神話には、熊が人間の女性に変身して古代の王を産んだという伝説が存在する。人間と動物の融合は、ベールをかぶり、豚の鼻をもつ女性像へと受け継がれる。暗闇に浮かぶ月に根を張った巨大な五葉松は、宇宙樹のようにそびえ立つが、枝の先端は白く枯死し、骨を思わせる。神聖な動物として神格化される鹿の体からは、色とりどりの花が生い茂り、自然の神秘的な力の具現化や、生命をことほぐかのようだが、ひときわ鮮やかなピンクの花をつけたハナズオウの木は、ユダが首を吊った木として不吉な意味も持つ。さまざまな読み解きを誘うこれらのイメージは、黒い背景から浮かび上がるように照明を当てられ、西洋古典絵画の肖像画や宗教画を思わせる荘厳さを帯びている。あるいは、正面性が強く様式化されたポートレイトは、「架空の共同体の祭礼を記録した民族誌の記録写真」を思わせる。
今回の「物語」シリーズの展開では、さまざまな境界や複数の文化の有機的な融合、単一の起源を喪失した汎東洋的な神話世界、実在の神話や民話と個人的なフィクションの混淆、「死」「生」「女性」を連想させる象徴性の高いモチーフ、西洋古典絵画への参照といった特徴に加えて、「女性と生殖」というキーワードが浮上している。《子宮への出入口》と題された一枚では、鳥の巣の中に女性の黒髪が敷き詰められ、無数の露の玉が極小の卵のように輝き、巣の真ん中には子宮へと続く割れ目が口を開けている。また、《巫女(火を用い作成した刃で隔てる)》では、赤い衣装をまとった巫女が、冷えて固まった溶岩と繋がった、へその緒のような白く長い紐を持つ。手にした刃で、母体=溶岩=循環する生命エネルギーの根源との繋がりを断ち切り、新たな命をこの世に送り出す役割を司っているのだろうか。骨盤の白い骨を冠のように頭上にのせた巫女は、しかしよく見ると、男性的な顔立ちをしており、濃い化粧の下の性別は分からない。金サジの作品世界では、「巫女」とは必ずしも女性ではなく、男女の性別を含め、あらゆるものに超越的な存在であるのかもしれない。
「巫女(ムーダン:巫堂)」はまた、架空の存在ではなく、現在も人々の心の拠り所として存在し、金自身の祖母もかつて巫女業に従事していたことがあったという。現在も巫女を生業とする人々や、かつて従事していた祖母の話を聞く過程を経て制作される作品は、作家の内的なイマジネーションの中に、オーラル・ヒストリーの要素を含んでもいる。それは祖母や母から娘へ、といった個人の記憶の家族史であるとともに、国家、民族、近代、戦争、アイデンティティに関わるディアスポラの歴史でもあり、占いやお祓い、医療やセラピー、歌や踊りといった芸能など、複数の職能を持っていた巫女の歴史とも繋がっている。そうした、複数の水脈との繋がりから「物語」シリーズの作品を捉えることは、表面的なイメージの鑑賞を超えて、より豊かな受容経験を開くだろう。

2016/05/15(日)(高嶋慈)

ルーベン・サルガド・エスクデロ写真展 SOLAR PORTRAITS

会期:2016/05/07~2016/06/26

Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]

スペイン出身で、10代をアメリカで過ごし、ベルリンでビデオゲーム会社の3Dゲーム開発に携わった後、仕事を辞めてドキュメンタリー写真家になったルーベン・サルガド・エスクデロ。彼は東南アジアやアフリカの発展途上国に赴き、ソーラーパネルで電力供給を行なうプロジェクトに携わっている。本展の作品は、人々が電力の恩恵にあずかった瞬間を撮影したものだ。といっても作品はスナップ写真ではない。計算された構図と配置による肖像あるいは群像写真であり、電力がもたらした照明のハイライトもあって、崇高かつドラマチックな仕上がりになっている。このプロジェクトは『ナショナルジオグラフィック』誌で取り上げられたほか、2015年の「ソニー・ワールド・フォトグラフィ・アワード」でもポートレイト賞を受賞しているとのこと。今回の個展がなければ、私は彼の存在を知ることはなかっただろう。機会を与えてくれた画廊に感謝するとともに、美術館やアートセンターでも彼の個展が行なえないものかとも思った。

2016/05/15(日)(小吹隆文)

福山えみ「岸を見ていた」

会期:2016/05/11~2016/06/18

POETIC SCAPE[東京都]

福山えみの同会場での個展は、2012年以来4年ぶりになる。前回は、旧作のヨーロッパのシリーズを出していたのだが、今回は新作の展示だった。といっても、作品の成り立ち、画面の構成の仕方にそれほどの大きな違いはない。
6×7判のカメラで折りに触れてシャッターを切る。被写体の幅はかなり広いが、特徴的なのは画面の手前にフェンスや建物の一部、植え込みなどがぼんやり写っていて、それら越しに奥を見渡すような写真が多いこと。撮り手がどこにいるのかというポジショニングが、手前の写り込みによって強調され、何かに視線を向けているという出来事の意味(といってもごく日長的なものだが)が強調される。もうひとつは、歩行中、あるいは移動中の車や電車から撮ったと思しき写真がけっこう多くあることで、一所に留まることなく通過していく視点のあり方が目についてくる。11×14インチサイズに引き伸されたモノクローム・プリントを含めて、その視覚形成と画像定着のシステムは、ほぼ固定されてはいるが、そのなかで独自の進化を遂げ、洗練の度を増してきている。
そのこと自体に問題はないのだが、このまま続けていけばいいのかといえば、やや疑問が残る。ひとつのシステムに依拠して作品をつくり続けるのは諸刃の剣で、せっかくの写真家としての優れた資質を、充分に発揮しきれていないもどかしさも感じる。昨年体調を崩して、しばらく写真が撮れなかったとそうだが、従来の写真制作のシステムをもう一度見直して、新たなチャレンジをするいいチャンスではないだろうか。スナップショットの偶発性の呪縛から、いったん自由になるのもいいと思う。なお、展覧会にあわせて、同名の写真集(自費出版)が刊行されている。

2016/05/14(土)(飯沢耕太郎)

Sarah Moon 12345展

会期:2016/04/21~2016/06/26

何必館・京都現代美術館

マット・ペーパーにセピアを組み合わせた幻想的な写真で知られる写真家、サラ・ムーンの展覧会が、同名の写真集の日本語版出版を記念して開催された。写真集『Sarah Moon 12345』は、モノクロ写真の3冊、出版当時の新作カラー写真の1冊、そして彼女の初監督映画作品『Mississippi One』(1991)の写真とDVDを収めた1冊からなる5冊組。フランスで出版されたもっとも優れた写真集に贈られるナダール賞を2008年に受賞した写真集である。会場の何必館・京都現代美術館は、2002年には写真集『Sarah Moon』の出版を記念して「過ぎゆく時 サラ・ムーン」展を、2004年にも写真集『CIRCUS』の出版を記念して同名の展覧会を行なった、特にサラ・ムーンと縁がある美術館。今回の展覧会には、同館のコレクションから厳選した作品が出品された。
サラ・ムーンといえばファッション写真家の印象を持つ人も少なくないだろう。彼女は10代の頃からモデルとして活動し、モデル仲間を撮影することから写真を撮りはじめ、29歳で写真家に転身したという経歴の持ち主。1980年代にはシャネルやラクロワ、ミヤケイッセイのファッションを撮影した彼女の写真が『Italian Vogue』誌や『Elle France』誌の紙面を飾り、キャシャレルの宣伝映像やコム・デ・ギャルソンのキャンペーン写真にも採用された。その後、ファッションの世界からギャラリーや映画館に活躍の場を移してきた。
今回の展覧会のテーマは、古いものと新しいもの、ファッションとランドスケープなど、相反するものの関係性だという。幾重にもぶれた輪郭、写真上に焼き付けられたフィルムのフレーム、浅い奥行き、ノスタルジックなモノクローム、または赤と緑が印象的な滲んだような色彩、彼女の写真の特徴はどの写真でも変わらず一貫している。古いものも新しいものも、ファッションもランドスケープも、どの写真を見ても画面には実在感がなくまるで物語の世界の視覚のように非現実的に見える。そういえば、写真集『CIRCUS』は童話「マッチ売りの少女」を写真と文章で綴った作品だったし、写真集『オーデルヴィルの人魚姫』(2007)は童話「リトル・マーメード」をもとにしていた。本展にも童話「赤ずきんちゃん」から発想をえた「黒ずきん」シリーズの写真と映像が出品されているが、可憐な少女に男の影が迫るというわりと現実味のある設定が画面の幻想的な雰囲気を不安と恐怖に変えている。一見幸せな夢の世界を描いているかのような童話も、実はとても残酷で猟奇的だったり悲惨だったりすることもある。サラ・ムーンの写真もまた、そうした二つの世界を映した、静かで深い鏡のようであった。[平光睦子]

2016/05/14(土)(SYNK)

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