artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
野口健吾「Your Life Is Not Your Own」展
会期:2016/04/23~2016/05/15
高架下スタジオ・サイトAギャラリー[神奈川県]
インドとネパールを旅して撮りためた写真と映像の展示。作品は大きく分けて、いま再開発中のネパールのルンビニ(釈迦の生誕地)に取材した映像、さまざまな人が瞑想する姿を長時間露光で捉えたスライドショー、チベット亡命政府のあるダラムサラの人々の画像を20台以上のディスプレイで見せるビデオインスタレーションの3種。いちばん興味深いのは人々が瞑想する写真で、瞑想中だからほとんど目を閉じて(たまに開けてる者もいる)表情もないため、まるで死人のように見える。でもカメラを固定して長時間露光で撮影してるから、どれもわずかにブレて写っている。このブレが彼らの生きてる証ということだ。どうでもいいけど、入口で香を焚くのはいささか陳腐ではないか。
2016/05/05(木)(村田真)
森村泰昌アナザーミュージアム(NAMURA ART MEETING '04-'34 Vol.05「臨界の芸術論Ⅱ─10年の趣意書」より)
会期:2016/04/02~04/04、05/03~05/05、06/10~06/12
名村造船所跡地[大阪府]
国立国際美術館の「森村泰昌:自画像の美術史─「私」と「わたし」が出会うとき」展と連動した本展では、森村の作品に使用された舞台セットや背景画、小道具などが展示され、映像作品《「私」と「わたし」が出会うとき─自画像のシンポシオン─》のメイキングシーンを収めたドキュメント映像も上映されている。日頃は立ち会うことができない制作現場を覗けるのは、美術ファンにとって大きな喜びだ。舞台セットや小道具を生で見ることにより、森村の作品が多くのスタッフを擁するプロジェクトであることが実感できた。また、美術史に侵入する森村の作品世界に、さらに自分が侵入することで、もともと複雑な構造を持つ作品世界にさらなるひと捻りが加わるのも面白かった。本展は4月から6月まで開催されているが、各月とも3日間しかオープンしない。筆者は4月に行きそびれて、1カ月待たされたが、出かけた甲斐があった。幸い会期がまだ残っているので(6月10日~12日)、国立国際美術館の森村展を見た人は、こちらも併せて鑑賞するようおすすめする。
2016/05/05(木)(小吹隆文)
ライアン・マッギンレー「BODY LOUD!」
会期:2016/04/16~2016/07/10
東京オペラシティアートギャラリー[東京都]
1977年、アメリカ・ニュージャージー州ラムジー生まれのライアン・マッギンレーは、2000年代に入ってから頭角をあらわし、2003年にはホイットニー美術館で個展を開催するなど、写真の新世代の旗手と見なされてきた。「ポスト・ティルマンス」の一番手ともいわれ続けてきたのだが、日本での最初の大規模点となる本展を見て、そのことには疑問符をつけざるを得ない。
マッギンレーの撮るあくまでもポジティブな若い男女のヌードは、たしかにアメリカのユース・カルチャーの本質的な部分を掬いとっている。「9.11」以後の社会の不安感、閉塞感に対して、若者たちのポジティブな生命力で対峙するというのは、たしかにひとつの戦略としては成り立つだろう。だが、それがいつまでたっても一本調子、同工異曲のイメージの繰り返しになっていて、ヴォルフガング・ティルマンスのように多層的なレイヤーとして現実世界を捉え返す視点に欠けているのは、あまりにも能天気としか言いようがない。
今回の展示の目玉は、壁一面に「ビニールステッカー」のプリント約500点を貼り巡らした巨大作品「YEARBOOK」(2014)だろう。だが、その圧倒的なスケール感にもかかわらず、そこに写っている男女の姿は、次第に区別がつかなくなり、均質化して見えてくる。まさにインスタグラム的な見え方の極致というべきで、その親しみやすさは、写真に向かってスマートフォンのシャッターをひっきりなしに切っていた観客たちに、大いにアピールするのではないだろうか。だが、おそらくこれらの写真は、会場を出れば、あっという間に忘れ去られてしまうだろう。スマホのデータもそのうち消去されてしまうのではないか。「それでいいのだ」という考え方もあるかもしれないが、「それでいいのか?」という疑問は残る。
2016/05/04(水)(飯沢耕太郎)
本橋成一「在り処(ありか)」
会期:2016/02/07~2016/07/05
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
本橋成一は1940年東京生まれだから、荒木経惟、篠山紀信、沢渡朔、土田ヒロミ、須田一政らと同世代である。2歳上の森山大道や中平卓馬を含めて、まさに「日本写真」の黄金世代というべき充実した多彩な顔ぶれだが、本橋はそのなかでもやや地味な存在であり続けてきたといえるだろう。だが、その彼の50年以上に及ぶ写真家としての営みを集大成した、今回のIZU PHOTO MUSEUMでの展示を見ると、彼のしぶとく、したたかな仕事ぶりにあらためて目を見張ってしまう。ドキュメンタリー写真という枠組みにきちんと寄り添いながらも、ときにはそこからはみ出し、テーマ的にも、手法的にも、地域的にも、大きな広がりを持つ写真を撮り続けてきたことが、くっきりと見えてくるのだ。
約200点の展示作品は、1968年に第5回太陽賞を受賞した初期の代表作「炭鉱〈ヤマ〉」(1964~)をはじめとして、「上野駅」(1980~)、「屠場〈とば〉」(1986~)、「藝能東西」(1972~)、「サーカス」(1976~)、「アラヤシキ」(2011~)、「チェルノブイリ」(1991~)、「雄冬」(1963~)、「与論島」(1964~)といったテーマ別に並んでいた。そこから浮かび上がってくるのは、本橋がある特定の被写体に集中して撮影するよりは、その周囲の環境のディテールを丁寧に写し込んでいることだ。むしろ、聴覚や嗅覚や触覚を含めた全身感覚的なその場の空気感こそを、写真を通じて捉えようとしているように思える。本展のタイトルにもなっている「在り処」、すなわち「生が息づく場所」をどう定着するのかという持続的な関心こそが、本橋の真骨頂といえるのではないだろうか。
興味深かったのは、東京綜合写真専門学校在学中に撮影された、彼の最初期の作品「雄冬」と「与論島」に、すでに後年の本橋の、被写体の周辺を画面に広く取り入れていくスタイルがあらわれてきていることだ。北海道増毛町雄冬と鹿児島県与論島で撮影されたこれらの写真群を、展示の最後に置いたところに、本展を「原点回帰」として位置づけようという本橋の意思が、明確にあらわれているように感じた。
2016/05/01(日)(飯沢耕太郎)
「マグナム・ファースト日本展」
会期:2016/04/23~2016/05/15
ヒルサイドフォーラム[東京都]
マグナム・フォトはロバート・キャパ(ハンガリー)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(フランス)、デイヴィッド・シーモア(ポーランド)を中心に1947年に設立され、「写真家による写真家のための写真エージェンシー」として、現在に至るまで強い影響を及ぼしてきた。本展は、初期マグナムの活動を支えた8人の写真家たちの作品83点によって、オーストリアの5都市で1955年に開催された「時の顔(Face of Time)」展を再構成したものである。この展覧会の出品作は、その後行方がわからなくなっていたのだが、2006年になってオーストリア・インスブルックのフランス文化会館の地下室から、全作品が発見され、「マグナム・ファースト」展として世界中を巡回することになった。マグナムの草創期のヴィンテージ・プリントを、まとめてみる機会はめったにないので、それだけでも貴重な展示といえる。
本展の出品作家は、創設メンバーのキャパ、カルティエ=ブレッソンに加えて、ワーナー・ビショフ(スイス)、エルンスト・ハース(オーストリア)、エリック・レッシング(同)、ジャン・マルキ(フランス)、インゲ・モラス(オーストリア)、マルク・リブー(フランス)の8名。展示された作品を見ると、第二次世界大戦終結から10年というこの時期に、「報道写真」の理念が写真家たちのバックボーンとなっていたことがよくわかる。例えば、のちに「決定的瞬間」の美学を確立していくカルティエ=ブレッソンにしても、まぎれもなくフォト・ジャーナリストの視点で、インドのガンジー暗殺の前後を記録した一連の写真を出品している。それぞれの写真家の代表作として知られている作品だけでなく、若々しいエネルギーを発する初期写真が多数展示されているのが興味深かった。そのなかでも特に印象に残ったのは、会場の最後に並ぶワーナー・ビショフの、堂々とした風格を備えた写真群である。1954年、ペルー取材中に自動車事故で悲劇的な死を遂げた彼の写真を、あらためて再評価する時期に来ているのではないだろうか。
2016/04/30(土)(飯沢耕太郎)