artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

川内倫子「The rain of blessing」

会期:2016/05/20~2016/09/25

Gallery 916[東京都]

東京ではひさびさの川内倫子展。もはや、どんなテーマでも自在に自分の世界に引き込んでいくことができる、表現力の高まりをまざまざと示すいい展覧会だった。展示は4部構成で、2005年刊行の写真集『the eyes, the ears,』(フォイル)の収録作から始まり、2016年1月~3月に熊本市現代美術館で開催された「川が私を受け入れてくれた」の出品作に続く。次に昨年オーストリア・ウィーンのクンスト・ハウス・ウィーンで開催された個展「太陽を探して」からの作品のパートが続き、最後に新作シリーズ「The rain of blessing」が置かれている。
どの作品も充実した内容だが、特に「川が私を受け入れてくれた」の、言葉と映像との融合の試みが興味深い。熊本で暮らす人々に「わたしの熊本の思い出」という400字ほどの文章を綴ってもらい、その内容をもとにして川内が撮影場所を選んでいる。会場には写真とともに、川内がそれぞれの文章から抜粋した短い言葉が掲げられていた。謎めいた、詩編のような言葉と、日常と非日常を行き来するような写真とが絶妙に絡み合い、なんとも味わい深い余韻を残す作品に仕上がっている。新作の「The rain of blessing」は、出雲大社の式年遷宮、ひと塊になって飛翔する鳥たちの群れ、熱した鉄屑を壁にぶつけて火花を散らす中国・河北省の「打樹花」という祭事の三部作である。出来事のなかに潜んでいる「見えない力」を引き出そうとする意欲が伝わってくる、テンションの高い写真群だ。別室では同シリーズの動画映像も上映されていて、こちらも見応えのある作品に仕上がっていた。
川内が日本を代表する写真の表現者として、揺るぎない存在感を発しつつあるのは間違いない。今後は、欧米やアジア諸国の美術館での個展も、次々に実現できるのではないだろうか。むしろ彼女の作品世界をひとつの手がかりとして、「日本写真」の輪郭と射程を測ってみたい。

2016/05/22(日)(飯沢耕太郎)

ライアン・マッギンレー BODY LOUD!

会期:2016/04/16~2016/07/10

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

写真家のライアン・マッギンレー(1977-)の個展。日本の美術館では初めての個展で、初期作から最新作まで、およそ50点の作品が展示された。
広大な大自然の中のヌード。マッギンレーの作品の醍醐味は、牧歌的で平和的な自然環境のなかで精神を解放したように自由を謳歌する若者たちの、のびやかな感性を味わえる点にある。寓話的といえば寓話的だが、隠された意味を解読しようとしても、あまり意味はない。それより何より、鮮やかな色彩で映し出された自然と肉体の美しさのほうが際立っているからだ。主体的な解釈を要求する批評の水準は後景に退き、世界をあるがままに受容する受動性が前景化しているのである。
そのような性質の写真が現代写真の一角を占める、ひとつの主要な傾向であることは否定しない。しかし展覧会の全体を振り返ったとき、いささか物足りない印象を覚えたことも否定できない事実である。それは、ひとつには展示された作品が思いのほか少なかったことに由来するのだろう。だが、その一方で、もしかしたらそのような欠乏感こそが、マッギンレーの写真の本質の現われとも言えるのではないか。
例えば、たびたび比較の対象として言及されるヴォルフガング・ティルマンスの写真の真骨頂は、そのインスタレーションにおける絶妙な空間配置にある。2004年に同館で催されたティルマンスの個展がいまなお鮮烈な印象を残しているように、大小さまざまな写真を有機的に配置することで、平面でありながら独特の立体感を醸し出し、一つひとつは断片でありながら、総体的には奥行きのあるひとつの世界を出現させるのだ。写真集とはまったく異なる、展覧会という空間表現に長けた写真家であるとも言えよう。
それに対してマッギンレーの写真インスタレーションは徹底して平面的である。500枚のポートレイトを構成した《イヤーブック》の場合、30メートルの壁面を埋め尽くした500人のヌード像はたしかに壮観ではあるが、単調といえば単調で、ティルマンスのような美しいリズム感は望むべくもない。こう言ってよければ、まるでモニター上のサムネイルをわざわざ拡大したかのように見えるので、鑑賞の視線が耐えられず、たちまち飽きてしまうのだ。事実、マッギンレーの写真は、写真集は別として、少なくとも展覧会よりスマートフォンやタブレットで鑑賞するほうが、ふさわしいように思う。
しかし、ここにあるのは写真とメディアの形式的な関係性という問題だけではない。写真をいかなるメディアで鑑賞者に届けるかという問題は、必然的に、写真と現実の関係性をどのように考えるかという根本的な問題に結びついているからだ。ティルマンスがインスタレーションという形式を採用したのは、おそらく、そうすることで現実社会のなかに写真を介入させるためだった。写真の内容ではなく形式によって現実社会と接合していると言ってもいい。一方、マッギンレーは同じ形式によりながらも、あくまでも写真を平面のなかに限定したのは、インスタレーションの技術が未熟だからではなく、むしろ彼は写真を現実社会から切り離された自律的な世界として考えているからではないか。ティルマンスが写真によって現実に接近しているとすれば、マッギンレーは逆に現実から遠ざかっている。あの、反イリュージョンとも言いうる、じつに平面的な写真は、現実社会との隔たりを示す記号であり、だからこそ鑑賞者はマッギンレーが写し出した牧歌的で神秘的な世界を思う存分堪能できるのである。
マッギンレーの写真に覚える欠乏感を埋めるものがあるとすれば、それはむしろ絵画なのかもしれない。なぜなら、それは写真でありながら、同時に、徹底して平面であることを自己言及的に表明する点において20世紀以降の現代絵画と近接しており、自然の中のヌードを写し出している点において、裸体画の伝統に位置づけることができるからだ。マッギンレーは、実はカメラによって絵画を描いているのではないか。

2016/05/20(金)(福住廉)

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椿会展 2016 ─初心─

会期:2016/04/28~2016/06/19

資生堂ギャラリー[東京都]

赤瀬川原平、畠山直哉、内藤礼、伊藤存、青木陵子、島地保武の6人。赤瀬川は雑誌『流動』のために描いた珠玉のイラスト。畠山はメキシコの風景写真6点を出しているが、1点だけ風景を撮る少女にピントを合わせた写真があった。これいいなあ。内藤は静脈が透けるような人肌みたいな絵肌のアクリル画と、床に小さい人形を20体ほど。絵を見ながら進むと人形を踏みつぶしそうになるが、あくまで囲いを設けない姿勢がうれしい。以下省略。

2016/05/20(金)(村田真)

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プレビュー:長島有里枝「縫うこと、着ること、語ること。」

会期:2016/06/17~2016/07/24

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]

昨年10月からKIITOアーティスト・イン・レジデンス招聘作家として神戸で滞在制作を行なってきた長嶋友里枝。その成果発表展となる本展は、彼女の私生活のパートナーの母親(神戸在住)とともに制作したテントとタープ(キャンプ用の日よけ)、滞在中に撮影した写真によるインスタレーション的構成となる。写真はタープの素材となる古着を集める際に出会った女性たちを取材したもので、写真撮影のほか、捨てたいのに捨てられない古着を持つ彼女たちの思いも聞き出している。長島は今年春に自身の母親とテントとタープを共作しているが、本展はその進化形と言えそうだ。

2016/05/20(金)(小吹隆文)

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森村泰昌「自画像の美術史 「私」と「わたし」が出会うとき」

会期:2016/04/05~2016/06/19

国立国際美術館[大阪府]

つくづく、森村泰昌は「考える」アーティストだと思う。美術史について、20世紀という時代について、日本文化について、つねに思考を巡らし、アイディアを練り上げ、作品化していく。その営みが1985年の石原友明、木村浩との三人展「ラデカルな意志のスマイル」にゴッホの自画像に扮した作品を出品して以来、30年以上もずっと続いているのは、本当に凄いとしかいいようがない。今回の国立国際美術館での個展では、まさに彼の思考の中心テーマであり続けてきた美術史における自画像の問題に真っ向から取り組んでいて、広い会場に並ぶ125点の作品を見終えると、ぐったり疲れてしまう。それだけ全力投球の力作が目白押しなのだ。
展示は第一部「自画像の美術史」と第二部「「私」と「わたし」が出会うとき」の2部構成になっている。第一部はさらに10章に分かれ(プロローグとして0章「美術史を知らなかったころの「わたし」がいる」が置かれる)、旧作と新作を織り混ぜながら、さまざまな画家たちの自画像への取り組みが、森村による解釈によって再構築される。特に興味深かったのは、日本のアーティストを取り上げた第5章「時代が青春だったときの自画像は美しい」と第6章「日本の前衛精神は眠らない」である。松本竣介、萬鉄五郎、村山槐多、関根正二、岡本太郎らを取り上げる森村の手つきが、西洋美術史の作品とは、微妙に違っているように見えるのだ。時代と切実に切り結ぶ日本のアーティストたちの自己イメージを、日本人である彼自身の内側から引きずり出そうとしているようでもある。
だが、本展の白眉といえるのは、70分という大作映像作品を上映する第二部「「私」と「わたし」が出会うとき」のほうだろう(撮影監督・編集、藤井光)。レオナルド・ダ・ヴィンチ、カラヴァッジョ、ディエゴ・ベラスケス、レンブラント・ファン・レイン、ヤン・ファン・エイク、アルブレヒト・デューラー、ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン、ヨハネス・フェルメール、フィンセント・ファン・ゴッホ、フリーダ・カーロ、マルセル・デュシャン(ただし「不在であることが存在の証」ということで欠席)、アンディ・ウォーホル、そしてヤスマサ・モリムラを招聘し、それぞれに自画像における「私」とは何かについて語らせるという、破天荒な構想の「シンポジオン」の記録映画であり、森村の長年にわたる思考実験の集大成というべき力のこもった作品である。たしかに饒舌で思弁的な映像ではあるが、それらがあくまでもアーティストの実感を基にして身体化されているのでとても説得力があった。気になったのは、第一部でも第二部でも、最後のパートに森村自身の個人的な記憶、経験が大きくクローズアップされていたこと。今後の彼の仕事のなかで、自伝的な語り口がより重要な意味を持ってきそうな予感がする。

2016/05/19(木)(飯沢耕太郎)

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