artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

BankART AIR オープンスタジオ 2016

会期:2016/05/27~2016/06/05

BankART Studio NYK[神奈川県]

50組のアーティストが2カ月間BankARTの2フロアをスタジオとして使用、その成果を発表している。成清北斗は苗字の「成」の字を円で囲んで大きな看板にし、赤く塗ってBankARTの外壁に飾った。2カ月間これつくってたんかい。台湾から来た廖震平は、横浜の風景をフレーミングして半抽象画に仕上げている。なかなか丁寧な仕事だ。片岡純也は透明な四角柱の上からコピー用紙を1枚ずつ落下させる装置を制作。紙はバランスよく水平を保ったままゆっくりと落ちていく。それだけだけど、お見事。アートファミリー(三田村龍神+わたなべとしふみ)の三田村は寺の坊主でもあり、仏教に親しんでもらうために映像を制作。お堂のなかで笑いながらパフォーマンスしていてなんだか楽しそうだ。河村るみは、壁にドローイングしているところを映像に撮り、それを壁に投射しているところにドローイングを重ね……という行為を延々繰り返していくパフォーマンス映像。時間と空間のズレが視覚化されていておもしろい。以上、50組中5組に注目。打率1割、まあまあだ。

2016/06/05(日)(村田真)

山谷佑介&松川朋奈「at home」+沢渡朔「Rain」

会期:2016/06/04~2016/07/02

YUKA TSURUNO GALLERY[東京都]

不思議な組み合わせの3人展だ。山谷佑介は赤外線カメラでネガ像に転換したボール紙のようなペラペラの感触の「家」の写真を、松川朋奈は同世代の女性たちの日常の痕跡を描いた油絵を「at home」というタイトルで出品している。沢渡朔はここ10年ほど折に触れて撮影してきた「Rain」のシリーズから、夜に撮影された縦位置の写真を展示した。方向性はまったくバラバラだが、そこにはどこか共通の視点も感じられる。山谷が「ホラー感」という言葉で的確に表現していたのだが、どの作品にも何とも不穏な雰囲気、どことなく不安げで危険な匂いが漂っているのだ。
それが一番強く感じられるのは、やはり沢渡の「Rain」だろう。雨に濡れそぼった街、繁茂する植物、その中を軟体動物のようにぬめぬめと漂う車や人間たち──この作品には、あらゆる事物をエロティシズムの原理が支配する世界に封じ込めようとする沢渡の志向がよくあらわれている。じつはこのシリーズは以前、ヌードの女性たちの絡みの写真群とカップリングして発表されたことがあった。国書刊行会から展覧会にあわせて同名の写真集が刊行されているのだが、残念なことにヌードのパートは割愛されている。ぜひ、別ヴァージョンの「Rain」の写真集としてまとめてほしいものだ。
なお、YUKA TSURUNO GALLERYは本展を最後にして東京・東雲から天王洲アイルに移転する。今回の展示の3人中2人が写真家であることでわかるように、これから先も現代写真にスポットを当てた展示が期待できそうだ。

2016/06/04(土)(飯沢耕太郎)

幻の海洋写真家・木滑龍夫の世界

会期:2016/05/23~2016/06/04

表参道画廊[東京都]

表参道画廊ではここ3年ほど、5月~6月のこの時期に、「東京写真月間」にあわせて写真史家の金子隆一の企画による写真展を開催している。一昨年の大西茂、昨年の写真雑誌『白陽』の写真家たちに続いて、今年は北海道・小樽で写真家として活動した木滑龍夫(1897~1941)の作品が展示された。
木滑は東京・東大久保に生まれ、海軍除隊後、函館の汽船会社の社員となって、無線局長として船に乗り組んでいた。そのかたわらアマチュア写真家としても活動する。1939年に『アサヒカメラ』が主催した「海洋写真展覧会」で「激浪」が一等になり、一躍「海洋写真家」として名前が知られるようになった。その後も、写真展や写真雑誌上で作品を発表していたが、1941年に北千島に向かう途中で海難事故のために亡くなった。
残された1930年代のヴィンテージ・プリント20点を見ると、木滑が同時代のモダニズム=「新興写真」の美学に基づいて作品を制作していたことが明確に伝わってくる。船体の一部を斜めのアングルで切り取った作品や、街頭のスナップ写真、岩のクローズアップなどの造形意識は、まさに典型的な「新興写真」的なアプローチといってよいだろう。だが、彼のホームグラウンドというべき、逆巻き、砕ける波を船の甲板から写した数枚には、「新興写真」の枠組みにはおさまりきらない、ダイナミックな現実描写の方向性があらわれている。それらを見ていると、彼がもう少し写真の仕事を続けていけば、どうなったのだろうかと想像してみたくなる。「海洋写真」というユニークなジャンルを、さらに発展させていったのではないだろうか。

2016/06/04(土)(飯沢耕太郎)

北井一夫「流れ雲旅」

会期:2016/05/28~2016/06/08

ビリケンギャラリー[東京都]

北井一夫は1970年に『アサヒグラフ』に連載された「流れ雲旅」の写真撮影のために、漫画家のつげ義春に同行して下北半島、東北の湯治場(福島、秋田、山形、岩手)、国東半島、福岡県篠栗などを旅した。この連載は『つげ義春 流れ雲旅』(朝日ソノラマ、1971)として単行本化されているのだが、今回、北井の個人写真集としてワイズ出版から出版されることになった。本展では、それにあわせて印刷用にプリントされた北井の写真を展示している。
それらを見ていると、1960年代から70年代初頭にかけて『ガロ』に掲載されたつげ義春の「旅もの」の漫画が、同時代の表現者たちに共感を持って迎えられ、強い影響を及ぼしていったことがよくわかる。北井が写真集のあとがきとして書いた文章によれば、「その頃の私は、つげさんのマンガとそっくり同じような写真を撮っていた。つまり私の写真の被写体になった人たちは、いつも決まってカメラに向かって凝視しているという写真だった」ということだ。知らず知らずのうちに、個人的な「関係性」を起点とするような漫画が描かれ、写真が撮影されていく。高度経済成長下に解体していったムラの共同体のあり方を、ある種のノスタルジアを込めてふり返るような気分が、若い表現者たちに共有されていたということだろう。北井はやがて、1975年に第一回木村伊兵衛写真賞を受賞する「村へ」のシリーズを撮り進めていくのだが、まさにその起点というべき写真撮影のスタイルが、この時点ではっきりと芽生え始めていたことが分かる。
つげ義春の「旅もの」に共振する感性は北井一夫に留まらず、より若い世代にも引き継がれていった。猪瀬光が写真を撮り始めたきっかけが、つげの漫画だったという話を聞いたことがある。さらにその影響力は、尾仲浩二や本山周平や村上仁一にまで及んでいそうだ。そのあたりの系譜を辿ってみるのも面白そうだ。

2016/06/04(土)(飯沢耕太郎)

生きるアート 折元立身

会期:2016/04/29~2016/07/03

川崎市市民ミュージアム[神奈川県]

1980年代から新作まで、270点以上の作品を二つの企画展示室を使って一堂に会した折元立身展。彼のパフォーマー、アーティストとしての軌跡を総ざらいする、圧倒的な迫力の展示だった。
1990年代の代表作である「パン人間」、今年97歳になるという母親との介護の日々を、数々のアート・パフォーマンスとして展開した「アート・ママ」、その発展形といえる「500人のおばあさんとの昼食」(ポルトガル/アレンテージョ・トリエンナーレ、2014)をはじめとする食事のパフォーマンス、日々描き続けられている膨大な量のドローイング、「子ブタを背負う」(2012)など、ユニークな「アニマル・アート」──どの作品にも、生とアートとを直接結びつけようという強い意志がみなぎっており、彼のポジティブなエネルギーの噴出を受け止めることができた。
折元はごく初期から、写真や映像を使ってパフォーマンスを記録し続けてきた。一過性のパフォーマンスをアートとして定着、伝達していくための、不可欠な手段だったのだろう。だがそれ以上に、写真や映像を撮影すること自体が、アーティストとパフォーマンスの参加者とのあいだのコミュニケーションのツールとして、重要な役目を果たしていることに気がつく。カメラを向けられることで、その場に「参加している」という高揚感、一体感が生じてくるからだ。写真や映像を記録のメディアとして使いこなすことで、彼のパフォーマンスは秘儀的な、閉じられた時空間に封じ込められることなく、より風通しのよいオープンなものになっている。写真作品としての高度な完成度を求めるよりも、パフォーマンスの正確な記録に徹することで、はじめて見えてくるものがあるのではないだろうか。現代美術家の「写真使用法」の、ひとつの可能性がそこにあらわれている。

2016/06/03(金)(飯沢耕太郎)

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