artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

大森克己「すべては初めて起こる」

会期:2011/12/15~2012/01/29

ポーラミュージアム アネックス[東京都]

大森克己の「すべては初めて起こる」は注目すべき写真シリーズだ。「3・11」以後、さまざまな写真家たちの仕事が発表されてきたのだが、そのほとんどはドキュメンタリーの範疇に入る仕事だった。本作品も広義のドキュメンタリーと言えなくはないが、そこには大森の写真家としての表現の意志がかなり強くあらわれてきている。震災という大きな出来事をどう受けとめ、投げ返していくのか。写真に限らずすべての表現ジャンルで問われるべきことだが、その優れた解答のひとつと言えるだろう。
大森は震災直後から自宅の周辺の桜を撮り始める。彼にはすでに桜をテーマにした『Cherry Blossoms』(リトルモア、2007)という写真集があり、ごく自然な身体的反応だったのではないかと思う。次に彼は福島県に向かうことにする。これまた直感的な反応であり「放射能、撮らなきゃって」思ったのだという。ところが、その時点で思いがけない要素が付け加えられた。「East LAのメキシカン・マーケット」で購入したのだという2個の「ピンクの半透明の球体」が、カメラのレンズの前にぶら下げられたのだ。
彼がなぜそんなトリッキーな仕掛けを凝らしたのか、普段の大森の仕事を知っているわれわれにとっては意外としか言いようがない。おそらく、彼自身にもよくわからないのではないかと思う。とにかく大森は「そうしたい」、「そうせざるを得ない」と心に決め、福島の地で桜や津波の跡の光景に向けてシャッターを切った。結果として、写真の画面(すべて縦位置)には奇妙なピンク色の光のフレアーが写り込むことになった。どこに出現するのか予測がつかない、その薄く丸いフレアーを透かして、向うの景色がぼんやりと見えている。
「震災後の桜」という主題は決して珍しいものではない。むしろステロタイプな被写体と言えなくもない。実際、「3・11」以後に撮影された多くの写真に、桜が写っているのを目にしてきた。だが、「ピンクの半透明の球体」のフレアー効果がそこに加わることで、風景が多層化し、「震災後の桜」という意味づけに単純に回収されることのない奥行きが生じてきている。そのことで、このシリーズは大森克己が見た「震災後の桜」としての固有性を獲得していると思う。なお、会場限定で同名の大判写真集(MATCH & Company)も発売された。1万5,000円という値段に見合った堅牢な造本の(でも、重くてとても扱いづらい)ポートフォリオ型の写真集だ。

2012/01/04(水)(飯沢耕太郎)

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篠山紀信『ATOKATA』

発行所:日経BP社

発行日:2011年11月21日

篠山紀信が東日本大震災の被災地を撮っていることは知っていたし、作品の一部も『アサヒカメラ』(2011年9月号)の「写真家と震災」特集などで目にしていた。その時点では、どちらかといえば否定的な見方だった。これまで途方もないキャリアを積み重ね、現在もAKB48のような芸能界の最前線を撮ることができる写真家が、なぜわざわざ震災を撮らなければならないのか、まったく理解できなかったからだ。ところが、実際に書店に並び始めた大きく分厚い写真集『ATOKATA』のページをパラパラめくっていくうちに、自分でも意外な思いが湧いてくるのを感じた。むろん、釈然としない気分が完全に消えてしまったわけではない。だが、そこに並んでいる津波に根こそぎにされた松林や、散乱する瓦礫、破壊された家々の写真は、たしかに「写真家」の仕事としてのクオリティと強靭さを備えていた。こういう言い方は誤解を産むかもしれないが、そこには「見る」ことの健康な歓びがあふれ出ているようにも感じた。死の影に覆われた被災地の写真にもかかわらず、あらゆる場面に圧倒的な生命力が横溢しているのだ。どうしても認めざるをえないのは、これは篠山紀信以外にはまず撮れない「震災後の写真」であるということだ。ほかにもさまざまな理由があるだろうが。最初に彼を捉えたのは「見たい」という強烈な欲望なのではないだろうか。篠山の意志というよりは、彼の巨大で貪欲な「目ん玉」が、彼を現場まで引きずっていったという方が正しいかもしれない。結果としてその欲望のおもむくままに、見るべきものを見尽くすまで「全身全霊で向き合った」写真群が残された。この写真集を、売れっ子写真家の売名行為だとか、被災者を食い物にしているとか批判するのは簡単だ。だが、篠山自身は、そんな批判が出てくることなど百も承知だろう。自分の「目ん玉」の要求にとことん応えていくことが、この写真家の職業倫理であり、今回もそれを貫いているだけだと思う。ただ、5,800円+税という値段の写真集を、いったい誰が買うのだろうかという疑問は残る。巻末の「被災された人々」のポートレートも、いい写真だが、このままだとアリバイづくりに見えかねない。こちらを中心にした廉価版の写真集も考えられるのではないだろうか。それと、篠山にはぜひこの後も東北を撮り続けてもらいたい。彼の写真のポジティブな力が必要になるのは、むしろこれからだからだ。

2011/12/23(金)(飯沢耕太郎)

薄井一議「昭和88年」

会期:2011/12/09~2011/12/22

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

タイトルを見て、ある種の感慨を覚える人が多いのではないだろうか。もし昭和という年号が続いていたとすれば、2013年が「昭和88年」になるわけだ。たしかに単なる語呂合わせのようではあるが、この言い方にはなぜか実感がある。というのは、平成以降の生まれの20歳以下の人たちは別にして、実はわれわれの感受性の質を決定しているのは、「昭和」の空気感であるように思えるからだ。薄井一議が試みようとしたのは、そのいまだに強く残っている「昭和」の匂いを、丹念に写真のなかに採集することだ。彼が主に撮影したのは、大阪の飛田、京都の五條楽園、千葉の栄町の界隈。いうまでもなく、かつて色街があった旧遊郭の地である。いまなお現役で営業している店も多いこのあたりこそ、「昭和」を最も色濃く感じさせる場所だろう。エロスと食が表面に浮上する場面では、人間の地金がより強く表われてくる。普段は押し隠している「昭和」っぽい色や形や肌合いに鋭敏に反応する感受性が、そういう場所ではあからさまに押し開かれて出てくるのだ。特徴的なのは、このシリーズの全体を覆いつくしている「どピンク」だろう。いかにも下品で俗っぽいピンク色が、奇妙な優しさ、鮮やかさ、華やかさで目に飛び込んでくる。こうして見ると、この「どピンク」こそが、「昭和」の生命力のシンボル・カラーであるようにも思えてくる。その派手な色が、いやに目に染みるのは、今年が殺伐とした「震災と原発の年」だったことにかかわりがありそうな気もする。なお、展覧会に合わせて英文の写真集『Showa88』(ZEN FOTO GALLERY)も刊行されている。

2011/12/17(土)(飯沢耕太郎)

日本の新進作家展 vol.10 写真の飛躍

会期:2011/12/10~2012/01/29

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

毎年開催されている東京都写真美術館での「日本の新進作家」展も、いつのまにか10回目を迎えていた。これまではどちらかといえば、すでに認知されている写真家の仕事の後追いの印象があったのだが、今回の展示ではそのあたりがかなりいい方向に動いてきている。添野和幸、西野壮平、北野謙、佐野陽一、春木麻衣子という顔ぶれを見ると、いま力を伸ばしつつある写真作家が順当に選ばれているように思える。北野、春木はそれぞれ個展を開催中でもある。「新進」というよりは「中堅」に近い人選だが、1968年生まれの添野、北野から、1982年生まれの西野までの世代の仕事は、まだ一般には広く知られていないので、タイミングのいい展覧会になっているのではないだろうか。今回のタイトルの意味はややわかりにくいが「フォトグラム、ピンホールカメラ、多重露光、露出といった、写真の根源的な手法や特性に着目しながら多彩な作品を制作」している作家を集めたということのようだ。たしかにデジタル化の進行とともに、逆に写真特有の手法にこだわる者も増えてきている。ノスタルジックな意味合いよりは、デジタル・メディアではむしろ表現不可能な領域が、まだまだたくさんあることが少しずつ見えてきているということだろう。さらに西野の緻密なフォト・コラージュや、北野の数十人の人物のポートレートを多重露光で重ね合わせていくプロセスなど、「手技」の部分が強調されている作品が多いのも今回の特徴だ。その、ある意味で手工芸的な作品の肌合いは、これから先の「日本写真」を特徴づけていく重要なファクターになっていきそうだ。

2011/12/14(水)(飯沢耕太郎)

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ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち

会期:2011/12/10~2012/01/29

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

東京都写真美術館のコレクション展というと、総花的な印象を与えるものが多くなる。ひとつのテーマに沿った作品を万遍なく集めることを目指すと、各写真家の仕事から1点か2点ということになるので、焦点がはっきりしない展示になりがちなのだ。その点においては、今回の「ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」はうまくいっていたと思う。ジョン・トムソン(英)、トーマス・アナン(英)、ビル・ブラント(英)、ウジェーヌ・アジェ(仏)、ブラッサイ(ハンガリー→仏)、ハインリッヒ・ツィレ(独)、アウグスト・ザンダー(独)の7人の写真家に絞り込み、その代表作をじっくりと見せることで、まとまりのある展覧会になっていたからだ。やや地味なトムソン、アナン、ツィレなどの作品は、こういう機会でないとなかなか展示できないのではないだろうか。さらにトムソンの『ロンドンの街頭生活』(1877)のウッドベリー・タイプ、アナンの『グラスゴーの古い小路と街路』(1900)のフォト・グラビア印刷、アジェのプリントの鶏卵紙など、19世紀から20世紀初頭にかけての印刷技法や印画紙の作例を実際に見ることができたのもとてもよかったと思う。これら、現在は使われていない古技法の、独特の質感を確認することができる機会はなかなかないからだ。ただいつも感じることだが、このような啓蒙的な展覧会では、もう少し写真のキャプションや解説の文章に気配りしてほしいと思う。観客にわかりやすく、丁寧に伝えようという意欲があまり感じられないのが残念だ。

2011/12/14(水)(飯沢耕太郎)

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