artscapeレビュー

レオ・ルビンファイン「傷ついた町」

2011年09月15日号

会期:2011/08/12~2011/10/23

東京国立近代美術館[東京都]

2階の常設展の横の会場に入ると、かなり大きな152.4×182.9�Bのインクジェットプリント35点が、通路を区切るように天井から吊り下げられている。この会場構成に、レオ・ルビンファインの周到な配慮を感じる。写真に写っているのは、世界各地の都市でストリートスナップの手法で撮影された人々の姿だ。東京、モスクワ、ソウル、ロンドン、ムンバイ、ナイロビ、モンバサ、ジャカルタ、マドリッド、カサブランカ、マニラ、エルサレム、コロンボ、クタビーチ(バリ島)、カラチ、ヘブロン(パレスチナ)、そしてニューヨーク──ルビンファインがカメラを向けたこれらの都市は、なんらかのかたちでテロの被害にあった「傷ついた街」(Wounded Cities)である。彼自身、ニューヨークで2001年9月11日の同時多発テロに遭遇し、それをきっかけにしてこれらの群像写真を6年間かけて撮影したのだという。
われわれは、等身大以上に大きく引き伸ばされた人々の顔に向き合う。それがどこか不安げで、寄る辺ない表情を浮かべているように見える。もともと街頭でスナップされた人々の写真は、そのような不安定で、どちらかといえばネガティブな感情を引き起こしやすい。それぞれの人物か、その時間にそこにいた目的や理由が、ある意味暴力的な切断によって宙吊りにされるからだ。それに加えて、今回の展示では写っている人々の表情を意図的に限定し(笑っている者はほとんどいない)、観客を圧倒するスケールに大伸ばしし、「傷ついた街」という文脈をあらかじめ提示している。そのため写真を見る者は、いやおうなしに「9・11」以後の世界のあり方を生々しく突きつけられ、写真を前に自問自答せざるをえないところに追い込まれてしまう。
このような強制的な写真の見せ方に対しては、僕はずっと否定的な見解を表明してきた。だが、今回の展示についていえば、ルビンファインはそのような観客の反応をあらかじめ予想したうえで、あえて威圧的なプレゼンテーションのやり方を選びとっているのではないかと思う。「9・11」以後の「なぜこんなことが起こったのか」という堂々巡りの思考の果てに、彼はとにかくこのような写真を撮ってみようと心に決めたのだろう。カタログを兼ねた写真集に、こんなふうに記している。
「群衆の中の人間の顔を見て、一国の運命がわかるはずがない。そんなことは私だって知っている。しかし、とにかく私は写真を撮り続けた。確信できないながらも、そこには『何か』があるはずだと思えてならなかった。自分の目で真剣に、一心不乱に見つめれば、耳で聞いただけでは得られない『何か』を得られるはずだと思ったのである」
彼自身も答えが見えていたわけではないだろう。それでも「何か」に突き動かされるように、これらの写真を撮り続けなければならなかったということは伝わってくる。まず「傷ついた街」の人々の顔に向き合ってみること。そしてそこにいるのが「彼ら」ではなく、「世界に一人しかない『彼』か『彼女』」であることを実感すること──その体験を共有することを願って、ルビンファインはわれわれを柵の中に囲い込み、それぞれの顔から発する視線に貫かれるような、会場のインスタレーションを試みたのではないだろうか。

2011/08/21(日)(飯沢耕太郎)

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