artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
河野和典『永遠のリズム Eternal Rhythm』
発行所:PCT
発行日:2022/04/20
河野和典は1999年から2004年まで『日本カメラ』の編集長を務めるなど、写真関係の多くの書籍の出版にかかわってきた編集者である。ところが、その彼は50年以上にわたって写真を撮り続けており、今回そのなかからカラー、モノクローム作品98点を選んで写真集を刊行した。嬉しい驚きというべきだろうか、そこに掲載されている写真群は、見ること、撮ることの歓びを、みずみずしい生命感あふれる写真群として結晶させた素晴らしい出来栄えだった。
写真集には短い「あとがき」がついているのだが、そこに記されている言葉が、そのまま彼の写真観の表明になっている。「写真を撮るということは、知らない世界を発見する行為と言ってよい。物事を記録したり表現したりする手段には、文字であったり絵であったり音であったりといろいろあるけれど、写真は眼前の被写体を光で描き記録する。そしてそのなかに時間と空間を留める。私にとって写真は、もっとも貴重な記録手段であり、表現手段であり、なにより撮るときにも見るときにも、多くのことを発見する手立てでもある」。シンプルな言い方だが、ここには、写真家/表現者の基本的な思考のあり方がよく表われている。写真集のページをめくると、河野が何よりも「もの言わぬ植物の生命力、そしてその造形力」に魅せられつつ、写真撮影を通じて「発見し、知る」ことを求め続けてきたことが、よく伝わってきた。
まさに「永遠のリズム」を感じさせる写真の配列、レイアウト、デザインもとてもいい(ブックデザインは加藤勝也)。印刷のクオリティも高い。長年にわたる編集者としての経験の蓄積が、写真集の造本にも活かされている。
2022/05/14(土)(飯沢耕太郎)
植田真紗美「海へ」
会期:2022/05/03~2022/05/15
百年/一日[東京都]
東京出身で玉川大学文学部リベラルアーツ学科、日本写真芸術専門学校を卒業した植田真紗美は、2018年の第19回写真「1_WALL」展でファイナリストに選出されるなど、このところ存在感を増している写真家の一人だ。昨年10月に、ファースト写真集『海へ』(Trace)を刊行し、仲間たちと共同運営している東京・恵比寿のKoma galleryで同名の個展を開催した。今回の東京・吉祥寺の古書店「百年」とその姉妹店の「一日」での展示は、同展のアンコール企画である。
一点一点が力強く、鋭角的に結晶しているように見える写真が並ぶ。それぞれの写真の相互関係もよく考えられ、練り上げられており、高度な表現力の持ち主であることがよくわかった。ただ、「海へ」というテーマ設定が、やや抽象的すぎて、植田の生のあり方とどのようにかかわっているのかがうまく伝わってこない。宇宙的な広がりを感じさせるスケールの大きな写真と、身近な身体的なイメージとの落差を、埋め切れていないもどかしさも感じた。植田が2013年から、布川淳子、川崎璃乃らとともに刊行している写真同人誌『WOMB』(2021年の11号まで刊行)にも、「海へ」シリーズが掲載されているのだが、こちらにはパートナーの男性など、より具体的なイメージが入っている。写真集・写真展の構成にやや迷いがあったのではないだろうか。
とはいえ、植田のような発想力と行動力を兼ね備えた写真家は、殻を破れば大きく飛躍していくのではないかと思う。その潜在能力を活かして、むしろひとつのテーマにより集中していってほしい。「一日」の展示スペースで上映されていたスライドショーには、また別な可能性を感じた。写真の点数をもっと増やし、音楽との相性を吟味していくことで、よりダイナミックな物語性を備えた作品世界が構築できるのではないだろうか。
2022/05/13(金)(飯沢耕太郎)
石原悦郎への手紙 PartⅡ-AIRMAIL-
会期:2022/04/02~2022/05/14
ZEIT-FOTO Kunitachi[東京都]
ツァイト・フォト・サロンのオーナー、石原悦郎は、2016年に亡くなった。それにともなって、日本で最初の写真専門の商業ギャラリーとして1978年にオープンしたツァイト・フォト・サロンも、40年近い歴史を閉じた。だが、同ギャラリーの旧スタッフを中心に、東京都国立市の石原の自宅を拠点として、ZEIT-FOTO Kunitachiの活動が継続している。石原が遺した写真、絵画、クラシック音楽レコードのコレクションの整理、保存のほか、1年に2~3回のペースで、展覧会も開催してきた。今回の「石原悦郎への手紙 PartⅡ-AIRMAIL-」展は、2018年に開催した「石原悦郎への手紙─世界の写真家(アーティスト)から─」に続く企画である。
出品者の顔ぶれが興味深い。写真家では渡辺眸、鷹野隆大、尾仲浩二、井津建郎、楢橋朝子、郷津雅夫、安齊重男、柴田敏雄、オノデラユキらが出品している。ロバート・フランク、ビル・ブラント、ベルナール・フォコンの名前も見える。作品の近くに掲げられた石原宛の「AIRMAIL」の書簡やポストカードと併せて見ると、彼らと石原との緊密な関係、作品制作に取り組むときの影響の強さが伝わってくる。ツァイト・フォト・サロンのコレクションがどのように形成され、作家同士の関係がどう育っていったかが見えてきて、あらためてギャラリストとしての石原悦郎の存在の大きさを感じることができた。柴田敏雄の極めて珍しい「静物写真」など、思いがけない作品も出品されている。ZEIT-FOTO Kunitachiには、まだ写真600点、絵画700点が残っているのだという。これから先も、いろいろな切り口の企画展が考えられるのではないだろうか。
2022/05/13(金)(飯沢耕太郎)
森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
会期:2022/03/12~2022/06/05
京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ[京都府]
憧れの対象を見つけるということは、その対となる蔑みの対象を前提とする。憧れもまた罪なのだ
森村泰昌の作品制作の過程で撮影されてきたインスタント写真800枚以上を含む、35年超のキャリアを総括する大規模個展。森村はポストモダンの権化として、国ごと地域ごとに無数のステレオタイプと個別具体的な人物や写真や絵画に入り込んできた美術家だ。本展では「女優シリーズ」も多く展開されていたが、いずれも詳しいキャプションは会場には存在しない。見ればわかるほど著名な人物を演じ分けているということなのかもしれないが、ゆえに、森村の自作の小説の無人朗読劇《顔》に出てきた、しおらしい女が豹変し、男を喰らうという構造と言葉が前景化しすぎたきらいもある。そこで、本文では、森村が「女」ではなく「女優」とどう向き合ってきたのかを一作に絞り、少しまとめ添えたい。
森村は1980年代後半からデジタルでのマニピュレートをひと通り実施した後、「女優シリーズ」を開始する。本シリーズは化粧だけで有名女優への成り代わりが行なわれたシリーズであると同時に、映画批評でもあった。展覧会をはじめとして、さまざまな媒体で展開されているが、雑誌『月刊PANjA』(扶桑社、 1994.8~1995.7)での連載「女優降臨」がもっとも中心的な掲載と言えるだろう。シンディ・シャーマンのセンターフォールシリーズが「ただのセンターフォールでしかない」とロザリンド・クラウスに批判されたことを受けてか、森村は本誌のグラビアを担っていたのだ。
では一例だけ。映画『ティファニーで朝食を』(1961)でオードリー・ヘップバーン演じる主人公ホリーに森村はどう成り代わったのか。それは、トルーマン・カポーティの同名の原作(1958)と映画の相違点が関わっている。違いは大きくは2点。
1:
(原作)「ユニオシ」という男性の身体描写はない
(映画)「ユニオシ」という男性の身体描写が「反日プロパガンダ」的
2:
(原作)ホリーは誰とも結婚せず、旅立ちアフリカなど放浪を続ける
(映画)ホリーが最終的には愛を見つけ、ニューヨークに留まる
映画でユニオシを演じたのはミッキー・ルーニーという白人男性で、彼が「醜く」その外見を変化させて日本人を演じた。それに対して「美しい」登場人物であるホリーに日本人男性である森村がなることにどのような意味がありうるのか。
主人公ホリーは女優の卵であり、高級娼婦として男性から金を巻き上げつつも玉の輿を目論む自由奔放な女性だ。映画では、そのような女性が結婚という制度をもとに幸せをつかむという目線のもと、過去の自分との決別で終わりを迎えるが、原作では、ホリーはホリーのまま、自由を求め続ける。つまり、映画のホリーは映画のユニオシに向けられたステレオタイプ性と同等のものを当時のアメリカ人女性として受け、改変されたとも考えられる存在だ。つまり、ユニオシとホリーはこの映画に潜む「美醜観」で反転し繋がれた関係とみなし得る。
そのようななかで、森村は映画版のヘップバーンのホリーを演じるのだが、スタジオの撮影を中心としながら、最後は大阪の町へ消えていく。自身のナショナリティと化粧という技をもって映画の抱えていた抑圧を二重に引き受けて解放するのだ。そして、どのような「美」への志向性を抱いているのか、森村の写真は鑑賞者の憧れを暴く。
上野千鶴子が森村に投げかけた「女とは、一生を女装で通した者である」に対して、森村は「女優」というものを、以下のように述べたことがある。
自分にとって、女優観、女優っぽさというものは、実は女に化けることではないんです。そうではなくてむしろ、たった一人でそこにすっくと立って何かに立ち向かうということ。[中略]その一人の人間がそこに存在しなくなったら、その場は成り立たないような存在として、そこにあり続けなければならない。それが「女優」の重要な要素
森村にとっての「女優」とは、「ジェンダーを演じるものとしての女」をどのように考えるのかといったとき、「無数の個別具体的な女」ではなく「一人ひとりの人生」に応答をすることを可能にする経路だ。たくさんのポラロイドの前後には、このような思考と造形理論が一つひとつに広がっている。
公式サイト:https://kyotocity-kyocera.museum/exhibition/20220312-0605
2022/05/08(日)(きりとりめでる)
梁丞佑「B side」
会期:2022/05/06~2022/05/29
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
韓国出身の梁丞佑(ヤン・スンウー)は、第36回土門拳賞を受賞した『新宿迷子』(禪フォトギャラリー、2016)に代表されるような、被写体に肉薄した社会的ドキュメンタリーで知られている。だが、今回の展示にそのような写真を期待する観客は、やや肩透かしを食ったように感じるのではないだろうか。梁自身が展覧会に寄せたテキストに書いているように、「アンダーグラウンドな人や場所を撮った写真」を「A面」とするならば、今回は「B面」、つまり「撮りたいものを撮りたい時に撮ったものを、まとめた写真達」の展示ということになる。
だが、その「B面」の写真がとてもいい。梁のなかにあった思いがけない側面が輝き出しているというべきか、写真家としての彼のあり方をもう一度考え直したくなる写真群が並んでいた。「撮りたい時に撮った」写真だから、被写体の幅はかなり広い。北関東で仕事をしていた時期に撮影した写真が多く、そのあたりの、やや索漠とした空気感が滲み出ているものもある。だが、東京や九州の写真もあり、必ずしも風土性にこだわっているわけではない。むしろ強く感じられるのは「心がザワザワする」ものに鋭敏に反応する梁の感性の動きの方だ。
奇妙なもの、怖いもの、それでいて思わず笑ってしまうようなもの――とはいえ、それらをわざわざ探し求めて撮影しているというよりは、むしろ相手が発する気配をそのまま受け止め、定着したような写真が多い。須田一政の仕事に通じるものもあるが、梁の方がよりざっくりとしたおおらかさ、視野の広さを感じる。たしかに「B面」には違いないのだが、むしろ梁の写真家としての本来的な姿は、こちらに強く表われているようにも思えてきた。面白い鉱脈を掘り当てたのではないだろうか。
関連レビュー
梁丞佑「新宿迷子」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)
2022/05/06(金)(飯沢耕太郎)