artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

片山真理「leave-taking」

会期:2021/12/04~2022/02/19

Akio Nagasawa Gallery Ginza[東京都]

片山真理は2015年から2017年にかけて、「shadow puppet」「bystander」「on the way home」の「三部作」を制作した。この時期は、東京から群馬県太田へと制作の拠点を移し、アトリエを持ち、第一子を出産するという大きな転換期と重なり、内外での展覧会や出版も含めて、心身ともにフルに回転していた。それから5年余りが過ぎた今回のAkio Nagasawa Gallery での展示では、新たな第一歩を踏み出す意欲にあふれる新作「leave-taking」を見ることができた。

新作の舞台になっているのは、まさに彼女の創作活動の源泉となっているアトリエの空間である。そこには自作の手縫いのオブジェ、ペインティング、コラージュ作品などが雑然と置かれており、片山はその部屋に「マネキンのように自分を配置」してシャッターを切る。本シリーズでは、あえて長時間露光を用いることで、片山の身体はブレて消えかかり、むしろその周囲のオブジェ群が、ほのかな微光を発して存在感を増してきているように見える。何物かを生み育てる子宮のようなその空間に包み込まれていることの安らぎが、作品を見るわれわれにもしっかりと伝わってきた。



片山真理「leave-taking」展出品作品より[提供:AKIO NAGASAWA Gallery]


だが、この居心地のいい場所から、外に出ていかなければならない時期も来るだろう。片山の作品世界は、いまや日本だけでなく、欧米やアジア諸国でも注目を集めつつある。今回の展示は、いわば次作への助走に当たるもののように見える。次の作品は、ひとまわりスケール感を増したものになるのではないかという期待が膨らんだ。なお、展覧会に合わせて、「三部作」をまとめなおした写真集『Mother River Homing』が、Akio Nagasawa Publishingから刊行されている。

2022/01/12(水)(飯沢耕太郎)

植田正治を変奏する RESEARCH/TRIBUTE

会期:2021/11/29~2022/01/29

写大ギャラリー[東京都]

植田正治の写真の仕事は、ほかにあまり類を見ないユニークなものだと思う。山陰の鳥取県に在って、ローカリティに根ざした風物を撮影し続けながら、その写真の世界はむしろグローバルに開かれていて、海外の評価も高い。題材、手法とも驚くほど多種多様で、写真の旨みをこれほど深く味わわせてくれる作家はあまりいないだろう。とはいえ、決して「上手い写真家」という範疇におさまることなく、写真作品を本格的に撮影し始めた1920年代から晩年に至るまで、常に新たな領域にチャレンジし続けていった。

今回の展覧会は、三男の植田亨氏所蔵のヴィンテージ・プリントと、東京工芸大学写真学科教授の田中仁のコレクションを中心に構成されている。「中学5年(昭和5年)カメラ雑誌の表紙で囲ってフォト・モンタージュ風に撮った。手にはピコレットを」と記された初期の実験作から、1983-1993年の「砂丘モード」の連作まで、会場に並ぶ65点の作品を見ると、ひとりの写真家の模索と探究の道筋が浮かび上がってくるように感じる。田中仁が展覧会に寄せた文章で植田のことを「研究熱心な写真家」と書いているが、単純な「研究」というよりは何かに取り憑かれているという印象が強い。今回の展示には、ヴィンテージとモダン・プリントが混在しているのだが、熟考を積み重ね、トリミングや焼きをかなり変更している様子が見てとれる。写真は彼にとって、汲み尽くしきれない表現意欲の源だったのではないだろうか。

今回の展覧会の白眉は、もしかするとギャラリーの外のスペースを使った「植田正治が遺したもの」のパートかもしれない。2021年に、田中仁が植田正治の生家を訪ねて撮影した遺品の写真が、壁にびっしりと並んでいた。手紙、色紙、原稿、アルバム写真、コンタクトシートなどに加えて、カメラ、暗室用品、蔵書などを撮影した写真もある。圧巻は、植田が生前に描いたドローイングやスケッチ類の複写で、画家としての才能も並々ならないことがうかがえた。不世出の写真家の作品世界を、さらに深く読み解いていくためのヒントがたくさん隠れているようで、とても心躍る眺めだった。

2022/01/08(土)(飯沢耕太郎)

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生誕120年 木村伊兵衛回顧展

会期:2021/11/13~2022/01/23

秋田県立美術館[秋田県]

木村伊兵衛の写真を秋田で見ることには特別な感慨がある。1920年代以来、50年以上にわたる彼の写真家としての経歴をたどり直すと、1952年に「第5回秋田県総合美術展覧会」の写真部門の審査に招かれて以来、1971年まで21回にわたって繰り返し秋田を訪れて撮影した「秋田シリーズ」は、質量ともに最も充実したものといえるからだ。ところが、これまで「秋田シリーズ」を含む木村伊兵衛の代表作を秋田で見る機会はほとんどなかった。その意味で、今回の「生誕120年 木村伊兵衛回顧展」は、特別な意味を持つ展覧会といえる。

展示の全体は、「夢の島──沖縄」「肖像と舞台」「昭和の列島風景」「ヨーロッパの旅」「中国の旅」「秋田の民俗」の6部、132点で構成されている(カタログを兼ねた写真集『木村伊兵衛 写真に生きる』(クレヴィス、2021)には177点を収録)。写真家としての初心を生き生きとさし示した「夢の島──沖縄」から、生涯を締めくくる大作「秋田の民俗」まで、広がりと膨らみを備えた写真世界を堪能することができた。こうしてみると、木村の写真の真骨頂が、人間、とりわけ集団(群れ)としての人間の姿をとらえることにあったことがよくわかる。彼の写真に写っている人間たちは、多くの場合、孤立した個ではなく、互いに結びつき、影響を与え合っている。彼らの表情や身振りなどによって開示される、ダイナミックな関係性、生命力の発露が、融通無碍なカメラワークで見事に切り取られているのだ。木村伊兵衛の「名人芸」についてよく言及されるのだが、単純にシャッターチャンスや構図の素晴らしさだけでなく、人間観察、人間探求の凄みを味わうべきだろう。

今回の秋田県立美術館の展覧会では、3階のギャラリー・スペースで「秋田の写真家たち」と題して、岩田幸助、千葉禎介、大野源二郎の作品、38点が特別展示されていた。秋田県在住の3人の写真家たちは、1952-71年の木村伊兵衛の秋田滞在に際して案内役を買って出て、行動を共にしていた。たしかに、題材、スタイルにおいて、木村の影響を強く受けていることは否めない。だが、そこには秋田という土地に根ざして活動してきた写真家たちに特有の、被写体との細やかで、息の長いかかわりのあり方が、しっかりと写り込んでいる。木村伊兵衛と秋田の写真家たちとの関係のあり方については、次世代の写真家たちも含めて、あらためてより大きな規模での展覧会が考えられそうだ。

2021/12/28(火)(飯沢耕太郎)

石原友明「蝿とフランケン」

会期:2021/12/04~2021/12/29

MEM[東京都]

石原友明がこのところずっと続けている「自画像」シリーズが、よりスリリングな展開を見せはじめた。2016年にMEMで開催された個展「拡張子と鉱物と私。」では、頭髪をスキャンしたデータをプリントしたり、3Dスキャンした自らの身体の部位をスライスして重ね、再構築したりする作品を発表した。今回の個展では、その作業をさらにエスカレートさせている。

「I.S.M.―代替物」では、3Dプリンタで1.7倍の大きさに拡大した身体のパーツを、あたかもフランケンシュタイン博士が死体をつなぎ合わせて人造人間を作り上げるような手つきで積み上げてみせた。さらに、もうひとつのシリーズ「犠牲フライ」では、死んだ蝿をフィルムの上に無造作に並べてフォトグラムを作成し、それをポジに転換してプリントしている。さらに別室には、皮の球体をつなぎ合わせた自作の彫刻作品を、口からぶら下げるように装着して撮影したセルフポートレート作品「Ectoplasm#4」も展示されていた。

これらの仕事から見えてくるのは、自らの身体を、素材として徹底的に解体・消費・再構築していこうとする石原の志向性である。あたかもマッド・サイエンティストのような、ナルシシズムのかけらもないその作業によって、身体とは、生から死に向かうプロセスの一断面を掬いとった状態でしか提示できないことが多面的、多層的にさし示されていく。スキャナーや3Dプリンタのような、デジタル機器を積極的に使用することによって、以前にも増して自由な発想を形にすることが可能になってきた。まだこの先に、思いがけないやり方で、新たな身体性を開示する表現が出てくるのではないかという期待がふくらむ。

2021/12/23(木)(飯沢耕太郎)

題府基之「untitled(pee)」

会期:2021/11/21~2021/12/25

MISAKO & ROSEN[東京都]

電柱に水の染みといえば、誰でも犬のマーキングを想像するだろう。タイトルにも「pee(おしっこ)」とあるから、そう思うのも当然だ。だがギャラリーの壁に、やや仰々しい大判プレートのフレーミング(129・8×86・4㎝)で展示してある11点の作品は、どうやら「アーティスト本人が放った水」を撮影したもののようだ。プリントの色味や質感もちゃんとコントロールしているのですっかり騙されてしまった。

題府基之はこのところ、家の「内部」から「外」へと被写体の幅を広げている。今回の「untitled(pee)」もその一環といえるだろう。そこに「アーティスト本人」によるパフォーマンスの要素を加えたところに、題府の意欲を感じる。やや小味ではあるが面白味のあるシリーズになった。ただ、コンセプトをあまり厳密に定めすぎると、以前の彼の作品に横溢していた破天荒で勢いのある偶発性が失われ、まとまりのよすぎる仕事になってしまう。そのあたりのバランスの取り方が、今後の課題といえるのではないだろうか。

展覧会にあわせてMISAKO & ROSENから同名の小冊子も刊行された。こちらは「pee」が写っている写真だけでなく、街路の一部を即物的に切り取ったスナップ写真(人影はない)を併載している。その方が、「外」に向ける題府の視点が、よりクリアにあらわれてきているようにも見える。展示でも、内と外の両方の要素の写真を対比的に並べるやり方も考えられそうだ。

2021/12/22(水)(飯沢耕太郎)