artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

澤田華「避雷針と顛末」

会期:2022/04/02~2022/04/29

Gallery PARC[京都府]

若手作家の発表に力を入れてきたGallery PARC。コロナ禍を受け、2020年6月末に展示スペースを閉鎖し、外部での展示企画やオンラインでの作品販売などを手がけていたが、書店やギャラリー、カフェ、印刷工房が入居する複合施設「堀川新文化ビルヂング」に移転して活動再開した。移転後初となる本展では、「夏のオープンラボ:澤田華 360°の迂回」(2020年、広島市現代美術館)での発表作品《避雷針と顛末》が再構成して展示された。

印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに「発見」した「正体不明の物体」が何であるかを検証するため、写真を引き伸ばし、輪郭線を抽出し、トリミングや解像度を変えて画像検索にかけ、3次元の物体として「復元」を試みる。だが「正解」は得られず、「誤読」の連鎖反応により、無数の近似値が増殖していく。澤田華の代表的シリーズ「Blow-up」(引き伸ばし)や「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)は、「写真の明白な意味」を脱臼させ、「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると同時に、印刷物やモニター画面のあいだをイメージが亡霊のように漂い続ける状況を指し示す。また、画像検索やスマートフォンの音声アシスタント機能を検証プロセスに介在させ、「エラー」「誤読」の加速化を呼び込む状況を作り出すことで、私たちが日常的にデジタルデバイスで行なっている情報収集の不確かさや受動性を批評的にあぶり出す。

本展では、こうした手法や問題意識を引き継ぎつつ、検証すべき「不明瞭な何か」が、写真という視覚情報から、「澤田自身が街中で偶然耳にした言葉の断片」という、より非実体的なものに置き換わった。展示会場には、「池田 Everybodyて知ってるか」「だってあの二人手つないだりしてんもん」「なにが終わったん? 人生?」といった、澤田がメモした断片的で脈絡のない言葉が羅列されている。これらをウェブ検索や音声アシスタント機能に入力した「検証結果」が提示される(が、何の役にも立たない)。さらに、「元の会話の文脈」を想像した台本の制作を複数の他者に依頼し、俳優が演じた9本の映像が上映される。「カップルの痴話ゲンカ」「下手な漫才の練習」といったありそうなものから、「地下アイドルの追っかけが高じて、交際相手に脅迫の手紙を送ろうとしたことを友人に告白する男性」といった凝ったシチュエーションや、メモの言葉をそのまま接合した「アンドロイド2人のちぐはぐな会話」に対して、人間が「会話になってない」とツッコむシュールなものまで、差異のバリエーションが発生する。

ここで、本作が写真の検証シリーズと大きく異なるのは、「復元プロセス」を「他者の想像力」に完全に委ねている点だ。「避雷針」として出来事を呼び込んだ澤田は、落雷がもたらした「綻び」を縫合するのではなく、潜在する複数の可能態へと開き、「唯一の現実」の強固さを解体していく。「ただひとつの正しい意味」に収斂しない想像力のためのレッスンは、演劇の持つ批評的な力とも通底しているのではないだろうか。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供:Gallery PARC]



[撮影:麥生田兵吾 写真提供:Gallery PARC]

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2022/04/08(金)(高嶋慈)

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2022「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」

会期:2022/04/09~2022/05/08

HOSOO GALLERY[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の10周年を記念し、日本の若手~中堅の女性写真家10名を集めたグループ展。個展の集合体という性格が強く、濃密な展示が続く。参加作家は、細倉真弓、地蔵ゆかり、鈴木麻弓、岩根愛、殿村任香、𠮷 田多麻希、稲岡亜里子、林典子、岡部桃、清水はるみ。

個展の連続形式ではあるが、共鳴しあうつながりの糸を見出すことも可能だ。例えば、静謐なモノクローム/ビビッドなネオンカラーというテンションの高さは対照的ながら、セルフヌードを通して、性と生殖を痛みの感覚とともに問うのが、鈴木麻弓と岡部桃である。鈴木が不妊治療を諦めた後に開始した「HOJO」シリーズでは、ヌードのセルフポートレートと、商品価値を持たない規格外の形をした野菜の静物写真が並置される。「二本足の人参」の写真は、両腕で自らを抱きかかえ、両脚を投げ出して横たわる女性の身体のように見える。その表面はひび割れ、無数の傷をつけられたように痛々しい。「剥かれた豆のさや」は、「卵子を蓄えた卵巣」のメタファーであると同時に、その数に限りがあることを示唆する。女性ヌードをバイオリンに見立てたマン・レイの《アングルのバイオリン》や、野菜や貝殻など静物の曲線をヌードの官能性に重ねるエドワード・ウェストンなど、「女性ヌード/静物」の二重化の手法は枚挙にいとまがない。鈴木は、そうした写真史の常套手段を戦略的になぞりつつ、女性の身体の一方的なオブジェ化を批判し、むしろ痛みを伴ったものとして書き換える。



鈴木麻弓「HOJO」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


一方、岡部桃は、セクシュアルマイノリティや自身の体外授精を撮った「ILMATAR」シリーズを展示。屏風か巨大な書籍の見開きページのように屹立する二対のパネルには、片側に抱き合う裸の男性、乳房とペニスを持つ人物のヌード、妊娠中のセルフヌード、体外授精の医療現場の光景などが配され、もう片側には廃棄されたゴミ、虫の這うひび割れた多肉植物、砂浜に打ち上げられた魚の死骸などの荒廃したイメージが配される。いずれもピンク、イエロー、緑、赤などの毒々しい色に染められ、さらに空間全体をネオンピンクの色が満たす。祝祭性や刹那性/毒と痛み、生と誕生/死や腐敗が隣り合い、不協和音が包む。だが、その混淆性をまるごと肯定しようとする強い意志が立ち上がってくる。



岡部桃「ILMATAR」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


また、「自然/人工」の境界の線引きや融解を問うのが、𠮷田多麻希と清水はるみである。𠮷田の「Negative Ecology」は、野生の鹿を撮ったネガフィルムの現像失敗を契機に始まったシリーズ。北海道の熊や鹿、鳥類など野生生物を撮ったネガフィルムを、洗剤や歯磨き粉など日用品に使用される薬品類を混ぜて現像することで、画像の損傷が「見えない自然の汚染」のメタファーとなる。清水はるみの「mutation / creation」シリーズは、鑑賞魚や観賞用植物など人工的に作り出されたハイブリッド(交雑種)と、自然界で突然変異が起きた固体を並列化し、両者の弁別の困難さを示す。



𠮷田多麻希「Negative Ecology」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]



清水はるみ「mutation / creation」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


「自然/人工」の境界から、国家や民族の境界について個人史の視線で扱うのが、北朝鮮に暮らす「日本人妻」をテーマにした林典子の「sawasawato」シリーズだ。1959~84年にかけて行なわれた北朝鮮への「帰国事業」では、貧困や差別のなかで暮らす多くの在日朝鮮人が、当時は発展していくユートピアと謳われた北朝鮮に渡った。9万人以上の人々の中には、朝鮮人の夫に同行した約1800人の日本人女性が含まれる。日本の家族や故郷と60年以上も離れて暮らす高齢女性たちを、林は7年間かけて取材した。本展ではその中から3名に焦点を当て、インタビュー映像、故郷の海の写真を見たときの反応、思い出の写真で飾られた自宅の壁の擬似的な再現という異なる手法で展示している。特に後者では、金総書記の写真が掲げられた自宅の壁を背にしたポートレートをよく見ると、同じ壁紙の模様が展示壁に配置されていることに気づく。2つの国で撮られたさまざまな家族写真と、林が撮影した現在のポートレートや室内の光景が混在し、時代感のある額縁と相まって、時間のレイヤーが親密な空間の中に立ち上がる。



林典子「sawasawato」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


また、岩根愛の「A NEW RIVER」は、コロナ禍で迎えた2020年春に、観光客が絶えた夜桜の光景を追って、福島県郡山から、岩手県一関、北上、遠野、青森県八戸までを北上しながら撮影された。強烈な照明を当てられ、禍々しさと表裏一体の美しさで咲き誇る夜桜のパネルの背面には、各地の伝統芸能の舞い手が桜をバックに写され、面や装束をつけて「ヒトならざるもの」に変貌した姿が、死者/生者、異界/現世の境界を曖昧に溶かしていく。



岩根愛「A NEW RIVER」 [© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2022]


このように、それぞれの展示は大変見ごたえがあったが、「女性作家集合枠」には、やはり両義性が残る。「男性中心的な写真界で、発表の機会を積極的に設ける」という意義がある一方、なぜ狭い会場に10人もギュウギュウに詰め込むのか、なぜ「メイン会場」である京都文化博物館の別館ホールや京都市美術館別館は「男性巨匠写真家」が占めているのか、という疑問を大いに感じる。構造を変えようとしているようで、じつは何も変わっていないことが露呈しているのではないか。


公式サイト:https://www.kyotographie.jp/

2022/04/08(金)(高嶋慈)

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竹下光士「GEOSCAPE MTL 中央構造線」

会期:2020/04/05~2022/04/18

ニコンプラザ東京 THE GALLERY[東京都]

竹下光士は2016年ごろから「撮影テーマを地形・地質に絞り、自らを『地形写真家』と名乗る」ことにした。風景を地形学、地質学的に見る写真を撮るということだが、そのユニークな視点は、発見の驚きと歓びを感じさせるものになっていた。

今回のニコンプラザ東京 THE GALLERYに出品されたのは、彼自身が「GEOSCAPE」(商標登録しているそうだ)と呼ぶ写真シリーズの第一弾である。日本列島を東西に貫く中央構造線(Median Tectonic Line=MTL)をテーマとして、「領家変成帯」の白色の花崗岩群と、「三波変成帯」の緑色の結晶片岩群が剥き出しのまま隣り合っている、長野県大鹿村の「安康露頭」にカメラを向けた。「安康露頭」を50枚に分割して撮影したパネル群が正面の壁に展示され、その左右に、それぞれ花崗岩と結晶片岩の組成を持つ日本各地の地形の写真を並べている。それらを見ると、地形学や地質学に関心のあるもの以外には縁の遠いものと思われがちな「中央構造体」の姿が、くっきりと浮かび上がってくる。不可視の存在を可視化することができるという写真の機能を見事に活かした、卓抜なプロジェクトの成果といえるだろう。

それらはたしかに「研究者と一般を繋ぐ架け橋」の役割を果たすものだが、それだけではなく、風景写真としての面白さも充分に楽しむことができる。地形学や地質学の知識を踏まえて風景に対峙することで、新たなものの見方が生まれつつあるのではないだろうか。竹下はさらに塩類の風化を扱った「GEOSCAPE Tafoni」、火山としての富士山をテーマにした「GEOSCAPE Volcano FUJI」も準備中だという。それがどんなものになるのか、大いに期待できそうだ。なお、本展は2022年5月6日~5月18日にニコンプラザ大阪THE GALLERYに巡回する。

2022/04/07(木)(飯沢耕太郎)

深沢次郎「よだか」

会期:2022/04/07~2022/04/28

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

深沢次郎は、3年前に「親友」を失った。9年前に事故で左目を失明し、5年前には脳梗塞で半身麻痺となった彼の死をきっかけとして、深沢はその記憶を辿り直すように、ともに過ごした長野県の山中に踏み込んでいった。今回、コミュニケーションギャラリーふげん社で展示され、同名の写真集も刊行された「よだか」は、そのようにして形をとっていった写真シリーズである。

小説家、俳人でもあった彼が生業としていた炭焼きの炎、冷たく結晶する氷柱、鹿狩りの血の色、そして満天の星──深沢がそこで目にしてカメラを向けた森羅万象が、友の死の影を纏っているように見えてくる。とはいえ、それらはまた、みずみずしい再生の気配を漂わせるイメージと隣り合っており、両者が渾然一体となって、深みのあるレクイエムが聞こえてくるように織り上げられていた。

会場構成も、作品の内容とよく釣り合っており、大小の写真を、共振するように壁にちりばめている。どこか教会を思わせるふげん社のギャラリー空間がよく活かされていて、隅々まで深沢の張り詰めた造形意識が行き届いた展示だった。深沢は2009年にPGIで個展「In the Darkness」を開催するなど、力のある写真家だが、このところあまり積極的に作品を発表していなかった。「よだか」はその意味で、ひとつの区切りとなる仕事といえるだろう。その死生感。自然観を充分に発揮できる環境が整いつつあるのではないだろうか。

2022/04/07(木)(飯沢耕太郎)

豊吉雅昭「MONOCLE VISION」

会期:2022/04/04~2022/04/16

Art Gallery M84[東京都]

豊吉雅昭は緑内障という難病に罹り、左目の視野をほとんど消失した。今回Art Gallery M84で展示された「MONOCLE VISION」は、その彼が「見えない自分の視界を表現すること」をめざして、2016年開始したシリーズである。「目が霞む」「信号はどこに」「乱れた映像」といった直截なタイトルを付した作品群では、都市風景をモザイク状に切り刻み、再構築している。いつか完全に失明してしまうのではないかという不安感に裏打ちされたそれらの画像は、切実な緊張感を湛えており、見る者を豊吉の視覚世界に引き込んでいく強度を備えていた。最初は道ゆく人などをブラして撮影していたのだが、逆にピントをシャープにすることを心がけ、ネガ画像なども積極的に取り込むことで、彼の意図がよく伝わる写真シリーズとなったのではないかと思う。

豊吉がこのシリーズを撮影し始めたきっかけは、神経系の病で指が動かなくなり、7本の指だけで演奏を続けているピアニスト、西川梧平と出会ったことだった。西川が自分の病気を「ギフト」と称していることに強い共感を抱いたのだという。確かに、身体的なハンディは表現者にとって大きなリスクとなるが、逆に創作活動の幅を広げ、思いがけない可能性を拓く場合もある。豊吉の作品が、これから先どんなふうに変わっていくのかが楽しみだ。

2022/04/07(木)(飯沢耕太郎)