artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

寺田健人「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」

会期:2022/05/20~2022/06/05

BankART KAIKO[神奈川県]

家族とは、父親とは何か。写真作家・寺田健人による「想像上の妻と娘にケーキを買って帰る」は、寺田自身が「『普通』の『規範的』な家族を持つ父親を演じ、一人で」撮った家族写真を中心に構成されている。なるほど、あたかも誰かと手をつないでいるかのような立ち姿でシンデレラ城の前にひとり立つ寺田を写した《夢の国》と題された写真ではじまるこの展示において、寺田は確かに一見したところ「『普通』の『規範的』な」父親を演じているように見える。そこに「家族」の姿はないが、《夢の国》の隣に幼少の頃の寺田自身と家族を写したと思われる一連の写真が置かれていることもあり、鑑賞者は寺田ひとりを写した写真の空白部分に、まずは自然と「『普通』の『規範的』な家族」の姿を想像するだろう。そうして想像される家族像は寺田の演じる「『普通』の『規範的』な」父親像と互いを補完し合うものだ。しかし、その想像の妥当性は展示を観進めるうちに揺らいでいくことになる。


[撮影:寺田健人]


(間に絵画作品を挟んで)寺田自身の家族写真に続くのは《泡風呂、やんちゃな娘》《公園、娘》《ピクニック、妻、娘》の3枚。《泡風呂、やんちゃな娘》の隣に《父とあたしのバスタイム》と題された寺田と父の入浴を写したらしい写真が並んでいることもあり、「『普通』の『規範的』な家族」像はここでさらに補強される。だが、それらが展示された壁面の手前に置かれた映像作品《パパごと、ママごと、むすめごと》を見た後で再び《泡風呂、やんちゃな娘》に目を向けてみれば、そこに「父親」の枠内に収まりきらない何かが写ってしまっていることはほとんど明らかなように思える。

タイトルも秀逸な《パパごと、ママごと、むすめごと》。そこに映し出される寺田もまた、写真作品と同じように父親を演じているように最初は見える。だが、やがて寺田が口紅やマニキュアを塗っている場面が映し出され(しかもその周囲には女児向けの玩具らしきものが転がっていたりもする)、鑑賞者は自身の想像に修正を迫られる。寺田はタイトルの通り母親と娘も演じているのだろうか。しかし口紅を塗る寺田は男物のスーツを着てもいる。ならば父親や母親の真似をしている娘を演じているということか。などと考えてみるが、もちろん父親が口紅を塗ってもいいし母親が男物のスーツを着ていてもいい。女児向けとされている玩具で男児が遊んだっていいのである。多様に開かれているべきなのは映像の解釈ではなく、現実を生きる人間のあり方のはずなのだ。映像が映し出されているのがブラウン管テレビだというのも批評的だ。そこではリビングの中心に置かれステレオタイプの形成に大きく寄与してきたメディアを通してステレオタイプを揺さぶることが目論まれている。


[撮影:寺田健人]


さて、《パパごと、ママごと、むすめごと》から再び《泡風呂、やんちゃな娘》に目を向けると、そこに写っているのは泡だらけの浴槽に入り、飛沫を避けるようなポーズで目をつぶった寺田の裸体だ。その表情や頭に乗せた泡、浴槽の縁に置かれたアヒルのおもちゃはいささか、いや、かなり「あざとい」。一旦それに気づいてしまえば、タイトルにある「やんちゃな娘」は寺田自身のことのように思えてくる。そういえば、作品タイトルに含まれる一人称には「僕」と「あたし」で揺れがあるのだった。


[撮影:寺田健人]


その向かいの壁面に置かれた《パパのお祈り》《パパのプロレス》《パパはトランクス派》の3枚も奇妙な写真だ。いずれも顔が写っていない盗撮風の写真で《お祈り》は男が便器に座る姿を、《プロレス》はベッドの上で上半身裸の背中が何かにのしかかっているような姿を、《トランクス派》は脱衣所で下着姿でいるところを捉えている。顔がないのはそれらが父親から逸脱した瞬間だからだろうか。写真自体には「父親」を示す記号はどこにもない。どこかゲイ向けのポルノのような趣もある、と思ったら、これらの写真のフレームにはまるでこびりついた欲望のように無数の目玉のシールが貼り付けられていた。


[撮影:寺田健人]


その隣には展示タイトルにもなっている、ケーキを買って帰宅した父親を演じる寺田を写した《ただいま》シリーズの3枚(とその絵画版とでも言うべき《くまさんのただいま》)が並ぶ。だが、ここまで展示を見れば、そのステレオタイプな父親像がほとんど何も意味してはいないことが明らかだ。ケーキを掲げた寺田が笑顔を向ける先にいるのは妻と娘であるとは限らない。たとえそこに写っているのが実在の「規範的な父親」だったとて、家族が規範的であるとも限らないしその必要もない。むしろ、現実の「父親」が無批判に「規範的な父親」をなぞるならば、その家族は形骸化の危機にさらされているとさえ言えるだろう。そこにある批評的なまなざしはもちろん、家族かくあるべしという規範を個々人の生き方に押しつけようとする社会の制度にも向けられている。

今回の個展は「BankART Under 35 2022」の一環としてBankART KAIKOで6月5日(日)まで開催されている(熊谷卓哉の個展と同時開催)。


BankART Under35 2022:http://www.bankart1929.com/bank2022/pdf/u35_2022.pdf

2022/05/26(木)(山﨑健太)

田凱「モニタリング」

会期:2022/05/10~2022/05/22

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

中国出身で、2018年の第19回写真「1_WALL」でグランプリを受賞した田凱は、その後もコンスタントに個展を開催し続けている。その度ごとに、異なるテーマ、視点で作品を発表しており、写真家としての懐の深さを感じる。

今回は、監視カメラという現代的なテーマを取り上げた。田凱の認識によれば、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で言及したパノプティコン(全展望監視システム)に代表される「規律社会」は既に解体してしまった。それに代わって多視点的な「管理社会/監視社会」のシステムが強化されつつある。街角に設置されている監視カメラは、そのシンボルといえるだろう。今回の展示では、実際に監視カメラをクローズアップで、あるいは距離を置いて捉えた写真群に加えて、部屋の中を滑らかに移動するカメラ(明らかに監視カメラの動きを意識している)で撮影した画像を、小石をちりばめたスクリーンに投影するという映像インスタレーションも出品していた。

狙いはよくわかるし、日本よりさらに監視システムが大きな役割を果たしている中国出身の田にとっては、切実なテーマであることが伝わってくる。とはいえ、全体的にはまだスケッチの段階であることは否めない。より鋭角的、批評的に「管理社会/監視社会」を浮かび上がらせていく仕掛けを、多元的に構築する必要があるだろう。このシリーズは、まだ完結し切れていないところに、逆に可能性を感じる。

関連レビュー

田凱「取るに足らないくもの力学」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年10月01日号)

2022/05/20(金)(飯沢耕太郎)

岸幸太「Vietnam Street」

会期:2022/05/17~2022/06/04

photograpers’ gallery[東京都]

岸幸太は、長期にわたって撮影していた釜ヶ崎、山谷、寿町などの「ドヤ街」の人とモノの写真群をまとめた大作『傷、見た目』(写真公園林、2021)を写真集にまとめてから、photograpers’ galleryで、カラー写真による「連荘」シリーズを発表し始めた(2021年7月、2022年1月)。だが、2017年からは、「Vietnam Street(ベトナム通り)」と題するもうひとつの写真シリーズにも取り組んでいる。

「ベトナム通り」といっても、ベトナムで撮影しているわけではない。「ベトナム通り」とは、沖縄本島の嘉手納基地を貫くように走る、沖縄市道知花38号の通称である。週末には道にフリーマーケットの露店が並び、ベトナムの街路を彷彿とさせるのでそう呼ばれるようになった。道の片側には基地のフェンスがあり、黙認耕作地と呼ばれる農地も広がっている。とはいえ、岸はこの道の特異性を強調して撮影しているわけではない。牛舎、豚舎、産業廃棄物処理工場、自動車関連工場などもある、そのどちらかといえば殺風景な光景は、むしろ日本のどこにでも見られるもののようだ。

会場には、横位置のカラー写真31点と、大判プリントに引き伸された黒白印画3点が淡々と並んでいた。このような素っ気ない撮り方の写真を積み重ねていくことで、厚みのある視覚的なアーカイヴが形をとっていくのではないかと思う。ある意味では日本の風景の縮図ともいえる「Vietnam Street」が、どのような眺めに組織されていくのかを、もう少し長いスパンで見てみたい。

関連レビュー

岸幸太「連荘 1」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
岸幸太『傷、見た目』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年06月01日号)

2022/05/20(金)(飯沢耕太郎)

アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真

会期:2022/05/20~2022/08/21

東京都写真美術館3階展示室[東京都]

日本の1930-40年代の写真の動向にスポットライトを当てた展覧会が、ここ数年、相次いで開催されている。福岡市美術館の「ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画」(2021)、名古屋市美術館の「『写真の都』物語 —名古屋写真運動史:1911-1972—」(2021)などがそうだが、東京都写真美術館でも2018年の「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」展に続いて本展が開催された。

欧米のモダニズム的な写真の傾向を積極的に取り上げた「新興写真」は、やや「直訳模倣」の面があり、昭和10年代(1935~)になると、早くも「行き詰り状態」を呈する。それに代わって、シュルレアリスムやアブストラクト(抽象)絵画の影響を取り入れつつも、日常の中に潜む魔術的、幻想的な要素を写真本来の描写力を用いて明るみに出そうとする「前衛写真」が、大阪(関西)、名古屋、福岡、東京などで花開くことになる。本展には安井仲治、小石清、河野徹、本庄光郎、平井輝七(以上、大阪)、坂田稔、山本悍右、後藤敬一郎、田島二男(以上、名古屋)、高橋渡、久野久、許斐儀一郎(以上、福岡)、瑛九、永田一脩、恩地孝四郎(以上、東京)などの作品が並んでいた。「前衛写真」の発想の源となった、同時代のヨーロッパの写真家たちの作品も含めて、これだけの質量の仕事を一堂に会するのはめったにないことなので、それだけでも貴重な機会といえる。

ただ、そこから何か新たな方向性が見えてくるかといえば、そうでもなかった。準備期間が短かったこともあり、やや総花的な顔見せ展になってしまったことは否定できないだろう。今後はその前史といえる「新興写真」、さらに戦後における展開と見るべき1950年代の「主観主義写真」も含めて、より包括的な枠組みの展示が必要になってくるのではないだろうか。

関連レビュー

「写真の都」物語 —名古屋写真運動史:1911-1972—|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年04月01日号)
ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年03月01日号)
『光画』と新興写真 モダニズムの日本|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年04月15日号)

2022/05/19(木)(内覧会)(飯沢耕太郎)

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Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限 」vol.1 横山大介「I hear you」

会期:2022/04/26~2022/06/12(会期延長)

kanzan gallery[東京都]

必然性と切実性が感じられ、作者の思いが伝わってくるいい展覧会だった。1982年、兵庫県生まれの横山大介は、吃音の障害をもちつつ写真家としての活動を続けている。彼にとって、「他者に声をかけ、向き合い、カメラをとおして他者を見つめ、見つめ返される」ポートレート写真を撮影するという行為は、「会話以上の他者とのコミュニケーションになる」ものだという。今回のkanzan galleryでの個展には、2011年から続けている写真シリーズ「ひとりでできない」から、11点を出品していた。

写真の多くは、まさに「見つめ、見つめ返される」あり方を、シンプルかつストレートに提示したものだ。とはいえ、距離感や構図は一定ではなく、それぞれの被写体に対応して細やかに配慮している。なかに一点だけ、和室にあぐらをかいて座っている初老の男性を写した写真があって、他の写真とやや異質な眼差しのやりとりを感じた。もしかすると、近親者なのかもしれないが、キャプションが一切ないので、観客にはモデルのバックグラウンドはよくわからない。だが逆に、この人は何者なのかと想像する余地があることで、ポートレートに深みと奥行きが備わってくる。写真の選択、プリントの大きさ、レイアウトの決定なども含めて、横山の丁寧な写真展の構築の仕方が印象深かった。ぜひ写真集にまとめてほしい仕事だ。

会場には、もう一作、三島由紀夫の『金閣寺』、重松清の『きよしこ』、金鶴泳の『凍える口』など、「吃音の描写が印象的な文学作品」をいろいろな人に初見で読んでもらうというパフォーマンスを記録したビデオ映像作品「身体から音が生まれる」も出品されていた。48分15秒という上映時間はやや長過ぎるが、見応え、聞き応えのある作品である。

2022/05/17(火)(飯沢耕太郎)