artscapeレビュー

2016年06月01日号のレビュー/プレビュー

薬草の博物誌 ──森野旧薬園と江戸の植物図譜──展

会期:2016/03/03~2016/05/21

LIXILギャラリー

森野旧薬園は奈良・大宇陀にある日本最古の私設植物園。江戸幕府8代将軍徳川吉宗が推進した薬種国産化政策の一端を担うものとして、享保14年(1729年)に森野初代藤助通貞(賽郭)が開設した。森野家は450年に渡って葛粉の製造を生業としてきた家で、同時に現在に到るまで子々孫々薬園の維持管理を行ってきた。賽郭は幕府の薬草調査に協力した功により外国産薬種の種苗を下賜され、薬種の育成・栽培を行うほか、薬学・博物学の祖である本草学を修め、晩年には植物・動物1003種を描いた『松山本草』を完成させた。門外不出であったこの『松山本草』全10巻は、大阪大学によってデジタル化されている。本展では、森野旧薬園とこの『松山本草』を導入に、江戸期の植物図譜の発展と、明治期以降の近代植物学への展開をみる。
本展と重なる期間にパナソニック汐留ミュージアムで展示されていたイギリス・キュー王立植物園所蔵のボタニカルアートと江戸の本草書を比べると、前者は美術作品としての完成度が高いのに対して、後者ははるかに実用性が重視されている様子がうかがえ、また薬種として重要な根が丁寧に描かれていたり、植物以外に動物も描かれている。日本の本草学が薬学から始まり博物学的な様相を呈していたことを考えれば、この違いは当然。本展は最後に牧野富太郎が本草学と近代植物学の架け橋となったとするが、描かれてきたものの違いを見れば、これは東洋の本草学を西洋的な植物学の文脈に無理やりに当てはめようとしているように見える。また牧野富太郎以外、明治以降の日本の植物学に本草学がどのように影響したのかについて、本展では示されていない。歴史的に連続しているのか断絶なのか、はたまた本草学は薬学や博物学といった別の体系に組み込まれていったのか。疑問が残る。[新川徳彦]

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2016/05/10(火)(SYNK)

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人造乙女美術館

会期:2016/04/26~2016/05/22

ヴァニラ画廊[東京都]


ラブドールの展覧会。同画廊は、この分野の最大手であるオリエント工業が制作したラブドールの展覧会を4回催してきたが、今回は美術史家の山下裕二を監修に迎え、日本画とラブドールのコラボレーションを実現させた。日本画家の池永康晟による《如雨露》に描かれた女性をモチーフにした作品をはじめ、7体のラブドールが展示された。
注目したのは、やはり立体造形の技術的な完成度。頭と首を接合するうなじに不必要な線が入っていたり、着物がいかにも安っぽかったり、いくつかの難点が見受けられたにせよ、それでも人体の忠実な再現性という点では、いまやラブドールの右に出る造形はないのではないか。そのことをもっとも実感するのが、肌の質感である。これまでの展覧会と同様に、すべてではないにせよ、来場者は展示されたラブドールを部分的に触ることができた。
その質感を正確に形容することは難しい。むろん人肌そのものとは言えないが、だからといって機械的な無機物というわけでもない。ただ、その独特の質感は、ラブドールを性的な愛玩具という機能を超越する何ものかにさせているように思えてならない。今日のラブドールは、ある種の立体造形として正当に評価されるべきではないか。
しかしラブドールへの偏見は根強い。同展で来場者に配布されたパンフレットに掲載されたオリエント工業の造形師やメイクアップアーティストへのインタビューには、ラブドールがそのような日陰者的な扱いを受けていたことが記されているし、何より彼らの顔写真で顔が伏せられていることからも、その穿った見方が依然として持続していることを如実に物語っている。
ただ立体造形としてのラブドールの評価を妨げているのは、社会的な視線だけではない。ラブドールの造形そのものの内側にも、その要因は折り畳まれている。例えば、顔面や身体のプロポーションの面で、少なくともオリエント工業のラブドールには、ある一定の偏りがあることは否定できない。ロリータフェイスと豊満なボディの組み合わせは、ラブドールに求められる機能を満たすうえでの必要条件なのかもしれないが、これが定型的なイメージをもたらしていることもまた事実だ。顔の印象を大きく左右するメイクにしても、どういうわけかみな同じようなメイクに見える。ようするに、ラブラドールにはほとんど多様性が認められないのである。
人間の生活や身体と密着した造形。近代美術が見失ってしまった造形のありようを、ラブドールが実現していることは疑いない。その可能性を育むには、ラブドールの定型を打ち砕く、造形的な挑戦が必要ではなかろうか。

2016/05/13(金)(福住廉)

Sarah Moon 12345展

会期:2016/04/21~2016/06/26

何必館・京都現代美術館

マット・ペーパーにセピアを組み合わせた幻想的な写真で知られる写真家、サラ・ムーンの展覧会が、同名の写真集の日本語版出版を記念して開催された。写真集『Sarah Moon 12345』は、モノクロ写真の3冊、出版当時の新作カラー写真の1冊、そして彼女の初監督映画作品『Mississippi One』(1991)の写真とDVDを収めた1冊からなる5冊組。フランスで出版されたもっとも優れた写真集に贈られるナダール賞を2008年に受賞した写真集である。会場の何必館・京都現代美術館は、2002年には写真集『Sarah Moon』の出版を記念して「過ぎゆく時 サラ・ムーン」展を、2004年にも写真集『CIRCUS』の出版を記念して同名の展覧会を行なった、特にサラ・ムーンと縁がある美術館。今回の展覧会には、同館のコレクションから厳選した作品が出品された。
サラ・ムーンといえばファッション写真家の印象を持つ人も少なくないだろう。彼女は10代の頃からモデルとして活動し、モデル仲間を撮影することから写真を撮りはじめ、29歳で写真家に転身したという経歴の持ち主。1980年代にはシャネルやラクロワ、ミヤケイッセイのファッションを撮影した彼女の写真が『Italian Vogue』誌や『Elle France』誌の紙面を飾り、キャシャレルの宣伝映像やコム・デ・ギャルソンのキャンペーン写真にも採用された。その後、ファッションの世界からギャラリーや映画館に活躍の場を移してきた。
今回の展覧会のテーマは、古いものと新しいもの、ファッションとランドスケープなど、相反するものの関係性だという。幾重にもぶれた輪郭、写真上に焼き付けられたフィルムのフレーム、浅い奥行き、ノスタルジックなモノクローム、または赤と緑が印象的な滲んだような色彩、彼女の写真の特徴はどの写真でも変わらず一貫している。古いものも新しいものも、ファッションもランドスケープも、どの写真を見ても画面には実在感がなくまるで物語の世界の視覚のように非現実的に見える。そういえば、写真集『CIRCUS』は童話「マッチ売りの少女」を写真と文章で綴った作品だったし、写真集『オーデルヴィルの人魚姫』(2007)は童話「リトル・マーメード」をもとにしていた。本展にも童話「赤ずきんちゃん」から発想をえた「黒ずきん」シリーズの写真と映像が出品されているが、可憐な少女に男の影が迫るというわりと現実味のある設定が画面の幻想的な雰囲気を不安と恐怖に変えている。一見幸せな夢の世界を描いているかのような童話も、実はとても残酷で猟奇的だったり悲惨だったりすることもある。サラ・ムーンの写真もまた、そうした二つの世界を映した、静かで深い鏡のようであった。[平光睦子]

2016/05/14(土)(SYNK)

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森村泰昌:自画像の美術史 ─「私」と「わたし」が出会うとき─

会期:2016/04/05~2016/06/19

国立国際美術館

大阪を拠点に活動する美術家、森村泰昌の大規模個展である。世に知られた数々の自画像をテーマに森村が画家や美術家に扮した作品、130点あまりが出品されている。ゴッホ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ファン・エイク、カラヴァッジョ、レンブラント、フェルメール、ダリ、マグリット、ゴヤ、フリーダ・カーロ、ウォーホル、シンディ・シャーマンなど、そうそうたる美術家たちの自画像が並んだ。
森村の作品を初めて見たのは《肖像(ゴッホ)》(1985)だったと思う。世に認められないまま自ら命を絶った悲劇の画家ゴッホ。耳を削ぎ落とした姿の自画像はあまりにも有名だ。そのゴッホに森村が扮して撮影したわけだが、当初は仕掛けも撮影方法もよく理解できず、有名な絵のパロディといった程度に受け止めていた。その後作品の意図や制作の労苦を知るようになっても、彼の作品にとって諧謔が欠くべからざる重要な要素であるには違いないと思っていた。その考えが180度一転したのは、ベラスケスの《ラス・メニーナス》をモチーフにした「侍女たちは夜に甦る」シリーズ(2013)を見た時だった。絵画がまだ一部の貴族階級だけに許されたメディアだった時代、絵画の内の世界と外の現実世界とが額縁を境界に確固として隔絶されていた頃、そのお約束を玩ぶかのようなあの問題作をとりあげて、森村は二次元を三次元に還元しただけでなく、美術館という芸術の殿堂をして空っぽの遺構にしてみせたのである。ここに至って初めて、彼の作品にみられた数々の挑戦は微塵たりとも笑いごとではなかったのだと気づかされた。本展のために制作されたヴィデオ・インスタレーション《「私」と「わたし」が出会うとき ─自画像のシンポシオン─》(2016)のなかで、森村は自身の行ないを”絵画殺し”と呼んでいる。これは、絵画を空間に置き換え撮影して再現するという制作方法自体を指しているのかもしれない。しかし、「侍女たちは夜に甦る」シリーズがあの《ラス・メニーナス》は美術館という近代的な空間に収まりきらないことを示しているのだとしたら、その意味では絵画を「美術」の呪縛から解放したといえるのではないか。言い換えれば「絵画の再生」ではないか……。とはいえ、森村は文字通り身を挺して美術作品を制作し続け、依然として彼の作品は美術館の壁を飾っている。本展では、森村の美術への執拗なまでの情熱と先達の画家たちへの深い愛情をあらためて感じることができた。[平光睦子]

2016/05/14(土)(SYNK)

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ルーベン・サルガド・エスクデロ写真展 SOLAR PORTRAITS

会期:2016/05/07~2016/06/26

Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]

スペイン出身で、10代をアメリカで過ごし、ベルリンでビデオゲーム会社の3Dゲーム開発に携わった後、仕事を辞めてドキュメンタリー写真家になったルーベン・サルガド・エスクデロ。彼は東南アジアやアフリカの発展途上国に赴き、ソーラーパネルで電力供給を行なうプロジェクトに携わっている。本展の作品は、人々が電力の恩恵にあずかった瞬間を撮影したものだ。といっても作品はスナップ写真ではない。計算された構図と配置による肖像あるいは群像写真であり、電力がもたらした照明のハイライトもあって、崇高かつドラマチックな仕上がりになっている。このプロジェクトは『ナショナルジオグラフィック』誌で取り上げられたほか、2015年の「ソニー・ワールド・フォトグラフィ・アワード」でもポートレイト賞を受賞しているとのこと。今回の個展がなければ、私は彼の存在を知ることはなかっただろう。機会を与えてくれた画廊に感謝するとともに、美術館やアートセンターでも彼の個展が行なえないものかとも思った。

2016/05/15(日)(小吹隆文)

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