artscapeレビュー
2018年05月15日号のレビュー/プレビュー
ミリアム・カーン「photographs」
会期:2018/03/10~2018/05/12
ワコウ・ワークス・オブ・アート[東京都]
ミリアム・カーンは1949年、スイス・バーゼル出身の女性アーティスト。ユダヤ系の出自や、フェミニズムをバックグラウンドにしながら、外界と内面世界の狭間で形をとる幻想的なドローイングで知られている。WAKO WORKS OF ARTでの展示は3回目で、2012年の個展のタイトルは「私のユダヤ人、原子爆弾、そしてさまざまな作品」で、前回2016年のタイトルは「rennen müssen 走らなければ」だった。
カーンは1979~80年頃から「自分のアーカイブ」として自作を写真で撮影するようになった。その後、1990年代にスイスの山中のブレガリアで暮らすようになると、身近な環境や、ハイキングの途中で出会った景色を「ローライの小さなカメラ」で撮影し始めた。近年はデジタルカメラを使って、「チープなプリンター」で出力したりすることもある。今回の展示には、そうやって撮影・プリントされた写真が単独で、あるいはドローイングと組み合わされて並んでいた。また、画像を連続的にモニターで上映するインスタレーションもあった。
ドローイングと比較すると、カーンの「photographs」は、軽やかな「思いつき」の産物に見える。プリントのクオリティにはあまりこだわらず、写真を自由に並べることで、イメージ相互の響きあいを楽しんでいる。写真にさらに色鉛筆で加筆した作品もある。まだドローイングと写真との関係性が突き詰められているわけではないが、ユニークな作品世界に成長していきそうな予感を覚えた。この方向を極めていけば、ゲルハルト・リヒターやサイ・トゥンブリーのように、「写真家」としても高い評価を得るようになるのではないだろうか。
2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)
ライアン・マッギンレー「MY NY」
会期:2018/04/06~2018/05/19
小山登美夫ギャラリー[東京都]
ライアン・マッギンレーは2003年に、25歳でニューヨークのホイットニー美術館で個展「The Kids Are All Right」を開催した。その伝説的な展覧会が、2017年にデンバー現代美術館で再現され、同名の写真集がSkira Rizzoli Publicationsから刊行された。今回の小山登美夫ギャラリーでの展示は、そのなかから約10点を選んで再構成したものである。あわせて、彼が当時使っていたポラロイドカメラや、ヤシカのコンパクトカメラも展示してあった。
ニュージャージーからニューヨークに出てきた1996年以来、マッギンレーは「身近なボヘミアン的な環境」で出会った人物たち`を、取り憑かれたように撮影し続けていた。一晩でフィルム20~40ロールを撮ることもあったという。そんな撮ることの歓びと恍惚、逆にそのことがオブセッションとなっていくことへの不安や苦痛とが、この時期の彼の写真には両方とも刻みつけられている。
マッギンレーは、ホイットニー美術館の個展の大成功で一躍アート界の寵児となり、その後コンスタントに力作、意欲作を発表していった。だが、「The Kids Are All Right」に脈打っている切迫した感情は、それ以後の作品では次第に失われていったように見える。今回展示された、血と精液の匂いがするスナップ写真やポートレート(セルフポートレートを含む)を、脱色して小綺麗にすることで、写真の世界を生き延びていったわけだ。それを頭ごなしに否定する必要はないだろう。だが、今回展示された作品を見ると、別な選択肢もあったのではないかとも思ってしまう。
2018/04/11(水)(飯沢耕太郎)
ナイロン100℃ 45th SESSION「百年の秘密」
会期:2018/04/07~2018/04/30
本多劇場[東京都]
俳優が複数の役をこなしながら、2人の女性をめぐる三世代にわたる長いスパンを描く物語の再演である。まずオープニングの演出に目を奪われる。ベイカー家の邸宅の舞台セットに対し、矢継ぎ早に重要なシーンの映像が断片的に投影され、観客は謎めいた言葉を受けとってから物語が始まるからだ。なお、この段階では、まだ俳優が演じている映像を見ており、のちに実際にその場で演じている場面に遭遇する。この演劇自体が時間の軸をシャッフルしながら進行するのだが、それを高密度に圧縮したというべきか。例えば、前半で描かれる数日は、幾度か時間が大きくジャンプし、ベイカー家が没落したことはわかるが、いくつかのミッシング・リンクを残したまま、休憩に入る。そして再開した後半に欠けていたパズルのピースを埋める数日のエピソードが入るという、物語的な吸引力を最後まで持続させる巧みな構成である。
空間の表現として興味深いのは、前庭にある大きな楡の木を舞台の中心、すなわち邸宅のリビングに据えていることだ。それゆえ、舞台転換することなく、同じ場所が室内、もしくは前庭として使われる。最初はいささか戸惑うが、慣れると気にならなくなる。いわば同じ空間が内部/外部であり、二重化されている。建築では不可能な、演劇ならではの空間の魔術だ。もちろん、楡の木は室内にあるわけではないが、「百年の秘密」の物語において重要な存在であり、これは精神的な大黒柱だろう。いや、もうひとつの語らぬ主人公と言えるかもしれない。また冒頭において邸宅の隅々に住人と来訪者たちの記憶が染みついていることが暗示されていた。長い年月が過ぎていくなかで、最初の登場人物は老い、子供や孫の代に受け継がれ、やがて死んでいく。変わらないのは、邸宅と楡の木だけである。そう、「百年の秘密」とは、これらが見守ってきた物語なのだ。
2018/04/14(土)(五十嵐太郎)
KYOTOGRAPHIE 2018 小野規「COASTAL MOTIFS」
会期:2018/04/14~2018/05/13
堀川御池ギャラリー[京都府]
白い巨大な壁が、海と陸地を隔て、自然と人間の住む世界のあいだに境界線を築いていく。その真新しい白さと屹立する巨大さが、風景のなかで異物感を際立たせる。小野規は、東日本大震災後、岩手・宮城・福島各県の沿岸部に建設されつつある、高さ10m以上、総延長400kmにおよぶコンクリートの防潮堤を2017年夏に撮影した。
広大なスケール感と幾何学的構成美を兼ね備えた小野の写真は、現在進行形で建設中の防潮堤=壁のさまざまな側面を鋭く切り取っていく。波立つ海から住宅地や畑を分離し、自然/人間、海/陸の連続性を断ち切り、境界線を可視化するものとしての防潮堤=壁。漁港を要塞のように取り囲む幾何学的な形態の威容。住宅地のすぐ向こうに垣間見え、隣家との塀のような平凡さで向こう側の風景を遮断していく壁。なだらかな斜面に広がる畑の先に続く漁港と、その穏やかな眺望を視界から消していく壁。「日常のすぐ隣に侵入してくる防潮堤=壁」が、風景を「遮断」していく様が冷徹な眼差しで切り取られる。
また、海沿いの崖の隆起した地層と対比的に撮影された防潮堤は、湾曲/人工的な直線という視覚的対比を強調し、地層の湾曲にかけられた地圧すなわち地震の巨大なエネルギーを示唆する。黒ずんだ以前の防潮堤と、その何倍もの高さでそびえ立つ真新しい壁の対比は、技術力の誇示か、繰り返される自然災害に対する人間の無力さの証明か。さらに、このモニュメンタルな壁の幾何学的な色面、その「白」という色の虚無的な広がりが風景を消去していく様は、震災の記憶の忘却に対する暗喩的事態でもある。
KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp
2018/04/15(日)(高嶋慈)
KYOTOGRAPHIE 2018 森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」
会期:2018/04/14~2018/05/13
堀川御池ギャラリー[京都府]
タイトルの「Sanrizuka」は、1960年代後半に成田国際空港の建設予定地となり、地元農家や学生らが激しい抵抗運動を繰り広げた千葉県の農村地域「三里塚」を指す。森田具海は、かつて熾烈な「三里塚闘争」が行なわれたこの地の現在の姿を、4×5の大判カメラで淡々と写し取っていく。それは、長閑な野原や林のなかに異物として突如現われ、境界線を可視化し、視界を塞いでいく「壁の生態学」とも言えるものだ。植物が生い茂り、サビが浮き、歳月を物語る壁。何重もの金網フェンスが張り巡らされ、管理と排除の力学で覆われた一帯。至近距離で真正面から撮られた壁は、文字通り目の前に立ち塞がる威圧感を与えるが、荒涼とした野原に建つ壁をやや遠望に捉えたショットは、どこか空虚な印象を与える。辺りは無人だが、ある壁の上部にはよく見ると監視カメラが設置され、私たちは壁によって常に「見られている」。土地に引かれた境界線を物理的な障壁として顕現させ、国家や資本主義といった権力を可視化する装置として機能させる政治学が、ここではつぶさに観察されている。
また、展示に際して森田は、2つのインスタレーション的な仕掛けを施した。1点目は、空港建設反対運動に参加した人々が発したスローガンを、当時用いられた字体のまま、壁面に掲げている。だが、白い壁に白い文字で記された抵抗の言葉は見えづらく、「かつて」の記憶への接近の困難そのものを指し示すかのようだ。また、2点目として、展示室内に実物の金網フェンスを用いて四角い囲いを出現させ、その壁面をぐるりと一周するように写真を展示している。だが、この展示方法は両側面があるのではないか。インパクトがあって分かりやすい反面、「壁」が物理的に出現することで、写真自体の喚起力を削いでしまうのではないか。目の前の、仮設的なフィクションとして存在する「この」壁は、三里塚に建つ「あの」壁の代理=表象とはならない。むしろ、写真自体が、個別的な対象を写しつつ、世界中に無数に存在する壁や境界線へと拡張可能な喚起力を持つべきだろう。
KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp
2018/04/15(日)(高嶋慈)