artscapeレビュー
2018年09月01日号のレビュー/プレビュー
画廊からの発言 新世代への視点2018
会期:2018/07/23~2018/08/04
ギャラリー58+コバヤシ画廊+ギャラリーQ+ギャラリイK+ギャルリー東京ユマニテ+ギャラリー川船+ギャラリーなつか+藍画廊+ギャルリーSOL[東京都]
熊谷で最高気温を更新する41.1度を記録したクッソ暑いなか、銀座・京橋の画廊巡り。ギャラリー58の渋川駿は、キャンバス布に内臓を描いて壁に100点ほどびっしりと張り巡らせ、床に古着を散乱させている。なにこれ? コバヤシ画廊の滝本優美は、S100号のキャンバスに絵具をベッタリつけた一見抽象画、でもよく見ればどれも風景画的な作品を6点。近所の風景だそうだ。ギャラリーQの清水香帆は、いまどきありがちな威勢のいいタッチと明るい色彩の絵画。ギャラリイKの鯉沼絵里子は、半透明のアクリル板を雲形に切って天井から吊るしたもの。奥にはその関連の商品があったが、そっちのほうがおもしろい。
ギャルリー東京ユマニテの向山裕は、相変わらず小動物をユーモラスに描いている。カモが雲の上から急降下する様子を描いた《失神》は、高く飛びすぎたため落下するところ。オシドリを真横から大きく描いた《私の彼》は、メスから見たオスの姿。ムササビが上下に重なってる《偶然》は、2匹のムササビが飛行したら文字どおり偶然に重なってしまったところ、だそうだ。おもしろい。ギャラリー川船の新野耕司は、ドライポイントによるポロックみたいなグルグル描き。地味だけど惹かれる。ギャラリーなつかのチョン・ダウンもドライポイントやエッチングを併用した版画で、稚拙に見えながら味がある。藍画廊のしばたみつきは、床から天井まで10本ほど粘土製のつっぱり棒を立てている。天井まで届いていないもの、途中でコブのあるもの、ひび割れて内部の芯が見えているものなど荒っぽい。奥の部屋にはワインかなにかのコルクを削って壷にした小品が並んでいて、なかにはそれらを縦につなげたブランクーシの《無限柱》みたいな小品があって、それはよかった。ギャルリーSOLの北嶋勇佑は、食べ物や玩具など身近なものを色鮮やかに刷った木版画を展示。きれいに仕上がっているけど、版画に留まらず油絵に挑戦してほしいなあ。
2018/07/23(村田真)
第7回 新鋭作家展 見しらぬ故郷/なじみの異郷
会期:2018/07/14~2018/09/02
川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]
同展は「新鋭作家展」という公募展をベースとし、そこで選出されたアーティストの作品プランを1年近くかけて学芸員と揉み、市民たちに揉まれながら地域と関係づけていくプロジェクト型の展覧会。ぼくも審査員の1人だが、選んだ作品がそのまま展示されるわけではなく、ヘタしたら揉まれるうちに原形をとどめないほど変わってしまうかもしれないという、審査員にとっても恐ろしい展覧会なのだ。今回(昨年)選ばれたのは津田隆志と力石咲の2人。
津田は川口市内を流れる旧芝川をフィールドワークしつつ、川面に映る街の風景を撮影した写真の展示を中心に、フィールドワークで得た資料や映像などを公開するプラン。結果はほぼプランどおり、いやプラン以上の成果を上げていたように思う。会場を2つに分け、最初の部屋で旧芝川から引き上げた2台の自転車、空き缶をピンホールカメラに仕立てて街の風景を撮った写真、水鏡に映った市民のポートレート写真などを展示し、次の部屋でメインの川面に映る風景写真を天地逆にして並べた。審査の段階では後者の風景写真だけで十分だと思ったが、川から引き上げた自転車や水鏡によるポートレート写真を導入することで、川面の写真がより身近に、よりおもしろく見られるようになった。
力石は街で見つけた日用品を毛糸で編みくるむ《ニット・インベーダー in 川口》をはじめ、《リリアン建築》《空気を編み包む》の3案を提案したものの、時間的な制約のため《ニット・インベーダー》のみ実施。街の鋳物工場でつくられた印刷機やマンホール、だるまストーブ、市民から借りたギターや太鼓などを黄色いニットで全部または一部を包んでいた。よくがんばりましたが、これが街のなかにあればインパクトがあるけど、なにがあってもおかしくないアートギャラリーに展示すると目立たず、ただの「作品」にしか見えない。彼女の作品はストリート・アートこそふさわしい。ただ、川口の建築写真の一部を黄色い毛糸で編み包んだ作品は、クリストの完成予想コラージュも彷彿させ、別の可能性を感じた。
2018/07/27(村田真)
大岩オスカール 光の満ちる銀座
会期:2018/07/21~2018/09/22
東京画廊+BTAP[東京都]
相変わらず絵を描いている。「相変わらず」には2つあって、よい相変わらずと悪い相変わらずだが、オスカールは間違いなくよい相変わらずだ。テーマは相変わらず都市や郊外、地球、環境問題などで、描写は相変わらずマンガチックかつペインタリー。今回のタイトルは銀座の老舗画廊で発表するせいか、「光の満ちる銀座」というものだが、絵に銀座らしき場所は登場しない。代わりに半分焼けてる郊外風景や、船の行き交う海原など。黄色い光のツブツブが花粉のように宙に浮かんでいるのは最近の特徴か。焼けてる風景と相まってフクシマ原発事故を想起させもする。
2018/07/27(村田真)
没後50年 藤田嗣治展
会期:2018/07/31~2018/10/08
東京都美術館[東京都]
本格的な回顧展としては、2006年の東京国立近代美術館での「生誕120年展」、2年前の名古屋市美術館での「生誕130年展」に続く大規模なもの。その間にも大小さまざまな藤田展が開かれており、それ以前に比べれば隔世の感がある。これは藤田の著作権を引き継いだ君代夫人が最晩年になって強硬な態度を軟化させ(2009年に98歳で死去)、戦時中の作品なども出品できるようになったことが大きい。2015年には東近が所蔵する藤田の全作品を公開、そこには14点の戦争画も含まれていた。そんなこともあって、近年では1920年代に人気を博したエコール・ド・パリのフジタより、凄惨な戦闘場面を描いた戦争画家としての藤田の評価が高まりつつあった。ところが今回は意外なことに、戦争画は《アッツ島玉砕》と《サイパン島同胞人臣を全うす》の2点しか出ていない。これは残念なことだが、でも前述のとおり戦争画は以前より比較的容易に見られるようになったため、あえて代表的な2点に絞ったと考えられる。
その代わり、今回はこれまで見たことのなかった作品がたくさん出ている。たとえば、学生時代に描いた生硬な《父の像》、「乳白色の肌」への移行期を示す《二人の少女》、シカゴ美術館から初出品される《エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像》、君代夫人がモデルになった珍しい《人魚》、《猫を抱く少女》の背景にも転用された《マザリーヌ通り》などだ。とくに今回は、ちょうど100年前の1918年に制作された作品が13点も出品されている。これは全体の1割強に当たる。この年は第1次大戦が終結した年だが、藤田にとってはパリで画家として認められた転換期であり、「当たり年」でもあるのだ。うがった見方をすれば、日本人が世界で通用するにはどうすればいいのか、なにが必要なのかをこれらの作品は示唆しているかもしれない。
出品点数は約120点。作品の所蔵先は海外だけでもポンピドゥー・センター、パリ市立美術館、ニーム美術館、カルナヴァレ美術館、ランス市立美術館、ジュネーヴのプティ・パレ美術館、シカゴ美術館などフランスを中心に世界各地に広がり、個人蔵を除いても50カ所以上におよぶ。12年前の東近と2年前の名古屋市美はともに30数カ所だったので、幅広く借り出していることがわかる。最後に付け加えると、今回の「没後50年展」は当初、六本木の国立新美術館でやるか上野の東京都美術館でやるか迷ったそうだが、都美は戦争画をはじめ藤田がしばしば作品を展示した場所だし(というか、都美以外に発表の場はほとんどなかった)、藤田の母校である東京美術学校(東京藝大)も隣接していることから都美に決まったそうだ。その東京藝大の陳列館では時期を合わせて「1940’sフジタ・トリビュート」展を開催。回顧展では戦争画が少なかった分、こちらで補えたかな?
2018/07/30(村田真)
試写「太陽の塔」
太郎にゆかりの研究者、学芸員、万博関係者、芸術家らへのインタビューに昔の映像を織り交ぜ、多角的な視点から「太陽の塔」に迫る。どっちかというと造形面より思想的な背景が語られる。太陽の塔から縄文へ、アイヌ、沖縄、民族学、バタイユ、マンダラ、チベット仏教、南方熊楠、粘菌へとテーマは連想ゲームのように広がっていく。おもしろいけど、風呂敷広げすぎ。インタビューされたのは平野暁臣、赤坂憲雄、中沢新一、椹木野衣、関野吉晴、糸井重里、Chim↑Pomまで25人におよぶ。これも多すぎ。あれこれ詰め込みすぎ。映画長すぎ(112分)。90分でよかった。
興味深いのは、だいたいみんな太郎に関しては同じような意見を持っていること。だれかの意見を、最後のほうだけ別の人の結論につなぎ合わせても違和感がない。みんな似たようなことを考え、みんな太郎を神格化している。でもこれって、太郎がいちばん嫌ったことじゃなかったっけ? 「太陽の塔」に対して「みんな深読みしすぎ。あれはできそこないの裸の王様」とかいうやつはいないのか。もっと異論を差し挟んだり、ケンカになったり、映画自体が空中分解したほうが太郎にふさわしかったのではないか。
2018/08/03(村田真)