artscapeレビュー

児玉北斗『Trace(s)』

2017年04月01日号

会期:2017/03/02~2017/03/05

トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]

現在、ヨーロッパで起きていることと日本で起きていることは、かなり違いがあるようだ。かつて(20年以上前)は、ヨーロッパで起きていることは大抵の日本人にとって摂取すべき価値あるものに映っていたが、いまはそう無条件に思うことは難しくなった。フォーサイスやバウシュのような巨大な存在が新たに台頭することはなくなり、小粒の作家が多数出現している状況は、よく言えば多様なのだが、それぞれは「追従すべき存在」というよりはあれもあればこれもあるのひとつでしかない。強い求心力を形成するカリスマが不在だからといって、自分流に固執するだけでは振付家は自家中毒になりかねない。指針が見出しにくいというのがいまの日本のダンスの現状だ。さて、スウェーデン在住の児玉北斗のソロ新作を見た。輝かしい経歴、バレエの分野で研鑽を積みつつ、コンテンポラリー・ダンスの作家たちとの交流も重ねてきたダンサーだ。きっと自分のダンススキルを存分に発揮する上演になるのだろうと想像していたら、そうではなかった。「レクチャー・パフォーマンス」の体裁がベースとなっており、蒸気機関の先駆者のひとりワットや、世界の水事情、あるいは火星に水が存在していたかもしれないといった話題が取り上げられた。レクチャーはすなわち「水」というテーマをめぐっており、パワーポイントなどのプレゼン装置を用いてテーマは多角的に掘り下げられた。日本ではレクチャー・パフォーマンスの形態はまだ十分に活用されているとは言えず、その意味で、児玉が創作の現場としているヨーロッパの環境を想像させるところがあった。じつに精緻に、ニーチェやデリダなどの思想家の考察も交えて「水」への考察は深められてゆく。児玉はプレゼンテーションの装置を操作しながら、踊る。と言っても、踊りの部分はほとんど禁欲的に制限されていて、身体はときにオブジェ的に、ときに被検体として扱われた。得意技を封印してもコンセプチュアルな舞台を作り上げたいという意気込みを感じる。欲を言えば、「水」と児玉の「身体」とがもっと密接に絡まり合うところがあれば、「レクチャー」と「パフォーマンス」の響きあいがもっと生まれただろうと思わされた。アイテムにペットボトルが頻繁に用いられていたが、人間の身体はまさにペットボトルみたいなものだ。「空っぽの器としての身体が踊る」なんてイメージがシンプルに明確に打ち出されたら、ダンス公演として際立ったものになったかもしれないと想像した。

2017/03/02(木)(木村覚)

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